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【夏休みに是非!】三島由紀夫の不遇の傑作「鏡子の家」を読もう なぜ不人気で、なぜ理解されないのか

来年生誕100年を迎える三島由紀夫の不遇の傑作「鏡子の家」(1959)の再評価をせまりたい。

「鏡子の家」は三島の最高傑作の一つなのに、なぜ不人気で、なぜ理解されないのか。

わたしの論旨は以下のとおり。

・「鏡子の家」は、1950年代日本の文化的豊穣を描き、1960年代高度成長の虚無を正確に予見した傑作。

・これが理解されなかったため、「鏡子の家」は「豊饒の海」に書き直された。ともに戦後日本のエートスの危機を描いたものだが、「鏡子の家」のほうが優れている。

・「鏡子の家」が理解も共感もされないのは、結局、日本人が戦後の高度成長を肯定しつづけているからである。

長いので、水分を補給しつつお読みください・・



三島最大の「失敗作」


1954年に29歳で「潮騒」を、1956年に31歳で「金閣寺」を発表した三島は、戦後文壇の旗手としての評価を、国内外で確立した。

1957年は自作のNY公演のため滞米、帰国後の58年に結婚し、34歳の三島が1959年、「金閣寺」を超える作品として、世に問うたのが「鏡子の家」だった。


だが、「鏡子の家」は三島の「初めての失敗作」(山本健吉)、「完全なる失敗作」(江藤淳)とされ、圧倒的に不評だった。現在もその評価をくつがえせていない。

天才の最初にして最大の挫折であり、彼の自死までのその後10年は、この失敗を取り戻すための日々になったと言ってもいい。

死の3年前、1967年の段階で、三島はこんな恨み節を言っている。


『鏡子の家』でね、僕はそんなこというと恥だけど、あれで皆に非常に解ってほしかったんですよ。それで、自分はいま川の中に赤ん坊を捨てようとしていると、皆とめたいかというので橋の上に立っているんですよ。誰もとめに来てくれなかった。それで絶望して川の中に赤ん坊投げ込んでそれでおしまいですよ。僕はもう。あれはすんだことだ。まだ逮捕されない。だから今度は逮捕されるようにいろいろやっているんですよ。しかし、あの時の文壇の冷たさってなかったですよ。僕が赤ん坊捨てようとしているのに、誰もふり向きもしなかった。そんなこと言うと愚痴になりますがね。僕の痛切な気持ちはそうでしたね。それから狂っちゃったんでしょうね、きっと。

『映画芸術』1967年1月号(井上隆史『豊饒なる仮面 三島由紀夫』2009年、新典社 P161の引用より)


三島由紀夫(wikipediaより)


「鏡子の家」あらすじ


ものがたりの起点は1954年(昭和29年)。ブルジョア夫人の鏡子は30歳。不仲な夫を追い出し、東京・信濃町の一軒家に、8歳の娘・真砂子と暮らしている。

鏡子の家は、偶然知り合った若者たちの溜まり場となる。主要なメンバーは男4人。最年少の峻吉は大学在学中だが、ほかは大卒の20代。

みな人生に早くも退屈しているが、それぞれにストイックな信条を持ち、お互いの人生に干渉しないルールを守っている。

「峻吉」は大学の拳闘部で、やがてプロボクサーとしてデビューするが、悲劇的な経緯から、最後は右翼団体の構成員になる。

「収(おさむ)」は劇団の2枚目俳優だが、家業が傾いたのをきっかけに高利貸しの悪女と付き合い始め、悲惨な最期を遂げる。

「夏雄」は新進の画家で、唯一の童貞。平田篤胤流の神秘思想にハマっていく。

「清一郎」は鏡子の古い知り合いで、財閥系商社のエリート会社員。副社長の娘と結婚し、ニューヨーク支店に栄転して、鉄鋼業界の機械輸入に携わっている。順風満帆を絵に描いたような人生だが、世界の崩壊が近いことを固く信じていた。

