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【UPDATE】親子の絆(自己紹介5)

こんばんは!
これまでのハードモードな30年を振り返り、これからの人生の糧にしていくことを決めた男、小栗義樹と申します!

さぁ、金曜日は僕の出世作!
「ちょうどいいハンデだ」のUPDATE記事を公開します!

僕は今まで、橋にも棒にも掛からない記事をnoteに更新していましたが、このちょうどいいハンデだという自己紹介記事を皮切りに、沢山の人に記事を読んでもらえるようになりました!

そんな僕の出世作ですが、書き終えて読み返してみた所、思った以上に書ききれていない事に気づき、軽く絶望しました(笑)

そして、この記事はきちんとUPDATEしていく必要があるなと思うようになり、そこから生まれたのがコチラの企画【UPDATE】ちょうどいいハンデだです!

UPDATEとは何かというと、
・当時書いた本文(下線部分内)を少しだけ修正・加筆する。
・冒頭の挨拶文(これ)を完全リニューアルする。
・文末は有料パート。過去に書いた自己紹介を読み直し、思ったことや違った視点・別の切り口などを加筆、思い出した新たなエピソードを追加します。

僕個人の紹介は、本編でなされていますので、
有料部分はもう少し尖った話をします。その話の先に、皆様の日ごろの生活に役立つ何かがあればいいなぁと思っております。

さて今回の記事ですが、前回に引き続き重苦しい内容になっております。

大好きだった父との別れ。そして始まる新生活についてです。
僕にとって父は、お酒さえ飲んでいなければ素晴らしい父でした。子煩悩でユーモアもある、最高の父親だったのです。

そんな父との別れを経験した僕が、その時何を思い・何を感じたか。
そんな事をまとめた記事になっています。

有料パートでは、父が仕事に行かなくなってしまった時のことを振り返り、あの時に僕のスタンスは決まっていたのかもしれないという将来確定論みたいな話と、父の行動の一部始終が僕にもたらした、未来変革論みたいな話をします。

夢・希望週間という事で、有料パートは題材に沿った話に仕上げていきますので、良ければ購入して読んでみてください!

夢・希望週間の詳細はこちらから!

身になる話をしていこうと思います!

それでは参りましょう!

この記事は、2023年1月2日更新された5本目の自己紹介記事です!

どうぞ!


「よしき、映画を観に行こう」

久しぶりに父から連絡があり、僕は千と千尋の神隠しを父と一緒に観に行って、その後にハンバーグを食べた。父とは1か月~2か月に1回程度会うくらいの距離間になっていた。

「また、遊ぼうな」

夜、そう言って車に乗り、暗闇に消えていく父を見送りながら、僕は泣いた。

あの時の涙には2つの意味があると思う。

優しい、ちゃんと話をしている父との別れが寂しいという涙と、今日は父がちゃんとしていてよかったという涙だ。

恐怖はきちんと身体に染みついていた。

そしてこの頃の僕は、心のどこかで「もう父とはこの先会えなくなる」事を悟っていたのかもしれない。

それは、僕が9歳の頃の事だった。

ーよしき、出かけるよー
そう母に言われ、僕は準備をしました。母は大きな荷物をもっていたと思います。夜中だったか、昼間だったかは覚えていないです(笑)

はっきり覚えているのは

「この家にはもう帰ってこないんだろうな」という予感でした。

小学校2年生の終わりくらいだったかなと記憶しています。

父は、祖父が経営するクリーニング屋に仕事に行っていましたが、とうとう出勤しなくなり、昼間から家にいるようになりました。寝てることもあれば、お酒を飲んでいたこともあったと思います。

そんな時期がしばらく続き、父はとうとう祖父の会社を辞めました。祖父母もとうとう、父のめんどうを見切れなくなったんですね。

父はその後、ある工場に転職する事になります。

家では、相変わらずケンカが絶えず、僕と妹は2階の部屋でケンカが終わるのを待っていました。いじめは少なくなりましたが、とはいえ僕に平穏が訪れることはないわけですね(笑)

酔っぱらっている父とのケンカは不毛だったと思います。会話の内容までは覚えていないのですが、今思えば話がかみ合ってなかったような気がします。

質が悪いのは、父が仕事を辞めたにも関わらず、やはり生活レベルは落ちませんでした。今だからわかるのですが、祖父母は、お金だけは父に渡していたのでしょう。

生活面での面倒は見切れません、お金渡すから勘弁してね。というスタイルをとったという事です。

やばい家の典型だと思います(笑)

