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「ようやく幸せになれるね」「私が✖︎2って知ってたの?」

よくもわからないこのタイトルの元見にきてくれてありがとうございます。

こちらの記事では、

祖父の言葉を借りながら、私の人生を振り返ります。

どの文章も泣きながら打ちました。

特に読んでも、私の人生がどうだったのか知ることができて、そのあとにこのタイトルを読み返すとグッとくるだけです。

プロポーズされもう直ぐ入籍する私のために書きました。

それではどうぞ〜。


パパって怖いかも・・・?

私は札幌市に生まれてきて24年になりました。

人生で、私は1度もパパに好きって言ったことがありません。

少しの恐怖心があったからです。

私のパパは、身体中が刺青だらけで、高校には行ってないし、朝早くて夜遅いし出張ばかりの鳶職でした。

ママとパパが喧嘩をすると、家中が壊れたものでいっぱいになるし

ママの体はあざだらけになります。

警察に呼ばれたことも、喧嘩で大家さんに呼ばれたことも、アパートの周りの人たちに謝罪周りしたこともあります。

少しDVの要素があったのかなとは思いますが、私自身の体に傷がついたこともなく、どちらかといえば、楽しい遊びを提供してくれたのは、ママよりパパだったので、

ママがかわいそうだから怖いけど、パパのことは大嫌いっていうほどではありませんでした。


しかしその考え方は次第に変わっていきます。


ママがお話ししてくれなくなっちゃった!


私が小学生の低学年、弟が幼稚園児だった頃に、ママはほぼ毎日寝てばっかになってしまいました。

パパは鳶の仕事で出張ばかりだったので、帰ってこない日もあり、

見兼ねた私のおばあさま、母方の祖母が、おうちに来て、毎日ご飯を作って帰っていく生活が始まりました。

この頃の私は、ママが起き上がって座っているだけでも嬉しくて、ママが洗濯している姿を見るだけで勉強を頑張れたのです。

トイレには、ママによって私が書いた「ママの病気が早く治りますように」という手紙が貼られました。

そうです。ママは鬱病で、他にも幾つかの精神疾患を抱えていました。

もちろん授業参観には誰もきません。

ご飯はなければ何もありません。祖母がきてくれるまで待つしかありませんでした。

こうして両親からの愛情がなくなったわけではありませんが実質両親からネグレクトされた形になります。


おばあ様が疲れちゃった!

毎日必ずご飯を作りに来てくれるおばあさま。

土日はおじいさまの車に乗って、祖父母の家で過ごします。

ママは自宅で寝たきりで、パパは帰ってきません。

残念ながらこの生活におばあさまも疲れてしまいます。(そりゃそうだ)


そうして出された案は、

祖父母の家に私と弟を住まわせるということ。


ママとパパと車で35分離れた祖父母宅で暮らすことが決まったので、

私と弟は学校と幼稚園を転校・転園することになります。

この時私は小学校2年生。弟年中さんでした。


ママとパパはとても喧嘩が多く、喧嘩をすれば怪我をしたり、周りの人たちに迷惑もかけることがあるし、仲直りに時間もかかるし、ママもずっと泣いてしまい、心がとても痛むような感覚がありました。

この頃両親はかまってくれなかったので、絵本は私にとっての数少ない遊び道具でした。

その絵本を買ってくれるのが祖母でしたし、新聞を送ってくれたりで、私がたくさんの書物に囲まれるようになったのも祖母で、

家事をあまりしない両親と比べ、様々な料理を食べさせてくれる祖母だったので、小さな頃は本当に祖母のことが大好きでした。

多分弟も。


しかし・・・。

弟が毎日つらそう

小2/年中で両親からネグレクトされ、祖父母宅に暮らすことになった私と弟。

もともと勉強が好きだった私は、新しい小学校の、教育ママが多い環境にも馴染んでいきます。

では弟は?

