過激派老人の「反権力やめたら負け」という哲学
明日は敬老の日ですが、彼らには無縁でしょう。
前期高齢者の上野千鶴子、前川喜平とか、後期高齢者の落合恵子、佐高信とかの「国葬反対」「アベガー」の怒号を聞いていると、
「歳を取っても、若い時と同じように権力批判を続けなければならない。権力批判を捨てたらファシストだ」
という思想を忠実に守っていることがわかります。
いや、そういう思想があるそうです。私も、田中英道氏の本で最近知ったのですが。
若い時に得た批判理論を保て、常に社会批判・権力批判・権威批判を続けろ
という、フランクフルト学派の思想です。
なんだ、田中英道か。右翼じゃないか。
そう思われるのはわかるのですが、ちょっと待ってほしい。
以下のホームページで、より詳しい解説が読めますが、これがなかなか面白い。「五月革命」を現地フランスで経験した話や、最近ちょっと話題になった「反逆の神話」的問題ーー体制内で「反体制」商売をする知識人のインチキを、アドルノの晩年の姿を活写して原型的に考察していて、マジで勉強になります。
ちょっと田中英道氏を見直しました(偉そうな言い方ですみませんが)。
でも、すぐユダヤ人がどうこうとか人種問題に結びつけたり、「伝統」的価値を安直に取り入れるあたり、保守主義の悪いところをどうしても感じてしまうので、結論には共感できないのですが。
それはともかく、
「歳を取っても、若い時と同じように権力批判を続けなければならない」
という考えが、戦後のある世代に力を持ったのは、事実だと思うんですね。
マスコミの中で、同じような考えを言う人を、私も何人か見ましたから。
というか、それをジャーナリズムのあるべき姿だと、ジャーナリズムの正論のように言うのは、むしろ多数派だった印象があります。
私も若い頃は、マルクーゼやエーリッヒ・フロムのようなフランクフルト学派の本を読みました。フロムの『自由からの逃走』『愛するということ』とかは、1970年代まで、読書感想文コンクールなんかのたびに、若者の必読書のように言われましたからね。だから、読書家の優等生ほど影響されたかもしれない。
そういうのを読んで、「生涯反権力」「生涯反権威」を誓った人たちがいたのです。
安部氏の国葬反対に老人が多いのは、そのせいだと思います。
そういう本には、こういうことが書かれている。
「権力への盲従」を子供の頃から教え込まれ、「権威主義的パーソナリティ」になることが、ファシズム社会へ道を開く。
だから、その逆、「権力への反抗」を若い頃から生き方として身につけ、それを一生保つことで、ファシズムの到来を防がなければならないーー
こういうのを、フランクフルト学派の「権威主義的パーソナリティ論」というのだそうで。
自民党を支持したり、安部氏の国葬を支持したりすると、「権力に盲従」する権威主義的パーソナリティだと、彼らには思えるんだろうな。
国葬を支持するにしても、自民党や安部氏に「盲従」しようなんて、誰も思っていないと思いますけどね。それが民主的に選ばれた権力であり、権威だから、認めている。つまり、ファシズムに対抗する民主主義を支持しているつもり。
でも、民主主義のように見えても、自民党が支配する民主主義はファシズムだ、と彼らの頭の中ではなるみたい。
共産主義が天下を取るまではファシズムなんですかね。私には彼ら「反権威主義的パーソナリティ」老人の頭の中がよくわからんですね。
もっと古い世代であれば、「獄中不転向」の共産党員が、戦後知識人の尊敬を集めたのを忘れられないのかもしれない。戦中、治安維持法でつかまった徳田球一とか宮本顕治とかの共産主義者が、転向しないまま、GHQに解放されて、英雄のように迎えられたのです。
圧力に抗して、思想の一貫性を保つのは偉い、と。
鶴見俊輔なんかも「獄中不転向」を尊敬し続けて、「転向」問題にこだわりました。しかし、間違った思想で一貫性を保っても、別に偉くないわけで。(その点で私は鶴見をあんまし尊敬していない)
「愚かな一貫性は子供の想像力が生み出すおばけであり、器の小さい政治家、哲学者、宗教家があがめるものだ」(エマソン)
と西洋の哲人は言ったし、
「君子は豹変す(人格者は過ちを速やかに改め、鮮やかに名誉を一新する)」(易経)
と東洋の賢人も言いました。
いずれにせよ。
若い時に流行った思想の影響からなかなか抜けられない、というのは人間の普通の心理なのですが、
「若い時の思想の影響から抜けてはならない」という「若い時の思想」から抜けられない、
というのは、皮肉というか、複雑というか、厄介な年寄りたちですね。
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