精神科医、解剖実習を思い出す(後編)
<前編のあらすじ>
【鹿冶梟介、麻痺する】
“腕神経叢事件”の後、鹿冶梟介もBも予習して解剖実習に臨む様になった。
教員から怒られたこともあるが、それ以上にご献体に対してとても申し訳ないと感じたからだ。
「解剖実習の手引き」を前日読み込むことで解剖もスムーズに行うことができ、口頭試問で狼狽えることも無くなった。
何よりもこうやって人体について深く学ぶことこそがご献体への供養になるということが今更ながら分かったのだ。
…とはいうものの、解剖も佳境に入ると重労働になる。
特に骨盤内の臓器摘出、双鋸による脊柱管の露出、鋸とノミによる頭蓋冠の開放…といった行為は、”解剖”というよりは”解体”という言葉がふさわしく、多大な労力を要する作業であった。
季節は梅雨。
解剖室内は冷房が効いていたが換気のために窓は開けられ、湿気をたっぷりと吸った外気が嘲笑うかのように解剖室の不快指数を跳ね上げる。
加えて献体から漂うホルマリン・フェノール臭は、医学生たちの思考力をたやすく奪っていく。
『人間を解体し、それをひとつひとつ具に観察する』
解剖室という場でなければ、これは人倫にもとる禁忌である。
おそらく疲労・高温多湿・刺激臭という過酷な環境こそが、医学生たちの背徳感を麻痺させるのに必要な条件であったのだろう。
当初は白衣、エプロン、ゴーグル、マスク、ゴム手袋のフル装備で実習に臨んでいた学生たちも、そのうちエプロンやゴーグルを外し、中には素手で臓器に触る学生もいた。
以前は実習の合間にとる昼食は軽く済ましていたが、この頃にはホルマリンの匂いが染みついた服を着たままでもたらふく喫食できるようになっていた。
しかし、思い返すと学食で同席していた他の学生達はどう思っていたのだろう…。
「変な匂いがする集団」を訝しがり、席を遠ざけることはなかったのであろうか。
そんな気遣いを忘れるほど、当時の鹿冶梟介は麻痺していたと思う。
【精神科医、覚えていない】
その日の実習は「頭部」の解剖であった。
「前編」で宣言した通り、精神科医は脳の摘出担当となったため頭部の解剖を任された。
頭部の解剖のためにはまず頭部を切り出す。
平たくいえば”生首"をこしらえる必要がある。
頭部の切断の手順は、まずノミで第一頚椎(環椎)と上位頚椎の椎弓を切り、脊髄硬膜を露出させる。
そしてこの脊髄硬膜を第三頚椎の高さまで切り開くと脊髄が現れるので、この脊髄の第1-3頸神経の”根”を切り、脊髄を取り出す。
頸部周辺の組織(筋肉、靭帯など)を観察したのち、環椎のすぐ下で歯尖靭帯と翼状靭帯を切断すれば、頭部が頸部組織と環椎をつけたまま完全に軸椎からはずれる。
このように頭部を切り出すという作業は思いの外難儀であり、生首が出来上がった時にはある種の達成感があった。
頭部に巻いてあった包帯も一連の作業中いつの間にか解かれていた。
不思議と思われるかも知れないが、精神科医は献体のご尊顔をあまり覚えていない。
そして、はじめてその顔を拝した時に何かしらの感慨が生じたか否かも定かではない。
解剖実習が始まった頃は"包帯で覆われた顔"をとても意識していたはずだが、頭部の解剖をはじめる段になると顔を顔として認識しなくなったようであった。
人間は通常、人を人として認識する際に「顔」の情報を重視する。
しかし、解剖という背徳を受け入れるためには、「顔を認識する」という機能は妨げとなる。
"ゲシュタルト崩壊*"という知覚現象があるが、これに類似した現象が頭部解剖時には起こり、そのお陰で自分は正気を保ていたのでは…。
精神科医はご献体の顔を思い出せないことについて、そんな風に解釈している。
【鹿冶梟介、安堵する】
実習も終盤に差し掛かかるころの話である。
「なぁ、みんな。こんな噂を知っているか?」
Bが頭部の解剖をしながら皆に聞いた。
"またBの与太話か?”と皆が軽く流していると、