弟はもしかしたらADHDだったのかもしれませんが、どちらかといえば普通学級には向いてないような子供でした。

祖母は見栄っ張りで、このおうちで暮らすなら勉強はしないとダメといい、銀魂などのギャグ系の漫画やアニメは禁止され、頭がいい高校に入るためのしつけが始まります。

私が覚えているのでは、年中さんの弟を椅子から立たせないようにして、ひらがなを書く練習をさせたり、

座らせたままでいる練習をさせたり、私よりはるかにいろんなことを制限されていました。

すると弟はストレスから夜尿症という病気になり、おねしょを毎日するようになります。

このおねしょをしないように、祖母もまた叱りつけるのです。

こうして弟はどんどん疲弊しています。


お分かりだと思いますが、ADHDや自閉症などの病気に対して、叱りつけたり縛り付けても治りはしません。

それでストレスから夜尿症になった子供に、おねしょをするなと毎日叱りつけても治るわけがありません。


祖父母の家で暮らし始めて、出張が終わったパパのお迎えで、土日だけはママとパパの家で過ごすのが日課になっていました。

そこで弟と二人でお留守番している時に驚くことがあったんです。


弟と喧嘩した時、私が弟に怒ったら、

弟が私に向かって、ハサミを投げてきました。

そのハサミは壁に突き刺さります。


弟は自分がしたショックから泣きじゃくり布団から出てこなくなりました。

ちなみに喧嘩した理由は、宿題の答えをうつすっていうので、教えてあげるからうつさないでやってみよって言ったら怒り狂い出しちゃったんです。


パパとママが買い物から帰ってきて、壁にハサミが突き刺さっているのを見て、私が落ち込み、弟は布団にこもっているのを見て、

両親はびっくりします。訳を話すと、パパはすぐに弟のところに行き、

ママは私に、「ほっちゃんは悪くないよ」って慰めてくれます。

パパも弟に、「パパが喧嘩する時にもの投げるの見てマネしちゃったんだね。パパが悪いね」

って、ママもパパも私たちを責めたりしませんでした。


この時から私は弟はやっぱりママとパパといた方がいいと感じていました。


そしてしばらくして、大事な電話が私と弟がいる祖父母宅にママからかかってきます。

どちらか片方なら引き取れるけど・・・

って。

うつ病が少し落ち着いて、お金も少し余裕が出てきて、一人だけなら引き取れるから、ほっちゃんが決めていいよという電話がきました。

これが私が小3で弟が年長さんの時でした。

私は迷わず答えます。

「烈くん(弟)を戻してあげたい」

ほっちゃんはいいの?ってママが聞いてくれたし、心の中では、次祖父母に厳しくされるのは自分だってわかっていたけど、とても心を痛むほどに傷ついている弟を見て入られなかったから迷いはありませんでした。

それでも気を使ってなんどもなんども聞いてくるママに

「私はこっちの学校の方があっていて、友達も大好きだからこっちにいたい」と返事をしました。

人生で1番私が大人だった日です。


弟はママとパパと暮らし、私は祖父母と暮らす生活が小3から始まりました。

だからと言って幸せというわけではありません。


厳しくなる祖母、調子がよくないママ

おばあ様は私に、南高校(札幌市の偏差値の高い高校)を目指すのよとプレッシャーをかけてきます。

一方、弟を引き取ったとしても、別にうつ病が完治したわけではないママは時々寝たきりになります。

土日にはパパが迎えに来て、家族4人で過ごします。

小学生の頃は、それがとても楽しみでした。

でも、ママは精神的によくない日には、貞子のような雰囲気になり、何かの不満をパパに対して訴えていました。

ある日、暖龍という中華屋さんでご飯を食べようとしたら、

不機嫌かつ具合が悪いママは、私と弟にご飯をあげることで精一杯だったパパに対して、暖龍のテーブルをひっくり返し、暴れます。

もちろん周りのお客様もびっくり、私たちもびっくり、そのあと罪悪感からか、ママは過呼吸の最大限の発作を起こします。

暖龍の店員さんが救急車を呼んでくれて、パパが祖父母を呼んでくれて、私と弟は祖父母の家に帰宅します。

聞くところによると、病院を11軒たらい回しされたそうです。


私覚えています。この日が人生で1番泣いた日です。

衝撃的すぎて。


次の日休んでいいよって言われたけどテストがあったから休まず行きました。お化けのように腫れた目の状態で。

友達は悪気なくいいます。

「ほまれ、お前どうした?お化けみたいだぞ」

私は思い出して号泣します。

今もまだママは落ち着いていないかも・・・。

そのクラスではなかなか難しい家庭環境だったのは私だけだったので、担任の先生に抱きしめてもらいながら泣き止んだことを覚えています。


そんなことが小学生の頃頻繁に起こっていました。

私の目が腫れている日は、友達がみんな優しいし、男も女も関係なく友達みんなが抱っこやおんぶをしてくれて、先生もおんぶしてあげるねとか声をかけてくれたこと今でも忘れられません。


で、私から友達への質問。

みんなのパパもおばあちゃんの家入れないんでしょ?


ここまで読んでいただいて、

DV気味のパパ、うつ病のママ、見栄っ張りの祖母。というのはわかっていただいたと思いますが、実は私にとって1番辛かったのは祖父の態度だったりします。

みなさんの祖父母のお家には、パパもママも入ることはできますか?


私のパパが母方の祖父母の家に入ったことあるのはたった1度。

土日の送り迎えの時には玄関までで、対応するのも祖母だけです。


私は祖父とパパが喋っているところを見たことがありません。

身体中刺青だらけで、ろくに学歴もないパパのことを認めていなかったのかもしれません。


だから、友達が、休みの日に、パパとママとおばあちゃんのうちでパーティーしたっていう話を聞いてびっくりして、いろんな友達に聞いて回ります。

みんなのパパもおばあちゃんの家入れないんでしょ?