ものがたりの開始から2年後、清一郎が予感した破滅が、ある形をとるところで、ものがたりは終わる。


「失敗」の要因


作品の魅力を語るのは後回しにして、まず欠点を語ろう。

この作品が失敗とされた要因は二つある。


一つは技術的な問題だ。「鏡子の家」は400字約1000枚の大作で、新潮社から書き下ろし上下(第一部・第二部)2巻で出た。

しかし、物語が動き出すのは後半からで、前半、最初の1巻は、ほぼ4人の若者の紹介に充てられる。それが、多くの読者には面白くなく、退屈すぎた。

一般に三島の作品は、最初は面白くなく、後半からグイグイと面白くなる。これは、三島の方法論の必然で、三島自身がこう解説している。


私の小説は、訴訟や音楽と同じで、必ず暗示を含んでごくゆるやかにはじまり、はじめモタモタして、何をやつてゐるかわからないやうにしておいて、徐々にクレシェンドになつて、最後のクライマックスへ向かつてすべてを盛り上げる、といふ定石を踏んでゐる。私にとつては、これがすべての芸術の基本型だと思はれるので、この形をくづすことはイヤである。

「私の小説作法」『毎日新聞』1964年5月10日夕刊


だが、上巻1冊まるまる「モタモタ」しているのは、いくらなんでも問題だった。

その原因は、4人の登場人物を均等に、並行して描こうとして、叙述量が過多になったからであった。

この反省を踏まえて、三島は、4人を同時に描くのではなく、タテにずらして描く「豊饒の海」を構想する。


とはいえ、「鏡子の家」の前半は、構成上「長すぎる」咎はあっても、この作品にしかない、べつの魅力が横溢している。その長所はのちに触れる。

また、創作の絶頂期にある三島の言語表現は、美技の連続で、芸術的には退屈どころではない。

たとえば、わたしも会社の昼休みに何百回も通った、皇居お堀端のさりげない描写ひとつとっても、その見事さ、巧みさに、ただただ唸るしかない。


柳は青々として、濠をめぐる窄(せま)い草生(くさふ)には、密集したうまごやしの葉のあいだから点々とたんぽぽの花が秀でている。青黒い羹(かん)のような濠水の、水の芥(あくた)が角のところに集まったのは、汚れた絨毯が裏返しに漂っているかのようである。

『鏡子の家』新潮文庫版p46


「豊饒の海」の原型


「鏡子の家」の話とはズレるが、「鏡子の家」がどのように10年後の遺作「豊饒の海」に変身したのか、簡単に述べる。

「鏡子の家」の男たち4人は、「豊饒の海」で4人の主役に生まれ変わる。

エリート会社員の清一郎は第1巻「春の雪」の松枝清顕に、ボクサーの峻吉は第2巻「奔馬」の飯沼勲に、二枚目役者の収は第3巻「暁の寺」の月光姫(ジン・ジャン)に、画家の春雄は第4巻「天人五衰」の安永透に、それぞれ転生する。

豊饒の海全4巻


「鏡子の家」と「豊饒の海」は、三島が残したただ二つの「全体小説」である(もう一つ加えるとすれば、習作としての「禁色」)。

世界や時代の多元性を一つの作品に描く「全体小説」を構想するとき、三島にはなぜ「4人」必要になるのかは分からない。

ただ、この4人は、どちらの作品でも、マトリックスの4つの象限に明確に配置され、高貴と野卑、精神と肉体の対照をなすとともに、見る者と見られる者、主体と客体のドラマを展開させやすい配役になっている。

Ⅰ 高貴な精神(君・貴族)主 清一郎、清顕

Ⅱ 野卑な肉体(臣・武士)従 峻吉、勲

Ⅲ見られる客体 従 収、月光姫

Ⅳ見る主体 主 春雄、透


そして、このマトリックス上で対称的位置にある人物同士が、実は交代可能な近さを持つことも示唆される。


清一郎と収は何一つ似ていないのに、時々清一郎には、収が何を考えているのかわかるような気がすることがある。そういうときの収の無意識的な生き方が、清一郎の意識的な生き方の、単なる盾の両面のように思われることがある。……

『鏡子の家』新潮文庫版p53


三島が、こうした主と従、純粋な観察者と絶対的な服従者、主体と客体の交錯するドラマの中に、官能と陶酔を感じる人だったのは確かだ。

当時の作家は、みなサルトルの「嘔吐」の影響で、視線の対象化作用を意識して作品に取り入れていたが、三島はそれを、存在の不安といった否定面より、いっぽうで三島の考える日本文化の君臣の秩序と結びつけ、いっぽうで窃視や陵辱といった性的快楽と結びつけて描いた。