「解剖実習がきっかけで、退学になったヤツがいたらしいね」
その言葉を聞き、皆の手が止まった。
「あっ、俺もその話はちょっと聞いたことある。●●大学の話でしょ?」
普段寡黙なEが話に乗ってきた。
「えっ?何、何?」
この手の話には乗ってこないAも興味津々の様子。
「そうそう!先輩から聞いた話だけど●●大学でさ、解剖実習中に献体の耳を切断して、それを壁にひっつけて”壁に耳あり”っていうギャグをかましたヤツがいたそうだよ。そんで、タイミング悪くその場面を教員が目撃して退学になったってさ」
「マジか…(一同)」
皆が騒然とした中で、Dだけ無言だった。
Dは検体から切り取った耳介を手にしてじっと見つめていた。
「これを壁にくっつけたら、僕は退学になるのですね… 」
マスクをしていたので表情はよくわからないが、Dは死んだ魚のような目をしていた。
「Dさん、大丈夫ですか?」
Aが思わず声をかける。
Dは2年留年した学生でAの部活の先輩でもあったことから、皆から「さん」付で呼ばれていた。
じっと手にした耳介を見つめるDがどのような行動をとるのか…、医学生たちは固唾を呑んで見守っていた。
すると…、
「鹿冶君、もう観察し終わったから次は君が見なよ」
Dはやおら耳介を鹿冶に手渡し、すぐに次の作業に入った。
「あ...、は、はい!」
鹿冶だけなく、他の医学生たちも安堵の表情を浮かべた。
【精神科医、”キモい"と言われたことを思い出す】
話は前後するが、精神科医は解剖実習のエピソードをもう一つ思い出した。
ある日のこと医学生たちが解剖をしていると、俄に周囲がざわつきはじめた。
何事かと思い騒がしい方に目を向けると、ゾロソロと若い女性たちの集団が解剖実習室に入ってくるではないか。
「あ!(サッカー部の)マネージャーがいる。看護学科の実習見学だね」
Aが手を振ると、一人の看護学生が軽く会釈してみせた。
この大学では看護学科の学生らは解剖実習はせず、医学生らが解剖している様子を見学することがカリキュラムに組み込まれていた。
「なあ、あのマネージャーって色白で可愛くね?お前の彼女?」
Bが忌憚のない質問をAに浴びせる。
「バカ、あれは先輩の彼女だ。変なこと言うなよな!」
おずおずとしながら4人の乙女たちがご献体と医学生たちに近づいた。
「はい〜、では各グループで、今解剖している臓器の説明をしてあげてください〜」
指導教員の頓興な号令のもと、医学生たちは看護学生に臓器を片手に説明しはじめた。
当時のカリキュラムでは医学生と看護学生の接点はほとんなく、この解剖実習の見学のみが唯一の交流の場であった。
解剖という非日常と看護学生という非日常が重なったせいか、医学生たちも妙な盛り上がりを見せた。
誠に不謹慎な話であるが、医学生と看護学生の出会いのきっかけのように思ったのも事実である。
事実、この時に看護学生と電話番号を交換した医学生もいた。
Aは片肺を手にして、マネージャーに右肺と左肺の構造の違いについて説明し始めた。
Bは額にびっしょり汗をかきながら、盲腸がどこにあるかをレクチャーしていた。
余談だがBは緊張するとたくさん汗をかく体質であり、彼が汗をかき始めると皆が「B、焦っとるな…」と簡単に分かった。
鹿冶の所には髪を"金色"に染めた派手目の看護学生が来た。
完全に偏見ではあるが、当時髪を染めている学生は数えるほどしかおらず、金髪はいわゆる"不良"や"水商売"というイメージが強かった。
このため鹿冶は金髪の看護学生に心理的距離を感じた。
金髪学生もそれを気取ったのか、鹿冶の説明にはあまり積極的な態度を見せなかった。
「これが左冠状動脈で、こっちが右冠状動脈。いずれも上行大動脈の根元から出て、心臓に酸素と栄養を与えています」
軽く顎を上げ一瞥すると、金髪は「ふーん」と言った。
木で鼻をくくるという表現ががぴったりであった。