そういうおうちもあると思いますけど、決まりや法律ではそんなことないんですよね。

担任の先生にサザエさんみたいに一緒に暮らしてることもあるよって優しく教えてもらいます。


ママが鬱病になってしまったことはパパも悪いかもしれないけど、

「祖父母はその前から助けてくれようとした?」

「今1番ママのそばにいるのはパパだよね?」

「どうして祖父母はパパに感謝していないの?」


この時小学校5年生。

気づいてしまったことがあります。

祖父母とパパとの関係がよくないことは、祖父母も悪いということ。


次第に祖父母への不信感がたまります。


私は褒められるべき人間であるため、習い事を自分から望んで始めます。

クラシックバレエと英語です。

私にはなんの才能もなく、どれもそこそこ程度できて、勉強も普通でした。

見え張りのおばあさまは褒めてくれません。


テストでいい点をとっても他にもできてる人はいる。

もっとよくなる方法がある。


祖父は、私たちに興味がありません。

おはよう以外に言葉を交わしません。


正直、ママとパパは喧嘩をするし、急に発作が起きて救急車に運ばれることもあるけど、ママとパパは褒めてくれるし、勉強ができない弟のことを勉強しろと怒鳴ったりなんてしません。

毎日一緒にいる祖父母は、私がどれだけ辛いことが起きても心配しないけど

たまたま会いに来てくれたママは一瞬で、

「何か辛いことがあった?」と見抜いてくれます。

祖母は速攻で答えます。何も起こってないってって。


心の中で思うんです。もしかしてこれが本当の愛情か・・・と。


ここら辺から私の中で、愛情をうまくくれない祖父母に対して、

不信感しかありませんでした。


そして

授業参観の日、懇談会の日、親子運動会の日、

どうして私だけおばあちゃんなの?

という気持ちは弟への嫉妬に繋がります。


でもみなさん思い出してください。

私言っちゃってるんです。

弟のためを思って、弟はママとパパと暮らして、自分から

「私はこっちで暮らしたい」って。


祖母との埋まらない溝と喧嘩ばかり

祖母は

「ほっちゃんが自分から望んでここで暮らしているのに、いうことを聞かない」と怒ります。

私は、それなら優しくしてよ、愛情をくださいよと思いながら何も言えません。

高学年になってから喧嘩が増えます。

だって、褒めてくれないのに、勉強はしろしろいうんだもん、してるのに。


祖父母といるより、友達といる方が幸せです。

友達はいろんなことを教えてくれるし、話してくれるし、楽しくしてくれる。

でも祖母はいいます。

○○くんとは遊んじゃダメ。○○ちゃんはだらしない。

もっと頭のいい人と遊びなさい。友達は選びなさい。


私思います。

友達がどんな種類の人でも、

どんなカーストにいたって、

私にしたら同じくらいみんな大切な友達です。

祖父母より私のこと知ってくれているんです。

そんな友達といちゃダメっていうひどいおばあちゃん。


そんな時だからこそママとパパと弟といると楽しい!

6年生の頃、土日にパパとママと会って話すととても楽しくて、

どんな話も聞いてくれて、どんな友達のことも覚えてくれます。

早くおうちに行きたいって、いつも思っていました。


私ママにわがままって言われたの24年間で、この時くらいです。

「もっとここにいたいよ〜」って言ったら

それはわがままって軽く言われました。


自分の中で、祖父母とは仲良くできないけど、

ママとパパも喧嘩しなくなってきたし、ママも寝たきりじゃ無くなってきたことで、少し幸せな気持ちを感じて浮かれていたんです。


中学生になって初めて恋人ができた!

小6で同じクラスだった男の子Fくんに初恋を捧げた私。

両思いだったらしく卒業式の後からお付き合いが始まりました。


家族の誰も言ってくれない。

「好き」という言葉。「ずっと一緒にいるよ」と言ってくれる優しさ。

多分本当に家族といるよりFくんといる時間の方が当時長くて、幸せでした。


でも1つ問題点をあげるとするなら、大人から反対されまくるということ。


実は友達が多かった私は6年生の最初に、推薦してもらって学級代表を務め、

そのまま中1の時も推薦されて学級代表を務めることになります。

Fくんは小学校の時ずっと同じクラスでしたが、実は不登校で全然学校に来ないで有名。


教育地帯で、南高校を目指すこの中学校では、

恋愛している人たちは目をつけられるで有名でした。

カップルのおうちに、先生から電話がくるんです。


だから祖母に自分からいいます。

私Fくんと付き合ってるから。


そしてなんども私は生活指導室に呼ばれます。

Fくんと別れた方がいいと何百回言われたでしょう。

私の将来を心配する先生たち。

私のためを思っていってくれてるのはわかるけど、

私1番今愛情くれている人はFくんだからと無視します。


祖母は、参観日や懇談会の日のたびにいいます。

うちの孫とFを別れさせてくれ。

絶対に二人を同じクラスにするなと。


Fくんは、私を極力1人にしないため、習い事の送り迎えもしてくれるし、登校はしないのに、私に会いに学校の近くに来て、毎日家まで送ってくれます。寝る前は電話もしてくれました。


ある日塾の帰りにFくんと一緒にいたところを、祖父に見つかります。

祖父どうしたと思いますか?

