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「三島由紀夫のハラキリ」の意味が忘れられている 成田悠輔氏の発言をめぐって

ハラキリはファッション?


昨日の夕方、三島由紀夫のことを考えながらスマホを見ると、Twitterのトレンドワードに「三島由紀夫」があった。

最近よく起こるシンクロニシティだ。

どうもイエール大学助教授の成田悠輔という人が、「日本の高齢者は集団自決すべき」論の関連で、三島を引き合いに出し、ハラキリもファッションになる、とかなんとか言ったらしい。


成田氏は、ネット番組などで、

「僕はもう唯一の解決策ははっきりしていると思っていて、結局、高齢者の集団自決、集団切腹みたいなものではないか」

と語って、その真意が問題になっていた。

その後、西村博之(ひろゆき)氏との番組で、「高齢者は集団自決・集団切腹が解決策」論はメタファーか、と聞かれ、成田氏と西村氏はこう答えている。

西村:切腹はかっこいから積極的にやることじゃないですか。

成田:(高齢者は集団自決すべき論は)メタファーではなくて、三島由紀夫とかリアルにそういうこと(ハラキリ)やって。日本人の死に様の一つの象徴みたいな感じで、国内でも国外でも、けっこうかっこいいと受けいれられてて、三島由紀夫かっこいい、ってことに今なっているじゃないですか。だから、普通にハラキリ(という方法)がファッションとして成立するんじゃないか、とちょっと思っているんですよ。




トレンドワードからたどって、いろんな人のツイートを見ると、「三島の自決は美学だった」「三島は老人になりたくなくて腹を切った」といった意見が目立つ。


もちろん、1970年の三島の自決については、いまもさまざまな見方がありうる。

しかし、当時の人々が暗黙のうちに了解していた「本当の意味」が、いまの人には共有されていないことを感じた。

昭和も遠くなりにけりだ。

三島のあの行動が、「名宛人」のない行動だとしたら、ただ彼は「自らの美学に殉じた」という解釈になるかもしれない。

しかし、三島の自決は、自らを満足させるためのナルシシズムではない。自衛隊員や国民への訴えも当然あったが、第一には、「ある人」を意識して行なわれたものだ。

そのある人とは、昭和天皇である。

天皇への思い


これは別に秘密でもなんでもない。

1966年に「英霊の聲」を発表した時から、三島が昭和天皇を「糾弾」しているのは明らかだった。

作品中の、

「などてすめらぎは人間となりたまいし(なぜ天皇は人間になってしまったのですか)」

というリフレインは、当然、昭和天皇に向けて発せられている。


加藤典洋は「その世界普遍性」の中で、

「自分のために死んでくれと臣下を戦場に送っておきながら、その後、自分は神ではないというのは、(逆説的ながら)「人間として」倫理にもとることで、昭和天皇は、断じて糾弾されるべきだということ」

と、その「心」を代弁している。(wikipedia「英霊の聲」)

しかし、三島のような日本主義者、天皇主義者は、天皇に直接的な表現は使わない。それはあまりにも畏れ多い、不敬なことだからだ。

だから、わかりにくい。


「右」からの批判


天皇の戦争責任論は、左翼やリベラルの「左」からのものだけではなかった。

「右」からの責任論もあったのだが、上記のような理由で、一般の国民には伝わりにくいところはあった。

まして、当時は昭和天皇が健在だった。

たとえば戦中の右派言論人の代表だった徳富蘇峰の昭和天皇批判は、戦後すぐに書かれていたが、それが発表されたのは彼の死後、そして昭和天皇が亡くなってしばらくたってからだった(「終戦後日記」)。

右派の人は、天皇への崇拝が強いので、ストレートには批判できないのである。批判するとすれば、自分が死んだ後か、あるいは、自分の死と同時でなくてはいけない。

三島の自決は、だから昭和天皇に宛てた一種の「諫死」だが、彼自身は、その「効き目」がないことも知っていた。

二・二六事件の決起将校に対して、昭和天皇が「自殺するなら勝手に為すべく」と突き放したのを知っていたからだ。

では、そうした「右」の批判者たちは、天皇のどういう点を批判していたのか。昭和天皇に、どうしてほしかったのだろうか。


「退位なさった方が・・」


「終戦直後、陛下は退位なさった方が、男らしいのではないか、と思いました」

これは、火野葦平が『革命前後』(1960)の結末部分に書いた言葉だ。

「兵隊小説」で売った火野葦平は、終戦直後に共産党から「文化戦犯」の筆頭として指弾されたが、火野を弁護する人は、火野は「庶民派」であって決して軍国主義者ではなかったと評した。

私も火野は軍国主義者ではなかったと思うが、天皇主義者であったことは間違いない。

『革命前後』の中でも、

「こんな馬鹿な戦争のために、大事な命が捨てられるもんか。なんもかんも天皇陛下が悪いんじゃ」

と言う親戚に対して、

「なにィ。もう一度、いうてみれ。ぶち斬ってやる」

と日本刀に手をかけるところがある。(光人社版「革命前後」p185)

「戦犯」と呼ぶべきかどうかは別として、火野は、たぶん一般のイメージよりも「右翼」だった。

それは、母親(マン)の影響だった、と遺児の玉井史太郎が書いている。マンは終生、東方遥拝を日課とし、火野にも子供の頃から義務づけていた。戦後に書いたプライベートな文書の中でも「臣 火野葦平」と署名することがあった(「河伯洞余滴」p74)。