それはサド-マゾ関係と言っていい。両「全体小説」をくらべると、この間の三島と時代のかかわりの変化を反映して、「豊饒の海」は「鏡子の家」よりも、マゾヒズムに傾斜している。


いずれにせよ、三島の思想の中では、こうした主客のドラマの末に、(「豊饒の海」で援用される)仏教の唯識論の主客合一する境地が、小説と人生の目的地となる。それは、小説の主題とはべつで、三島のドラマツルギー(芸術の形式)である。

(このように述べたからといって、いまさら三島のセクシュアリティの特性を強調したいわけでも、まして「三島の芸術と行動の動機は性指向に還元される」と言いたいわけでも全くない。そうした性癖や傾きは、大なり小なり誰にでもあるもので、三島のそれも、余人の共感を一切阻むほど特殊ではない。)

主要登場人物4人を、同時的に配置するのではなく、タテの時間軸に沿って配置する「豊饒の海」は、前半の退屈から作品を救うという点で、「鏡子の家」より、技術的に成功している。

だが、皮肉なことに、「豊饒の海」はその代わり、後半が弱くなってしまった。これは、技術だけで解決できず、主題に関わる問題となる。


誤解された「ニヒリズム」


その主題に関わる問題が、「鏡子の家」が失敗したとされる二番目の、より大きな問題だ。

「鏡子の家」の主題が、読者に伝わらず、あるいは、共感されなかったのである。

「鏡子の家」の主題は、一般に、「ニヒリズム」であると言われる。

なぜなら、三島自身が、そう説明したからである。


主題は一口にいって”ニヒリズム”です……ぼくは”金閣寺”でもこれをある程度やったわけですが、あれは一人の人物に集中した形だった。こんどはそれを普遍化して時代を描こうとしたんです。これは前から考えていたのだが、二十世紀初頭のヨーロッパの精神状態はニヒルの一語につきるんですね。飯を食うのも、町でタバコを買うのもニヒリズムに支配されているような状態……日本にそんな大きなニヒルはなかったんだけれども、あの小説に描いた朝鮮動乱後の時代から同じようなものが出て来たと思うんですよ。

『南日本新聞』1959年10月29日 (井上隆史『豊饒なる仮面 三島由紀夫』p154より)


しかし、この「ニヒリズム」という説明が曲者だ。


まず、当時の三島は、つねに本心を語っていたわけではない。30そこそこの若手で立場が脆弱であると同時に、「金閣寺」の成功によってノーベル文学賞も狙える位置にあり、国内の文壇論壇のみならず、ある程度は海外も意識して、政治的にものを言っている。

そのような立場から、伝わりやすい言葉として「ニヒリズム」を選んでいる。

作品の背後にある、彼の考えは、ひとつには戦中からつづく「右翼思想」であり、それは「鏡子の家」にも盛り込まれているのだが、この時点で公表することは政治的にできなかった。それは、論理的に突き詰めればクーデター計画に結びつく。そんなことを言うわけにいかない。