Fくんの胸ぐらを掴んで怒鳴りつけたんです。

「何やってんだやめろ」と。

塾から家まで送ってくれてるだけやん。


泣いて帰ってきた私に対して、祖母はこう言います。

「ああ、それ悪いのはほっちゃんでしょ」って。


そこから一緒に帰っているのを見つけるたびに、祖母も窓から身を乗り出して

「気持ち悪いから離れなさ〜〜〜〜〜〜〜い」と外に向かって怒鳴ってきます。

ねえ、外でチューしたりしてないよ、手をつないでもないよ。

一緒にいるだけで気持ち悪いって何?


幸せよさようなら。

ママとパパだけがわかってくれるから土日実家にいくことが楽しみの中学1年生の頃。

そのときにいかに祖父母が私とFくんのことを謎に責めているかを訴えたら大変だね〜って言ってくれる両親。

それが安心できた。

でも、

私は恋愛面で認められない分他のところでとても頑張っていて、標語とか文章とか、代表としてとかでいろんなところで表彰されていて、

たまに表彰状を持って帰ってママとパパに見せるんだけど、

中学生になったばかりの頃、

パパに見せたら表彰よりもご飯食べてるからって無視されたりすることもありました。


この頃、ママとパパの様子がおかしくて、

ママはトイレや風呂から全然出てこなくて、

パパは愛してる愛してるってママに必要以上にずっと言っているんです。


ね?何が起きてるかすぐにわかります。

ママ、浮気していました。


パパは弟だけを連れて滋賀県にいってしまいまいた。


ふふふ。

私、またママとパパと弟と一緒に暮らせる日を楽しみにして

Fくんに甘えながら、祖父母に少しでも認められるように頑張って生きてきたのに。

大人は勝手です。

「ママとパパと離れていても、みんなちゃんと家族だよ。離婚は悲しいことじゃないし、その方がママもパパも幸せなんだよ」

そうか?

