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粗雑な人の心理

拠点長の中には、営業などで集客はきちっと出来ていたり、設定した目標は達成したりと、決して優秀ではないわけではないのに、内部の運営に際しては何故だかスタッフさんたちと上手くいっていない人がいます。

集客が図れるということは、外部の関係機関との関係性はしっかりと構築できており、そこに対してはきちんと向き合えているわけで、決してコミュニケーション能力が低いわけではなさそうです。

ところが、その外面そとづらに対して内部のスタッフに向き合う姿勢が伴っていないと思えることが多いです。

スタッフからは当然上長への不満の声が吹き上がってきます。
退職者も続きます。

人の話を聞いていない。
聞いたとしても上の空。
適当にその場しのぎの相槌を打っている。

スタッフの声を集約してひと言で言い表してみると、つまるところ拠点長は「粗雑な人」であるということ。

粗雑とは、

細かい点までは行き届かず、あらっぽくて、いい加減なこと。
おおざっぱ。そまつであらいこと。また、そのさま。ぞんざい。

と辞書にあります。

スタッフへの対応、向き合い方が適当、もしくは適当に感じさせてしまっているということですよね。

そして、突き詰めて考えていくと、結局「粗雑な人」というのは他者に対して以前に、まずは自分自身に対して雑なのではないでしょうか。

振り返ってみると、営業をして集客を図ってくるのも、どちらかと言えば「何とかしないと」という内発的動機よりは、「何とかしなさい」という上司からの外発的動機、もっと言えば尻を叩かれてから動き始めるようなところがあります。

誰かに常に発破をかけられ続けなければ、本来の能力を発揮しない、発揮できないという傾向にあります。

これでは、集客営業のような目に見える分かりやすい形での行動は起こせるでしょうが、例えば「スタッフにきちんと向き合いなさい」というような指示に対しては本人の気持ちが伴わなければスタッフには本気度は伝わりませんし、それなりの反応しか返ってこないことでしょう。

先日、部下に朝礼・環境整備をやっていないことを指摘されて、決められたことややるべきことをやっていない自分のことを笑った上長がいました。

自らを嘲笑うその姿を見て、私は笑えませんでした。

その時、「この人は、自分に甘いわけではなくて、自らを雑に扱っているのだな」と思ったのです。

自分への「関心の無さ」が、スタッフや環境へも同じように向かい、結果そのまま今の営業所の環境に反映されているのです。

本当は、本来ならばどのような自分でありたいのか。
どのような自分になりたいのか。

「好きな自分のイメージ」をどれだけ明確に持っているかどうか。

自分への関心は、そのまま相手への関心へと向かいます。

好きな自分のイメージは、言い換えれば「相手から見られたい自分のイメージ」でもあります。

そして、周囲から見られたい自分のイメージに近づくためには、周囲の期待に応えていくことです。

いかに相手に喜んでもらうか、です。

そういった意味では、お客様や関係機関の方からの感謝と、スタッフからの感謝は同じエネルギー源にならないのでしょうか。

お客様のためにすることと、スタッフのためにすることは同じ内発的動機にはならないのでしょうか。

お客様へも自分の預かる拠点のスタッフへも、つまるところ関心の向け方は同じはずです。

そこに気づくために必要なのは、「自分自身に丁寧に向き合うこと」だと思います。

自分をもっと好きになるためには、「成りたい自分のイメージ」をはっきりさせることです。

今日も読んでくださいまして、ありがとうございます。

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