少なくとも「鏡子の家」までは、三島はお行儀のいい発言だけをしている。


「鏡子の家」に登場する4人の男の中で、主役級であり、最も三島自身に近いのは、エリート商社マンの「清一郎」であることは明白だろう。

三島は、リアルな人生での自分の結婚さえも、物語中の清一郎の政略的な結婚として暴露的に描いている。

当時の三島は、小説中の清一郎のように、内心を隠して、誰にでも気に入られる言動をとっていた。清一郎は、三島の自虐的な自画像なのである。


ところでニヒリズムとは、何かが「ない(ニヒル)」状態であり、西欧のそれは、「神」のいない、倫理的に不確かな精神のあり方を指す。

三島の描きたかったのも、何かが欠落した精神のあり方であり、「普遍化」すれば西欧のニヒリズムと同じだが、実体は、戦後日本に特殊な欠落である。


まず押さえなければならないのは、その欠落は物質的な欠落ではないということだ。

それは精神的なもので、物質的な欠落、戦後の「焼跡的貧しさ」のようなものとは関係ないのだが、なぜか、それが混同されて、「鏡子の家」批評にも使われる。

現代の代表的三島研究者の一人、井上隆史の以下の評言が、その典型的な例だ。


失敗作と言われてもやむをえぬ欠点が『鏡子の家』にあったことは否めなかった。なによりも、『鏡子の家』が発表された昭和三十四(1959)年は岩戸景気と呼ばれる好景気の只中にあった。そういう時期にあって、焼跡時代に郷愁を覚え深いニヒリズムに囚われる人物を描くのは、あまりに時代の空気にそぐわぬことである。(中略)画家はともかく、ボクシング選手やエリート社員までもが、ホフマンスタールやサルトルが見据えた以上のニヒリズムに襲われているという設定は、高度成長期を生きる当時の読者には不可解な印象しか与えなかったのである。

井上隆史『豊饒なる仮面 三島由紀夫』P157、158


まず三島の世界観に、「景気」などは関係ない。「鏡子の家」でも、「景気」で万物が左右されるかのような、左翼的経済決定論を、あらかじめ嘲笑し、拒絶している。


「不景気」という言葉は、まず新聞の紙面から灰神楽のように舞い上がり、そこらじゅうにひろがり、空気を濁らし、物象の表面にふりかかり、その意味を変えてしまうのだった。たちまちにして、樹は「不景気な」樹になり、雨は「不景気な」雨になり・・

『鏡子の家』新潮文庫版p49


上の井上の批評が二重に的外れなのは、三島の世界観への無理解とともに、「高度成長期を生きる当時の読者」という時代錯誤も含まれるからである。

こうした誤解は、「55年体制」という用語(冷戦終了後の1990年代に日本の知識人層に流行した)を安易にもちいることからも生じる。

井上は、べつのところで、「鏡子の家」のニヒリズムを、こうも評している。


時代のニヒリズムとは、(中略)冷戦構造(および国内でこれに対応する、いわゆる55年体制)の固定化により経済的繁栄の追求以外の現実的選択肢をなんら持ちえなくなった日本の状況に由来するものである。

井上隆史『三島由紀夫「豊饒の海」VS野間宏「青年の環」』(2015、新典社)p28


55年体制と「経済的繁栄」が直接に結びつかないのはもとより、この用語によって、「鏡子の家」のものがたり時点(1954〜56)で、すでに「経済的繁栄の追求以外ない」状況が生まれたような錯覚を起こしている。

1950年代に「経済的繁栄の追求以外ない」政治状況は生まれていない。

そして、「鏡子の家」が刊行された1959年当時の読者にも、高度成長期を生きている実感はまだない。

それらは1960年以降の話(岸内閣の安保改定が1960年8月に施行され、池田内閣の所得倍増政策が同年12月に閣議決定)である。


「敵」の不在


では、三島の言うニヒリズム、「鏡子の家」で描かれている「欠落」とは何か。

実は、小説の冒頭近くで、三島は早くも種明かししている。

清一郎が会社の昼休み中に訪れる、二重橋前の楠木正成像を入念に描写する中で、作品の主題を明確にしているのである。


こんな古い忠君愛国の銅像が、あの占領時代をとおして、無事に生き抜いてきたのはふしぎに思われる。楠公よりも、馬があんまりよく出来ているので、馬のおかげで目こぼしをしてもらったのかとも思われる。事実、青銅のうすい皮膚の下には、勢いたった馬の若い競技者のような筋肉が熱く充血しているのが見え、血管の怒張もうかがわれ、人をしてこれほどの運動の昂奮のむかうところに、敵の存在を想像しなくては不自然だと思わせる力があった。しかし敵はもう死んでいた。かつて目に見え、確乎としており、同じ物具に身を固めていた現前の敵は、今は目にも見えず、永遠に遁走してゆく、ずっと狡猾な敵に化身して、銅像の馬首を見上げてぼんやり口をあけている田舎者たちの頭上はるか、あいまいな春の薄曇りの空を翔け去りながら、嘲笑っていた。

『鏡子の家』新潮文庫版p48


皇居外苑の楠木正成像(国民公園協会)