パパはずっと、子供達のために離婚はしたくないって粘っていたのも知っているし、ママに愛してるって伝えていたし、浮気するなんてママもひどすぎる。


でもパパのDVで傷ついたママがいることも忘れられないし、

私はパパよりママの方が好きだったから、ママのことも見捨てられないしって涙してたら

弟が泣くのを我慢しているんだもん。

あんな泣き虫の弟がすぐに受け入れてううってなっているのを見て、すぐに私も泣き止みました。


中2の4月25日今でも忘れられん。

私の夢だった家族と一緒に暮らすことを捨てた日。

飛行機を見ながら泣いた日。

さよならパパと烈くん。

またいつか会おうね。


帰る家がなくなって初めまして彼氏さん。


土日実家にいって、パパとママと会うことを楽しみにしていた私ですが、土日に帰る家がなくなったので、

そこからは土日は全部Fくんと一緒に過ごしていました。


ママの彼氏のよしのりさんはとても優しい人で、

ママは精神的疾患を抱えていて、仕事やアルバイトができないから、養ってくれていました。

ママに家を与え、私の携帯代を払ってくれる

いわばお父さん代わりになってくれる優しい人です。


当然ですが、祖父母はこのよしのりさんにもとても冷たく当たっていました。


ママとパパが離婚したことで、やはり祖父母がパパに冷たくするのはおかしかったと確信しました。


相変わらず、祖父母はFくんに冷たいし、

祖父は話さないし、

時々私に会いに来たママの前で、祖父は怒鳴ってきて、

ママが教えてくれたけど、ママが子供の時もずっとこうだからママはこのおうちが嫌いといって、全然会いにもきてくれなくなりました。


本当に1人ぼっちの気持ちでした。

パパと弟とも連絡先も知らないから連絡が取れなくて。


高校受験が控えていて、

テレビの音がうるさかったから、テレビ少し音下げてって祖父にいったら、

すごい剣幕で怒鳴られて

びっくりして私も過呼吸が止まらなくなってしまって、

息ができないことが苦しすぎて、

ベランダから飛び降りた方が楽と思った時

祖父は部屋に逃げた私のところにきて、胸ぐらをつかんでから部屋から出て行きました。

殺されると思って、吐き気が止まらなくなりました。


ママも救急車で運ばれた時こうだったのかな。


しかも小さい頃から言われ続けていた南高には学力が足りなくて、

少ししたの高校に受験することにしたけど、それも受かるかどうかわからなくて、

誰も励ましてくれない家族のもと、家族に殺されるかもと怯えながら

勉強することが辛くて辛くて。

Fくんにも受験終わるまで一旦別れていましたし、誰にも頼れない。

受験2日前のよると、受験前日、号泣しながら机の上にあったテキストをすべて床に落として暴れました。


私は祖父の足音が聞こえると吐き気を催すようになり、唯一交わしていたおはようの言葉を交わさなくなりました。


受験には受かったけど、家族と心は離れていくばかりでした。

唯一よかったのは、受験受かったからもう一度Fくんと付き合い始めたことでした。


仲が悪い家族。

そして受験に受かったことで、少し祖母は優しくなってきたけど、祖父とは全然溝が埋まらなくて、

誕生日もクリスマスも大晦日も全部がないがしろにする家族になってしまいました。

同じ高校の友達ができて、家が嫌いな私は、門限を広げてもらい、Fくんと会いながらもいろんな友達と放課後遊ぶのを楽しみました。

受験前の1件から、晩御飯の時は家族の音が聞こえないようにするため、耳にイヤホンをして音楽を聞きながらご飯を食べていました。


祖父の音が聞こえると吐いてしまうので。


本当は部屋で一人で食べたかったのに、祖母がダメっていって何回言ってもわかってくれないんだもん。


祖父ととても関われなくなってしまってから、私は祖母のサポートがなければ祖父と一緒にいれないことによって、少しだけ祖母に頼ることを覚えました。

だけど、祖母が私に優しくするには条件があります。Fくんとの別れです。


Fくん一生のさよなら。

高校に入ってから、いろんな友達と私が遊んでいることで、Fくんの存在があまり祖父母に感じ取れないことで別れたと思っていたのだと思います。


Fくんと私が一緒にいない雰囲気でいれば祖母は私にとても優しいんです。


本当はまだ付き合っていたかったけど、ずっと好きだったけど、人生で1番辛い時一緒にいて支えてくれた人だけど、私自分のこれからのことを考えてFくんと別れることを決意します。


だってもう、パパとママと暮らせないって決まってる。

烈くんももういない。

ママはよしのりさんと暮らして私と暮らせない。


私には祖父母の家しかないんだ。

別れた後も、知らないうちに寝ながらFくんに電話かけたこともあったりしたね。寂しかったけど、さようなら。


高校生ってひどい人ばっかり


そして受験で受かった高校。

正直そんなに馴染んではいなかったと思う。

何か起こるたびに私が悪者にされてしまうのなぜか。


多分私の性格の何かがおかしかったんだと思うけど

いつめんからも除外されて

怪我をして血がちょっとだけ出た私に対して

元いつめんだった女子が

「エイズがうつる〜〜〜きゃ〜〜〜〜〜〜」って叫んだりして。


この日文化祭か体育祭だったと思うけど、一人でトイレで泣いてたな。


味方でいてくれる友達がクラスに1人だけいて、その人のおかげでなんとか通えたけど。


二年生になってクラス替えがとても楽しみだった。


二年生のクラスの女子は全員優しかったけど、

男子とはうまくいかなかった。


高校生の頃

私は家にいる時間をツイキャスという配信アプリを使って、

トークでいろんな人を笑顔にするという活動をしていました。


そこそこリスナーがいて、おすすめランキングにも載っていて、

2年生の時クラスメイトにバレてしまったの、そのツイキャスのアカウントが。


多分、なんであんなクソブスの女が人気なのってなったのかな?

私は男子からバカにされる対象になってしまった。


クラスの男子たちはそんなつもりなかったと思うけど、

何かするたびに悪口を言われていたり、

アカウントが監視されたりしてとても嫌なきもち。


しかも隣のクラスに来ていた留学生の男の子の毛深さを日本語でバカにしたり、

同じクラスの他の男子のことも茶化し続けて、その子も高校やめちゃったし、

私はそんな男子たちに嫌気がさしていて、

高校をやめたいというきもちと、せめてこのクラスで修学旅行には行きたくないと返金を求めるか、自殺しようかの3択で悩んでいました。


支えてくれるのはやっぱり友達

この人生で1番悩んでいた時、この3択すべてを吹っ飛ばしてくれる友達が2人もいたの。

修学旅行の時は、どちらかが私と絶対一緒にいて一人にしないってスケジュールを立ててくれて、しかもその友達が保健室の先生に頼んで、関西のホテルに泊まる日、晩御飯をパパと弟と食べさせてあげてくださいって言ってくれて

