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蓮舫の敗北と「丸山真男主義」の終わり

「市民=サヨク」という思い込み


都知事選の蓮舫の惨敗で、

「ああ、左翼もいよいよ終わりだなあ」

という感想を、多くの人がいだいたと思います。


マスコミも「市民」という言葉の使い方、そろそろ変えたほうがいいね。

「市民」とは、マスコミ的には、「無党派の左派」をあらわします。

無党派の右派団体は「右翼団体」だけど、無党派の左派団体は「市民団体」と言う。これはマスコミの決まりごとですね。


今回の蓮舫の出馬にも「市民連合」というのがからんでいた。

中身は、山口二郎とか、いつもの左翼の人たちですけどね。

でも、「市民連合」という名前をつけ、マスコミもそれをそのとおり報じるのは、そういう決まりごとがあるからです。


その背景には、無党派層には左派がたくさんいる、という、まあ前提があったんです。

とくに東京のような都市部は、大量の無党派の左派票を当てにできる、という、思い込みのようなものがある。

それが、事実において反証されたのが、今回の都知事選でした。

無党派層は、東京においても、左派ではない、ということ。

もう何度も反証されてるんですけどね。

それは、「市民」すなわち無党派層はサヨクにちがいない、という前提がなくなっている、ということです。


むかしは確かに、田舎は右派=自民党支持で、都会は左派=革新支持、という図式がありました。

だから、東京には革新都政があった。

都会には意識の高い人が集まっている→意識の高い人は田舎の人みたいに利権で動かない(偏見)→だから反自民で革新政党に投票する、みたいな。

実態は、「意識の高さ」は関係なく、都市と地方の格差の問題でした。

むかしは、「地方は自民党が面倒を見て、都市は企業が面倒を見る」と言われた。都市の人は、都市にある企業が高給を払うからいいけど、地方の人は、自民党が利益を誘導しないとおカネが入ってこなかった。

でも、そういう図式は、小泉純一郎の頃には、もう終わっています。

地域によって自民党が強かったり、野党が強かったりするけど、都市が革新、田舎が保守、みたいな図式はもうない。

今の東京でも、左派が強いのは、多摩地区とか、こう言っちゃ悪いけど田舎の方ですね。


ゾンビと化した丸山真男主義


それでも、進んだ「市民」は左派にちがいない、いや、左派であるべきだ、という考え方だけが、しつこく残っている。

これは、「丸山真男主義」なんです。

「丸山真男主義」は、現実社会ではとっくに死んでいるけど、マスコミとアカデミズムにだけ残っている。まるでゾンビです。


丸山真男主義とは何か、と言えば、次の3ヵ条だ、とわたしは以前書きました。


1 知識人は共産主義に理解を示すべきだ

2 しかし知識人は共産党に入る必要はない

3 大衆は知識人の指導を受けなければならない。


現代の代表的な丸山真男主義者といえば、前川喜平みたいな人ですね。

意識の高い知識人は「反自民・共産シンパ」であるべきだ、と考える前川は、その知識人たちの指導に従わない国民を「愚民」とののしりつづけるわけです。

わたしは、上の文章で、丸山真男主義の「害」もまとめました(引用にあたって、一部改変)。


1 丸山主義は、あくまで知識人の覇権を目指すものだから、無教養な労働者含めた非知識人層・庶民に冷たく、彼らに主導権を取られることは決して容認しない。(愚民主義。国民投票を嫌う)

2 丸山主義は、醒めた知識人の醒めた国家観しか持たないので、愛国心とか日本人のアイデンティティーなどに興味がなく、むしろ戦中の右翼を連想させるそれらを嫌悪する。(無国籍主義。安全保障への無関心)

3 丸山主義は、みずからリスクを取って戦うことはない。安全地帯から大衆を操ろうとするだけである。(日和見主義)


その思想の根本にあるのは、「右翼嫌い」です。

どうせ殺されるなら、右翼に殺されるより、左翼に殺されたほうがいい、みたいな。

そのくらいの右翼嫌い。


以前から書いているように、だから、マスコミやアカデミズムの「左翼偏向」というのは、左翼が好きというより、右翼が嫌い、という動機から生まれている。

右翼を利するくらいなら、左翼の味方をする、というーー。


わたしのような常識人からすれば、右翼も左翼も、迷惑ですよ。

べつに、どっちもいていいけど、「嫌い」というなら、どっちも同程度に嫌いです。


わたしの場合は、どっちかというと、右翼より、左翼のほうが嫌いかな。

だから、まあ、わたしは、マスコミの中でいじめられた。(いじめられて、ますます左翼が嫌いになった)


しかし、「左翼よりも、右翼を嫌え」という丸山真男主義が、大学やマスコミの教義です。

はっきり言って、この教義の信者でないと、大学では教授になれず、マスコミ企業では役員になれません。

そのくらい強力な宗教です。


結局は戦中派の私怨


なぜ、このような「丸山真男主義」が、戦後思想の正統教義になったのか。

なんでみんな、丸山真男なんかを有り難がるのか。

ほかに学者はいないのか、と思うけど。


関曠野は、『なぜヨーロッパで資本主義が生まれたのか』で、戦後の左翼は「時代錯誤」をずっとつづけてきた、と書いています。

実はいま、この文章を書いているのは、数日前に三島由紀夫の「鏡子の家」論を書いたとき、参照した関の本に、丸山真男のことも書いてあったからなんですけどね。


関はこう書いている。

左翼の理論では、資本主義は窮乏化するはずなのに、社会はどんどん豊かになってしまった。

だから、いろんな言い訳で、「でもやっぱり左翼が正しい」といいつづけ、矛盾をごまかしつづけなければならなかった。


左翼のドグマは歴史によって完全に反証されてしまった。そこで左翼は生き延びるために国民の戦争アレルギーにつけこみ、反戦平和を売り物にすることにした。

丸山真男など戦後思想家といわれた人びとにも同じことが言えます。彼らは、結局、大正デモクラシーの中で育って昭和の軍国主義と戦争の狂気にショックを受けた戦中派なのです。だから彼らは六〇年代高度経済成長期以降の消費社会に対して何ひとつまともな発言ができませんでした。

(『なぜヨーロッパで資本主義が生まれたのか』p250)


結局、丸山の場合、根底にあるのは、戦時中、東大法学部教授が右翼学生に吊し上げられた、その私怨です(これは竹内洋も指摘している)。

戦時中、リベラル傾向のある大学教授は右翼から攻撃され、とくに東大法学部が標的になった。

「オレは、東大法学部教授なのにいっっ! バカな右翼学生にイジメられたあっ! くやしいっっっ!」

ていう怨念ね。

右翼だけは許せん、という。

その丸山の私怨が、アカデミズムに浸透し、大学出のマスコミ人に伝染している。

だから、右翼を利するくらいなら、戦後思想の虚妄に殉じるーーそれが丸山真男主義ですね。(ちなみに、山口二郎は東大法学部の丸山主義の継承者です)


でも、そういう知識人の吊し上げは、中国の文化大革命で、もっと派手に起こっている。

Netflixの「三体」で見た人は多いでしょう。

カンボジアのポルポト革命では、知識人は問答無用で殺されている。

それをやったのは「左翼」ですよ。右翼ではない。


でも、日本の知識人は、いまだに「右翼」だけを憎みつづける。

いろいろおかしいんですよ、丸山真男主義は。


まあ、蓮舫の惨敗を機に、そのおかしさに気づいてほしいなあ。

これまで気づかないのだから、もう無理かも、だけど。



<参考>






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