ここで述べられているとおり、この時代に欠落しているのは、サムライにとっての「敵」である。

直近では、英米その他と戦っていたわけだが、その敵は今や眼前からいなくなり、「永遠に遁走してゆく、ずっと狡猾な敵」に化身したのだ。

その「欠落」によって、馬の「若い競技者のような筋肉」は、占領期を生き延びたのがふしぎなほど、不自然な存在と化している。

この熱い筋肉と血をもてあましている「馬」の分身こそが、「鏡子の家」で描かれる4人の若者にほかならない。


したがって、「欠落」しているものは、若者たちの精神の中ではなく、「時代」の条件の中にある。

若者たち自身は、戦中と変わらず、占領期も生き抜き、精神も肉体も、充実しているのである。

この小説で描かれる風俗は、常識を逆撫でするようなものなので、若者たちの精神がデカダンス的に退廃しているように誤解されるかもしれないが、そうではない。

彼らは健康な若者たちであり、大卒の健康な彼らは、戦中ならば、士官候補となるような存在だっただろう。

しかし、彼らの内なる昂奮に釣り合った、向かうべき相手、敵がいない。

そこで起こる青年の渇きに似た状況を、三島は「ニヒリズム」と呼んでいる。


「戦中の人」


この場合でも、三島の作品を理解するには、三島が「戦中の人」であったことをしっかり踏まえることが重要だ。

なぜか読者だけでなく批評家までも、三島を「戦後作家」と考えたがる。

しかし、三島の最後の10年の行動を知っているわれわれは、三島が戦中からの連続で生き、その世界観で書いたことを知っているはずではないか。

人は、三島は戦後派だが、あえて戦中の世界観で「反時代性」をひけらかしたかのように考えたがる。

そんなふうにひねくれて考える必要はない。

三島由紀夫は、文学上はもちろん近代主義者でありながら、日本の戦前戦中の世界観で生きた人である。

日本人は1945年を境に心をすっかり入れ替えたわけではない。

少なくとも1950年代まで、多くの人は戦中の世界観で生きていおり、三島も例外ではない、というだけだ。

わたしは、火野葦平という、もう一人の戦後を生きた「戦中」作家も読んでいるから、よく分かる。

戦中の世界観というと、戦後のわれわれは、すぐ軍国主義とか排外主義とかを連想して悪いもののように思うが、それこそ戦後世代の偏見で、戦前の日本人への侮辱でもある。

たしかに悪いものもあったかもしれないが、現在のわれわれにないいいものがあり、それがとくに、三島の作品を現在のわれわれに魅力あるものにしている。

さらにもう一つ、つけ加えるとすれば、彼はブルジョア階級の作家であり、それゆえに上流の文化と風俗を描きえた。

それも、作家が誰でも持っているわけではない特権だった。


1950年代の豊穣


「鏡子の家」は、1950年代の終わり、1959年に出た。

50年代とか60年代とかいう言い方は、キリスト暦を10年で区切っているだけで、連続的に流れる歴史の本質とは本来関係ない。

だが、この「鏡子の家」を論じるさいは、この10年区切りが、ぴたりとはまる。

1950年代の終わりに出た「鏡子の家」が、1950年代の気分を正確に記録した点、そして1960年代を正確に予見した点に、その傑作たるゆえんがあるからだ。

それができたのも、三島が戦中からの連続で、日本を観察しつづけたからであった。


しかし、1950年代と60年代はどうちがうのか。そのちがいを記憶する人が、もう少なくなってしまった。

ビートルズや学生反乱、ベトナム反戦などの1960年代は、カラー映像とともに今に連続するが、モノクロの時代である1950年代は、社会的記憶のはるか遠くに追いやられている。


1960年代以降生まれの多くの人は、高度成長前の1950年代を、漠然と貧しい時代としか思っていないだろう。

だが、1950年代は、文化的には豊穣な時代であり、可能性に開かれた時代であった。そのことが意外に忘れられている。

その時代に青春を送った思想史家・関曠野は、こう言っている。


社会にいろいろ偏見や歪みはあったにせよ、それなりにしっかりと落ち着いた日常があった一九五〇年代の日本が、六〇年代の高度成長と共に一挙に別な日本に変わっていった。まず、それですね。この急激な変化はには構造的暴力という印象しか持てなかった。

一九五〇年代のとくに後半の日本は、ある意味では、小春日和のようなというか、しっかりとした落ち着いた日常があったように思います。戦災から復興し、まだ公害問題も起こっていなかったし、貿易摩擦もなかった。映画でいえば、小津安二郎の描いた世界です。