特別に私だけ、外出が許可されて、4年ぶりに弟とパパと会えることになって、

修学旅行に行きたいきもちができてそれまで死なないで毎日一緒にいるからって2人が言ってくれたんです。


修学旅行当日関西のホテルにパパが迎えに来てくれて

号泣しながらパパに抱きついて

高校のクラス全部で8クラスあったけど、

8クラス全員に私が号泣しながら知らない誰かと抱き合っているところ見られたけど、それでもよかった。

たった1時間だけどパパに会えてよかった。家族ってやっぱり大切だよ。


修学旅行が終わった後も、そばにずっと友達がいてくれて、高校も結局やめないで済んだ。

保健室通いもたくさんしたけど。

さんねんせいのクラスには、1・2年の時の同じクラスだった男子はたった二人しかいなくて、その男子2人とも優しい人たちだったから、

別に男子と仲良くもなりはしなかったけど、特にいじめのようなことも起きなくてすみました。


3年生の時は、1日も学校休まずに通えました。

友達あの時死ぬことを止めてくれて、高校をやめないようにしてくれてありがとう。


衝撃の事実

少し高校生活も落ち着いてきた頃、

なぜか母子手帳を見なくてはいけない授業があったんです。

まあ、母子手帳見たところ

私の生まれたばかりの名字、全く身に覚えのない名字だったんです。


パパとママと過ごしていた頃の名字が佐藤だったとしましょう。

パパとママが離婚した後も私はずっと佐藤ほまれだったのですが

母子手帳には、岡澤ほまれって書いてありました。


父親の欄、ほぼ消されているけど

血液型Aでママより1歳年上。


おかしいな!

私のパパは、AB型でママより年下なのに。



ほ〜なるほど。

どうりで私は小さい頃からパパに甘えられないし、

パパに恐怖心を抱いているし、好きって言えなかったし、

パパも褒めてくれなかったり、弟との対応の差があったりしたのか。


通りで、私はパパにも弟にも一切似てないわけだ。


もう高校生ですし、人生にはもっと辛いことがあったので

今更父親が誰だったかとかはそんなに気にしていませんでしたが

悲しいのは、

佐藤ほまれとして過ごしてきたこの佐藤の血は私には一切流れていないということ。

パパが私の誕生日を覚えていないこと。


なんだか笑えてきてしまい

高校生で祖母と大げんかした時に

「だって私はパパとママの子供じゃないから一人でここにいるんだ!だから小学生の頃私だけここで暮らすことになったんだ。私だって暮らしたかったのに仕方なかったんだ」と叫んでしまいました。


祖母。そこから鬼のように嘘のように優しくなる。

「あんたの母親はあんたを一人にして何をしてるんだろうね」

あんなにFくんといる時は、窓から気持ち悪いて叫んできたくせに。

あんたの母親ってその前におばあさまの娘でしょ?


受験で辛い気持ちにはもうなりたくない。

その後、私は祖母と話せる程度には仲が回復したので、

そこそこ話し合えるようになってきました。

高校受験の時には、祖父に殺されるかもと思ってベランダから飛び降りかけたので、

指定校推薦でいけるところに適当に入学したいと言って大学は本当に適当に決めました。


本当は専門学校に行きたかったけど、祖父母に大学をでなさいって言われたから仕方なく。


それから高校の時に学んだこと

友達が本当に大切だということと、どんな私でも面白いと思って一緒にいてくれる人がいるということを忘れないようにしようということを

胸に刻み、大学に入学します。


私を自殺から救ってくれた友達ふたりは道外に行ってしまったから、

大学でも同じくらい大切な友達を作らないとと大学デビューを決意します。


高校でストレスで最大に太った体重から4キロ落ちて、

髪伸ばして、メイクして大学行って

勇気を出して、友達になってくださいって声かけまくったら

4/1~4/3の間に20人も友達ができました。


お泊りが解禁になった!

男がいないことを条件にされてはいたけど、

祖母から20歳になるまでは男と2人きりになってはダメと言われていたけど

とりあえず、女子とのお泊りが許可されることになって、

私はいろんな人の家にお邪魔しまくって、あんまり家に帰らなくなりました。


最初の頃は全然家に帰らないことをめちゃくちゃ怒られたけど

気にしなかった。

祖父母がいないおうちがとても楽しくて。


女子の家にいるって言って

大学で出会った元彼の家や、女子の友達の家に入り浸っていました。


まあ元彼とも大学2年の時に別れてしまって

その後は、家に帰る頻度も増えたけどあんまり部屋から出ないようにして、

家族との交流は控えていました。


そのタイミングで、今の彼氏さけちゃんと出会います。


男なんて全員同じでくそでしょ?