看護学生の薄いリアクションに戸惑いながらも、鹿冶は心臓を手にしながら説明を続けた。
「それからこうすると心房と心室の間にある、三尖弁と僧帽弁が見えます。大動脈とこれらの弁が囲む結合組織を右線維三角… 」
「キモいですね」
「はい?」
恥ずかしながら、当時の鹿冶は「キモい」という言葉を知らなかった。
「”キモい"ってどう言う意味ですか?」
「気持ち悪いって意味。人の死体を見るのも、触るのも…」
この時の心境を表現するに"カチンときた”という言葉以外に適切な表現はないだろう。
「そうですね。僕も最初は気持ち悪いと思ったのですが、案外慣れるものです。手袋がありますから、触ってみます?」
そう言って心臓を差し出すと金髪は首を横に振り、その後は何も喋らなくなった。
「…まぁ、あれが普通の反応(リアクション)だよな」
精神科医は、ブルゴーニュグラスに注がれた赤ワインを軽くスワリングしてみた。
今思い返すと、あの看護学生の反応は極めて正常であったと思う。
【精神科医、冥福を祈る】
さて、ここからは精神科医が体験した解剖実習時のエピソードとは全く別の話であるが、思い出したので紹介する。
精神科医が解剖実習を終えてから2年後悲しい知らせがあった。
高校時代に同じクラスだったF君が交通事故で亡くなったのだ。
“交通事故"と言ってもF君に責任があったようで、飲み会後に泥酔し道路で寝ていたところを車で轢かれたらしい。
F君は野球部のキャプテンをしていたスポーツマンで、現役時代は正直言うとあまり学業優秀ではなかった。
しかし、彼には医学部に進学して"スポーツドクターになる"という夢があり、受験勉強時は鹿冶に数学の解法についてよく質問をした。
強豪校ではなかったが野球部をまとめ県大会ベスト8まで導き、また体育祭では応援団のリーダー役を買い大いに盛り上げたのはF君だった。
勉強はそれほど出来なかったが、明るく前向きでガッツのあるF君を鹿冶は同級生ながら掛け値なく尊敬していた。
努力の甲斐あってかF君は2年の浪人生活の末、某私立大学の医学部に合格した。
合格発表のあった春先、本当に偶然であったが帰省していた鹿冶は電車内でF君と再開した。
「鹿冶君!久しぶりだね。僕も医学部に合格したんだ!高校の時は、本当にお世話になったね」
少し混み合った電車内での会話であったため、詳細は覚えいていないがだいたいこんな話をしたと思う。
「そう言えば、鹿冶君は精神科医になりたいんだっけ?僕は絶対スポーツドクターになるよ。アスリートって、体のことだけじゃなくメンタルも大切になってくると思うよ。将来、一緒に仕事ができるといいね!」
こんな話をしたか否か…、もはや精神科医の妄想追想かもしれない。
F君の葬儀は医学部の定期考査の真っ只中に行われたと記憶している。
このため遠方にいる鹿冶は葬儀には参加せず、高校時代の同級生Gさんに香典を託けた。
後日、Gさんから葬儀の様子について聞くこととなった。
同級生は地元・隣県の学生のほとんどが参列したそうで、中には関東からわざわざ帰ってきた学生もいたそうだ。
Gさんの話によると葬儀ではF君の遺体はなく、”遺髪”のみが祭壇に置かれていたとのこと。
遺族の話では、F君は入学時に献体ドナーとして登録していたため、遺体は所属する大学に保管されているそうだ。
なるほどF君らしいと当時は思った。
しかし、医師になってから解剖学者の知人より「事故で亡くなった遺体は献体にはならない」という話を聞き愕然とした。
確かに解剖実習においては五体満足な遺体が望まれる。
ひょっとすると献体というのは嘘で、F君の亡骸は別のところに…。
今となっては確かめようもない。
F君の冥福を祈るばかりである。
【まとめ】
【参考文献】
ネッター解剖学アトラス
【こちらもおすすめ】
記事作成のために、書籍や論文を購入しております。 これからもより良い記事を執筆するために、サポート頂ければ幸いです☺️