それが六〇年安保闘争の後、池田内閣が所得倍増政策を推し進め、経済は高度成長期に入っていく。日本はそれでみるみる変わっていった。私にはこれは構造的暴力としか思えなかった。つまり、上からの強引な近代化でした。高度経済成長は民衆の要望などでは決してなかった。エリートが上から勝手にやったことなのです。これは当時を知る世代として証言しておきますが、当時の庶民が、日本が高度経済成長で豊かになることを要望したといったことはありません。激変していく社会に適応せざるをえなかっただけです。

関曠野『なぜヨーロッパで資本主義が生まれたか』NTT出版、2016年 p266、p121 


1950年代は、小津安二郎だけでなく、溝口健二の「雨月物語」(1953年)、黒澤明の「羅生門」(1950年)、「七人の侍」(1954年)を生み、「鉄腕アトム」(1952年)を生み、「ゴジラ」(1954年)を生み、他ならぬ三島の「潮騒」も「金閣寺」も生んだ。梅木美代志が日本人初、アジア人初のアカデミー賞を取ったのは1957年。

1958年、アメリカNBC放送でジャズを弾く秋吉敏子


ちなみに、湯川秀樹が日本人初のノーベル賞を受賞したのは1949年、のちにノーベル賞をとる川端康成の代表作「雪国」が完成したのは1947年だった。


この1945〜1960年までの日本を、「焼跡・闇市」と「朝鮮特需」くらいでしかイメージできなくなっているとすれば、大きな問題だ。

マスコミにはびこる「松本清張史観(暗黒史観)」では、帝銀事件とか下山事件とか、謀略的な事件ばかり起こっている印象になる。

しかし、この期間は、日本史でも稀なほど文化的に豊かな時代であり、その只中に、時代の代表選手として、三島由紀夫が立っていたことを忘れてはならない。

1960年代以降、日本文化は目立ってアメリカに汚染されていくが、この1945〜60年のあいだは、溝口の「雨月物語」に象徴される、日本オリジナルの文化的精華が目立った。

ゴジラや手塚漫画のように、それが現在の「クールジャパン」の淵源となっている。


なるほど、この時代は、1960年代以降とくらべると貧しく、貧困層の若者は愚連隊化して荒れていたかもしれない。

だが、「鏡子の家」で描かれる中流以上の層の若者は、その稀にみる文化的な豊かさを享受していた。


この時代のニヒリズムとして、「敵」の不在を上に挙げたが、それは文化的には、自由と解放を意味していた。

戦時に文化を統制した軍部は、1945年に消滅した。

そして、その後の文化を検閲した米占領軍は、1952年の講和で立ち去った。

その間、公職追放その他で、旧権威は失墜している。

サンフランシスコ講和条約発効の1952年から、日米安保改定の1960年まで、日本の文化は、これまでの重圧から解放されて、戦中にたくわえていた新鮮な力を放出したのである。


だから、「鏡子の家」で描かれている「ニヒリズム」は、贅沢なニヒリズムなのだ。

たしかに登場人物たちは「退屈」しているが、それは、この時代の自由の裏返しだった。

若者たちは、1945年以前は戦争に駆り出され、1960年代以降は受験戦争や出世競争に駆り出された。

しかし、「鏡子の家」の大卒の若者たちは、贅沢に「退屈」していられるのである。朝鮮戦争で、1945年まで日本人だった朝鮮の若者たちは徴兵されたが、日本人は経済特需だけを享受した。

こんな時代は、日本近代の中でも、そうそうなかった。

だから、関のいう「小春日和」の、自由な空間の中で、若者たちは伸び伸びと青春の実験を始める。

そのようすを、われわれは貴重な楽しみとして眺めることができるのだ。


実際、この時代の中に、4人の美青年を躍動させる三島の筆は、精彩に満ちている。

「鏡子の家」の、とくに前半は、率直に言えばホモっ気たっぷりで、4人の美青年を周りにはべらせ、頭の中で服を脱がせたり着せたりして陶然としている三島の顔が浮かぶようである。理知的であるのと同じ程度に、エロチックなのだ。