私の頭の中には、不倫している芸能人のニュースや、

様々な情報に踊らされて、

男は全員浮気するし、

私は愛されることももうなくて、

幸せにはなれないんだと思っていましたが、

常にいろんな男をキープしていました。

祖父母と離れるために、恋人じゃない人たち、大学の時の男も女も含めて

小学の時の友達のつてとかでいろんなところに泊りに行きました。

まあこの優しい人たちが付き合いたいって言ってくれたけど、人は男女ともに信用できないので、曖昧にぼやかして、仲良くしていて、

その時らへんにさけちゃんに出会ったので、

その人たちと同じく、

キープのような存在としてそばに置いておくことにしました。


でもさけちゃんだけ他の人と違っていて、

私を家に泊めることはしたくないと断ってくるのです。

しかもね、私のことを女の子扱いしてくるんですよ。

今回のデートは奢らせて?そのかわりまた二人で出かけてくれると嬉しいから、割り勘はその時に。


とかね。


は〜ん。誠実of誠実。


何回か遊んでいろんなところ行ってたら、

その時好きだったプリキュア、

キラキラプリキュアアラモードのキュアカスタードがしている

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さくらんぼのピアス。


「これプレゼント。受け取ってくれたら俺の彼女になるってことでいい?」


って、さけちゃんの誕生日の日に言われて、ありがたくもらって、付き合うことになりました。


そこから3年


祖父母の家から脱出して、さけちゃんの家に転がり込んで、

その時キープしてた男全員とお別れして、連絡先を消しまして

恋人として、さけちゃんと暮らして3年。


私は、少し、デリカシーがなく、他の人からの愛情を受け取ったり、感じ取るのが下手くそになってしまっていて、

何かしてもらっても、毎日浮気を疑い、毎日不安を抱き、

自分がメンヘラになって泣き叫んだ時は

ママと同じじゃ幸せになれないと暴れました。

さけちゃんは3年間毎日、浮気してないよと証拠を見せてくれたり

どれだけ尽くす気持ちがあるかゆっくり語ってくれたりしました。


私が家族と過ごした時間が少くて、思い出の場所が少ないからって、親より、祖父母よりたくさんのところに連れて行ってくれました。


どんな時も私の気持ちを優先してくれるし、私が悪いことをした時は叱ってくれるし、でも見捨てないで褒めてくれるし励ましてくれるさけちゃんは

私にとって、恋人である以上に、兄弟のようで、お母さんのようで、お父さんのようで、家族よりももっと家族になりました。


こんなメンヘラだった私が、泣かなくなり、愛情を受け取れるようになったのは、紛れもなくさけちゃんの力です。


世界中の女性みんながさけちゃんと付き合えば幸せになれると思うくらい、うれし涙を流すことも増えてきました。


23年間幸せになれない呪いを解いてくれた偉人

さて、私自身生まれてきてずっと幸せな家庭で暮らすことを夢見続けてきて生きてきたけど

自分もママと同じように幸せになれないんじゃないかと疑っていました。


さけちゃんは、服を新調して

おばあ様のところに挨拶をしに行きます。

1年前くらいの時に。


超失礼なおばあさまは、さけちゃんの全身を見ながら、

なんの仕事をしているの?どうせ別れるんでしょ?なんでこんな子と付き合ってるの?なんか騙されてるの?うちの孫が一方的に縛り付けてるんでしょ?まさか結婚なんてしないでしょうね