その火野の「退位なさった方がよかった」は、だから本人にとって重い言葉だった。

火野は『革命前後』を書いたあとに自殺する。


「男らしさ」ということ


ここでは私自身の戦争責任論は書かないが、たしかに、昭和天皇が終戦直後に退位したら、「敗戦」の意味がはっきりしたとは思う。

天皇退位という「痛み」が日本史に刻まれていたら、「日本は戦争に負けてもいい」というような若者を生み出すこともなかったかもしれない。

いわゆる国体、天皇制が護持されることは、敗戦時点でも日本人は知っていたが、それでも、ヒロヒト天皇は責任をとって退位するのではないかと思っている人は多かったらしい。


それはともかく。


「退位された方が男らしかった」

この「男らしい」に、時代錯誤を感じる人は多いだろう。

まして、現代では、「男らしさ」「manliness」は、sexismだとして、世界的に死語になりつつあるような言葉だ。

しかし、戦争では、兵士たちは「男らしさ」を強制されて、死んでいった。

「戦争中は死を恐れないのが男らしかった」

と『革命前後』にもある(p138)。

兵士たちに「男らしさ」を強制し、死に追いやった元締が誰かといえば、天皇だと思われていた。

天皇は、男らしさの象徴であり、権化であるべきだった。

だが、現実の昭和天皇の性格は、男らしいというより、平和的な方だったようだ。

武断的というより、優柔不断だった。

(徳富蘇峰が批判したのも、昭和天皇が明治天皇ほど戦争に積極的でなかったことだった)

それが、のちには幸いしたと言える。天皇は平和主義者で、戦争をしたくなかったが、周りの「軍閥」に引きずられた、ということで免責される。

昭和天皇がそういう人であったのが事実だとしても、おさまらないのは、「男らしく」死んでいった兵士、軍人たちだ。

しかし、すでに死んでいる彼らは、もう何も言うことができない。

だから、「英霊の聲」としてよみがえる。

天皇観の動揺


ちょっとオカルト的だと思うのは、三島由紀夫に「英霊」が降霊して憑依したのは、火野葦平が中央公論に『革命前後』を連載していた1959年らしいということだ。

奥野健男が、1959年に三島宅を訪れた時、三島が「二・二六の磯部の霊が邪魔している」と大真面目に呟いたことを述懐している(wikipedia「英霊の聲」)。

三島由紀夫と火野葦平の関係が論じられたのを見たことはない。河上徹太郎(火野葦平びいきだった)あたりを通じて、面識はあったかもしれないが、かたや王朝文学の承継者たる貴公子、かたや九州川筋(ヤクザ者)の庶民派作家で、イメージは全然違う。

しかし、三島が中央公論の火野の連載を読んでいたのはほぼ確実で、影響を受けた可能性はゼロではない。当時(1959〜60)の中央公論は、大岡昇平「花影」や三島自身の「宴のあと」、深沢七郎の「風流夢譚」など、話題作が目白押しだった。(「革命前後」が終わって、入れ替わりで始まったのが「宴のあと」だった)

また、時代背景もある。1959年は、当時の皇太子(現上皇)が美智子妃と結婚した年だ。

週刊誌的には皇室ブームになるが、天皇・皇室はますます「男らしさ」から遠ざかる。風流夢譚事件が起こる背景には、国民の中の天皇観の動揺があった。


「英霊の聲」が遠くなる


そして、1960年ごろは、いわゆる60年安保の時だが、高度経済成長が始まっていたとはいえ、その果実をまだ国民が実感できていない。それはやはり1964年の東京オリンピックあたりからである。

日本は豊かになり、敗戦を乗り越えた、と国民があまねく実感したあとは、「結果オーライ」で、天皇の責任論は切実感をなくした。それとともに、「英霊の聲」もか細くなり、聞こえなくなった。

三島の自決(1970)は、火野の自殺(1960)の10年後だったが、彼には、「英霊の聲」を届ける最後の機会という意識があっただろう。


自決の前の、三島の益荒男ぶり、「男らしさ」の誇示は、同時代にも滑稽に思えた。

しかし、それが、「男らしさ」を強制されて死んだ、おびただしい数の男たちの代弁であり、そのことを昭和天皇に思い出させようとする身ぶりであったとしたら。

国のために命を捧げた男たちの思いをぶつけた行為であったとしたら。

三島の自決について、そういう思いが少しでもあれば、成田氏と西村ひろゆき氏の話の中で、「三島のハラキリ」が出てくるようなことはなかっただろうと思う。

それは断じて「ファッション」ではなかった。

(それに加えて、成田氏も西村氏も、日本という国への帰属意識が薄いんだろうな、と感じた。それはそれで結構だが、それならなおさら「三島」を出さないでほしい)



昭和の時代、日本人は昭和天皇に対して、右から左まで、非常に強烈で複雑な感情を持った。

その民族のうねりのような感情が、たった50年で記憶されなくなるのか。

それが、昨日、Twitterで「三島のハラキリ」について人々が書いているのを読んでいて、私を襲った感慨だった。

歴史とはなんだろうと思ってしまった。



<参考>



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