むせかえるような男臭さというか、ケモノ臭がすごい。

その若い熱気とエネルギーの総量は、三島の全作品の中で随一で、それをシャワーのように浴びられることが、「鏡子の家」を読む喜びの第一だと思う。


三島由紀夫の「ゴジラ」


だが、「鏡子の家」の魅力はそれだけではない。

「鏡子の家」は、敵が不在の時代を描いているだけではなく、その「不在」は時限的で、新たな敵が接近していることも、同時に描いている。

具体的には、清一郎の「世界崩壊の予感」の中にそれが描かれ、また、「鏡子の家」の自由が、鏡子の夫の不在という一時的な要因で成り立っている背景にも織り込まれている。


その「崩壊の予感」という点では、わたしは「鏡子の家」を読み返すたび、「ゴジラ」との同時代性を意識せざるをえない。

東宝の「ゴジラ」第一作と同様、「鏡子の家」も、アメリカの水爆実験によって日本人乗員が被爆した、1954年の第五福竜丸事件の話題から始まるからである。



清一郎が鏡子に「世界崩壊の予感」を語ると、鏡子はこう反応する。


「世界がもうおしまいなんて言ったって、誰が信じると思って? 私たちが一人残らず福竜丸に乗っているわけじゃないんですもの」

『鏡子の家』新潮文庫版p34


この「小春日和」が、ずっとつづくはずはない。また新たな敵が襲ってくるにちがいない。

ーーという大衆の不安と想像力が、第五福竜丸事件をきっかけに、「ゴジラ」を生んだ。

上の会話のつづきでは、清一郎は「俺の話は水爆とは何の関係もないよ」と否定するが、清一郎にとっての敵の正体も「ゴジラ」と関係なくはない。

それは、やはりまた「アメリカ」が関係するからである。

(ゴジラがアメリカでも人気なのは、それが反核反戦のシンボルというより、強いアメリカのシンボルだからであろう)


大衆の粗い解像度で「ゴジラ」として映し出されたものは、「鏡子の家」の中では、清一郎の財閥系商社の業務の中に、より高精度に描き出される。

まず、戦後解体されたはずの財閥が、朝鮮特需を機に復活し、「独占資本」のゴジラとして巨大な姿を現すさまが描写される。

そして、エリート商社マンとしてニューヨークに派遣された清一郎は、今やウォール街を中心に世界が回り始めたことを知る。

清一郎は、ニューヨークとシカゴを往復して、鉄鋼機械を日本に輸入する仕事に奔走する。それは、この時代の石炭から石油へのエネルギー転換と、1960年代の「鉄の時代」を正確に予言しているのである。


今から振り返るとなんでもないが、1959年の段階で、1960年代の経済をこれだけ正確に見通した三島の予見力には舌を巻く。

清一郎の会社「山川物産」のモデルになったのは三菱商事と言われているが、三島は執筆前のアメリカ滞在時ふくめ、相当の取材をしたものと思われる。

だが、1960年代をまだ知らない当時の読者には、その価値がよく分からなかっただろう。


そして、この圧倒的経済力を持つアメリカを主な貿易対象として、日本は改憲を棚上げし、輸出大国化に邁進していく。

その「敵の復活」と「世界崩壊」の序章は、ニューヨークの清一郎が、妻をアメリカ人に寝取られるエピソードで象徴される。

さらに大きな暴力、関曠野がいう1960年代の「構造的暴力」は、ものがたりの終わり頃には、もう間近に迫っていた。


ものがたりの終盤、鏡子も、自分たちの1950年代の自由が終わりつつあることを感じる。


再び真面目な時代が来る。大真面目の、優等生たちの、点取虫たちの陰惨な時代。再び世界に対する全幅的な同意。人間だの、愛だの、希望だの、理想だの。……これらのがらくたな諸々の価値の復活。徹底的な改宗。そして何よりも辛いのは、あれほど愛してきた廃墟を完全に否認すること。眼に見える廃墟ばかりか、眼に見えない廃墟までも!