と話しかけます。

私は恥ずかしくて前が向けませんでした。


でも、さけちゃんは全部の質問にしっかり優しく答えます。

いつも楽しい気持ちにしてくれるんですよ。結婚はいずれ考えています。


ファーストコンタクトの日に

おばあさまにこれってお高い果物を渡して、

しっかりしている男性だということを理解したのか、

おばあさまもさけちゃんが実家に私を送り届けるたびに、

家から出てきて挨拶してくれるようになりました。


弟が数年ぶりに彼女を連れて滋賀県から、祖父母の家に泊りに来ることになった日、

さけちゃんも呼ばれて、

人生で初めて、私の部屋に男の人が泊まりました。


ママの妹の叔母さんが友達を連れて大晦日にきた日には、

さけちゃんも呼ばれて、一緒に正月を迎えました。

その時おばさんに

「ほっちゃんがどうせ無理やり付き合わせてるんでしょ」って言われた時も

いえ、僕も本当に好きですって家族みんなに聞こえるように言ってくれました。


少し月日がたって

いつもお世話になっているからと、

お中元をさけちゃんは祖父母に送りました。

ビールを、おじいさまも飲んでくださいと。

おじいさま、もったいなくて飲めないと喜んだそうです。



多分祖母が中学生から22歳まで、

とても男に厳しく気持ち悪いと叫んだり、私に友達を選ばせたのは、

ママが家出ばかりして、お腹に子供ができてしまっても結局すぐにその男に捨てられ、結局祖父母にお金や育児の支援をしてもらったからこそ

ママと同じにならないように育てるため必死だったということがわかりました。

祖父が怒鳴ったりするのは、私が祖父母に親として甘えなかったからではないかと思っています。


仲悪かった祖父母と私も、

さけちゃんのおかげできまづくなく会えるようになりました。

祖父母もさけちゃんには優しいです。


みんなさけちゃんのおかげで

イベント時に集まろうと思えたんです。


さけちゃんは、ただ誠意を持って接しているだけと軽く言っていますが、私にとっては、また家族が集まるきっかけになったこと、怒鳴らなくてもみんなが笑えていること、

それは自殺を考えていた時の私には想像することもできなかった未来です。


23年間・・・いや、ママが祖父母に愛情をもらえなかったずっと昔から流れていた、誰も幸せになれないうちの家の呪いを解いてくれたさけちゃん。

私たちみんな感謝しかありません。


そしてプロポーズ

2020.10.18 私の24歳の誕生日の日。

さけちゃんがプロポーズしてくれました。

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私の家庭環境を知っていて、

私が幸せな家庭を作ることだけを考えながら

生きていることを知っているさけちゃんにとっては

多分重いことだと思うけど。


私の環境に同情したからじゃなく、

私のいろんな考え方に触れて、

私となら幸せになれると思えたから私と結婚したいと言ってくれました。


1番最初に私がプロポーズされたことを報告したのは、

高校の時に絶望から救ってくれた友達2人です。


その次に家族。


ようやく幸せになれるね


ずっとおじいさまとは、連絡をとっていなかったので、

LINEも知りませんでした。

誕生日の時に毎年ショートメールでお祝いのメッセージをくれるおじいさま。

おじいさまあんなに、怒鳴りつけて怖かったのに。


実は優しいんだよね。

多分素直にできないだけで。

誕生日の時だけ優しいから、仕方ない。

LINEを交換してやりました。

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多分24年間生きてて、1番おじいさまが優しい日。

受験で一人で辛かった私に追い打ちをかけた人とは思えないけど

これもさけちゃんが、ほどいてくれたんだね。


なんだよ。

元はと言えば

おじいさまがおばあさまに優しくなくて、

ママに愛情を注がなくて

私が生まれちゃって、

ママも精神的に子育てできなくなった時に、

支えてあげなかった上に

私に少しも歩み寄ろうともしなかったくせに!


なんだよ今更〜。優しくするなよおじいさま〜。


〜私が✖︎2って知ってたの?〜


さあ入籍に備えて戸籍謄本を用意しなきゃ〜と思って祖母に私の戸籍藤本どこにある?って聞いたら

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わからないんかい。

マミーに聞いても、曖昧。

どこだよ!


まあとりあえずあたりをつけて行ってみた区役所にありましたので、無事ゲットできました。


わかっていたことではあったけど、

住んでいるのは祖父母のおうちで

パパは養父で

父親は全く知らない人。


そしてママからのライン。

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父親に関することかな?とドキドキして会いに行きました。


そう。実はね。私がパパと血繋がっていないことを知っているのを

知っているのが

喧嘩した時にぶちまけたおばあさまと弟だけでした。


だからママはずっと24年間いつあなたの本当のお父さんはどっかに行ってしまったのよっていうか悩み続けていました。


カフェでママがいいます。

「ママが✖︎2って知っているの?」

もちろん高校生の時から知ってるよ母子手帳を見たからね。


「ママや誰かに、どうしてなのって怒ったり悲しんだり傷ついたりはしていないの?」

もうどうしようもできないことだから気にならなかった。


「会いたいと思わないの?」

相手も困ると思うから、無理してあわなくて大丈夫。


「こんなダメな親なのにまっすぐきちんと育ってくれて本当に感謝しています」

私は周りの友達や大人にとても恵まれていたからだね。


ほっちゃんは本当に父親に似ているよ。


顔も知らないお父さん。

24年間生きてて、戸籍謄本見るまで、名前も知らなかったお父さん。

ママが初めて口に出した私のお父さんのこと。

似ているんだってね。


さけちゃんが毎日顔がタイプと褒めてくれるの。

お父さんありがとね。

遺伝子を分けてくれて。


憎しみも感謝も何もなかったけど

やっぱり顔に関しては、割とありがたいことなんどもあったし、

そこだけ感謝しておくね。


これを見た人

周りに

岡澤和志っていう40代後半のA型いたら教えて。

それが私のお父さんらしいから。


会いたいとは思わないけど

同じ血が流れているなら生きているかくらいは知りたいの。


エピローグ

入籍する日は12/10。おばあ様のお誕生日。


ひょまれ幸せになります!


私と関わってくれた私の成長に繋がったすべての

優しい友達や、元恋人、習い事の友達、バイト先の仲間たち、先生たち。

私、みんなのおかげで

笑っていられる自分になったよ!


幸せな家庭目指していっぽ踏み出すから、

これからも見守っていてね。


ここまで読んでくれたあなたも本当にありがとう。

涙を流しながら私もこれを書いて自分の人生を振り返ることができたよ。


あなたも幸せになれますように。

大好きな誰かと一緒にいますように。


自分の辛かった記憶も忘れないように、記す場所をくれてありがとう。


願わくば、私のような寂しい気持ちになる子供が一人でも減りますように。







今この記事が執筆終わったあと、さけちゃんから

今から仕事から帰りますって電話来た時に、

元気なさそうだけどどうしたの?って聞かれて

人生振り返ってたって言ったら

これから未来のことを二人で考えていこうねって優しく言ってくれたので、

世の中の女性に希望を持たせるため追記しました。

本当に優しい人もいるものですよ。


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