『鏡子の家』新潮文庫版p466


三島には、「眼に見えない廃墟」ーー日本が戦中から継承した文化の精華、日本の精神が、ついに本当に消滅しつつあることが見えていた。

その時代の境に立って、三島は「鏡子の家」でその危機を警告したのである。

しかし、同時代の日本人は、それを理解しえなかった。

だから、のちの三島の「僕が赤ん坊捨てようとしているのに、誰もふり向きもしなかった」という愚痴になるのである。


なお、ものがたり自体は、鏡子の家に夫が戻り、娘の真砂子が幸福に包まれるところで終わる。

実に皮肉で気の利いた結末である。

その夫の相貌は描写されていない。

夫の顔は、読者の自由な想像力に委ねられている。


猪瀬直樹は、『ペルソナ 三島由紀夫伝』の中で、戻ってきた夫とは「岸信介」だ、と書いている。

しかし、そこは、安保改定の岸より、所得倍増の「池田勇人」としたほうがよいだろう。

「鏡子」には実在のモデルがいるが、現実の彼女の夫は、日系アメリカ人だった。


1960年の「敗戦」


このようにして、「鏡子の家」の真意も警告も理解されないまま、日本は1960年代に突入する。

現実に1960年代の高度成長が始まると、関が述べているように、日本社会は激変に巻き込まれるほかはなかった。

「鏡子の家」のメッセージは、振り返られることもなく、忘れられていくのである。


現実の1960年代の激変は、三島の予想をも上回るものだっただろう。

「日本の独立と文化の自立」は、永遠に不可能になったことに気づいたはずだ。

憲法の改正も、日本軍の復活も、アメリカからの自立も、1952年から1960年までの間に、成し遂げられるべきであった。それは、右にとっても、左にとっても、そうだったのである。

だが、高度成長に熱狂する日本人の耳に、三島の声は届かない。


このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。このまま行つたら日本はなくなつて、その代わりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。

「果たし得てゐない約束―私の中の二十五年」『サンケイ新聞』1970年7月7日夕刊


この有名な言葉の4ヵ月後、三島は自刃する。


「鏡子の家」を読み返すたび、日本は、1945年の敗戦ののち、1960年に、もう一度敗戦したと思わずにいられない。

1945年には軍事的に負け、1960年には文化的に負けた。


ここでわたしは、毎度の我田引水となるが、1960年に自殺した火野葦平を思い出す。

以前にも書いたが、三島と火野葦平は、近いところにいたのだが、たぶん縁はあまりなかっただろう。

1959年の中央公論に、火野は遺作となる「革命前後」を連載したが、その中央公論の1960年1月号から、三島の「鏡子の家」の次の作品「宴のあと」の連載が始まる。

火野の1960年の死は「心筋梗塞」と発表され、自殺であったことは1972年まで隠されたから、三島は火野が自殺したことを知らないまま死んだ。

もし、「革命前後」を遺書として火野が自殺したことを知ったら、三島は何か反応したはずだと思う。


火野葦平(wikipediaより)


いずれにせよ、今の目からは、三島が「鏡子の家」で描いた「崩壊の予感」も、火野が遺書に残した「漠然たる不安」も、同じものだったのではないかと思われる。

火野も、三島も、「戦中の人」だった。

同じ「1960年の敗戦」を感じ、自分たちが文化の核心と思っていたものが終わったことを知ったのだと思う。

変わったのは火野や三島ではない。日本が変わったのである。

以前にも書いたが、三島に「英霊」が降霊して憑依したのは、三島が「鏡子の家」を書き終え、火野が中央公論に「革命前後」を連載していた1959年らしい。

奥野健男が、1959年に三島宅を訪れた時、三島が「二・二六の磯部の霊が邪魔している」と大真面目に呟いたことを証言している(wikipedia「英霊の聲」)。

火野は1960年に自殺したが、三島はなお10年頑張って生き、そして自殺した。

三島は最後、「鏡子の家」を書き直した、「豊饒の海」を遺した。だが、1950年代の文化的エネルギーから遠く離れ、「豊饒の海」が、ものがたりで時代が進んだ後半になるほど力を失っていくのは仕方なかった。


1945年以前の日本を否定し、1960年代以降の日本(アメリカに依存した軽武装の繁栄)を肯定することが、今の日本人の標準的歴史観になっている。

(井上隆史のような三島研究者も、うっかり同じ歴史観を共有するため、「鏡子の家」の真価を理解できない。)

その歴史観でいる限り、日本人は、過去と現在に引き裂かれつづけ、民族としてのアイデンティティを築けないだろう。

三島が残した「鏡子の家」は、その断絶をつなぐ、貴重な文学の遺産なのである。



<参考>



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