そんな状態ですから、父は転職してもまともに働きませんでした。

1つ、今でも鮮明に覚えているエピソードがあります。

とある、大雨の日の話です。

母と妹と僕の3人で、ご飯を食べていました。生まれたばかりの弟は寝ています。すると、電話が鳴りました。母はその電話を取るとペコペコ電話の前で頭を下げています。電話を切るやいなやいきなり「出かけるよ」と母に言われ、妹と生まれたばかりの弟と一緒に車に乗り込みました。

#今まで登場していない弟については後日改めて話しますね笑

向かった先は父の職場。

雨と雷がすごい中、僕と妹と弟は車で待機。母は職場に向かって走っていきました。30分くらいでしょうか?雷がすごくて、車の中で泣いている弟をあやしていると母が車に戻ってきて、何も言わず家に帰りました。

どういうことか分かりますか?(笑)

父が無断欠勤を繰り返して、クビになったという事です(笑)

ちなみにこれ多分 ー 推測が含まれています(笑)

母にも、あの時のことは聞いていません(笑)

いや、怖くて聞けないと言った方が正しいと思います(笑)

僕が大人になり、断片的な父のエピソードを母から聞く中で、父が仕事をクビになった日があの日だという憶測が立ったのです。

僕は、自分の父が会社をクビになり、母がそんな会社に謝りに行っている現場付近で弟をあやしながら待っていたわけです。

ある意味、衝撃でした(笑)

父は、しばらく会社に行っていなかった。言われてみれば、僕が学校から帰ってくると、すでに酔っぱらっているなんてこともありました。多分母は、30分近くあの工場の上司みたいな人に頭を下げていたんだと思います。

僕の母は、気が強くて根性ある女性です。

家では父とけんかして、父が迷惑をかけた会社の人や一般の方に謝りにいって、警察からの連絡がきたら、外で寝てしまった酔っ払いの父を迎えに行って。そんな生活にしっかり堪えていたと思います。でも、さすがに限界だったのでしょうね(笑)

ある日、僕と妹と弟を連れて家を出ていくことに決めたんです。

このエピソードの少し後の事だったと思います。

冒頭、僕が「この家にはもう帰ってこないんだなぁ」と予感したのは、母の顔を見た時でした。その時の母の顔を、僕は今でもはっきりと覚えています。

「子供たちは自分の手で育てる」という覚悟に満ちていました。

そして、母の実家。僕からすると母方の祖父母の家に移り住むことになったんです。

祖父母の家は、古い鉄骨造りの3階建て。僕たちは、この家の一室を借りて生活することになりました。トイレは和式、風呂も小さく、隙間風がビュービュー入ってきます。昔の造りですからね。家の周りは自然豊かで、目の前が土手だったこともあり、虫も沢山入ってきました(笑)

僕は、祖父母にも気を遣っていました。祖父も酔っぱらうと豹変するタイプで、うるさくすると怒鳴られます(笑)

ここでも、父に気を遣っていたように祖父に気を遣っていました。

何よりも、親戚とはいえよそ者です。祖父母は僕に優しくしてくれるけど、僕の心の中には「住まわせてもらっている」という気持ちが強くあり、ご飯を食べるときも、お風呂に入るときも落ち着きませんでした。

この頃は、小学校まで母に車で送ってもらっていました。祖父母の家も、越谷市にあったのですが、僕が通っている小学校は学区外だったため、登校班が無かったのです。

1年生で体系に対するいじめの対処法を学んだ僕でしたが、小学2年生の頃も3年生の頃も少しいじめがありました。大分減ったんですけど、撲滅まではもう少し時間がかかるという感じでしたね。

この頃は、家が学区外だったこともあって、学校終わりに友達と遊ぶという事が出来ませんでした。家に帰る頃には、もう若干外が暗いんです。学校外でコミュニケーションが取れない事もあり、なかなか友達が出来ませんでした。

1年生の頃、いじめにあっても学校に通えたのは友人がいたからでした。友人がいたから、いじめを我慢する事が出来たのです。でも、2年生~3年生の頃は、そういう心底信頼できる友達が出来なかった。だから、学校に行くのが結構しんどかったんです。

とはいえ、家でその話をすることは出来ません。

今、僕が住んでいる家は祖父母の家。学校でいじめにあい、友達も出来ないから学校に行きたくないなんて言おうものなら、余計な心配をかけてしまいます。だから、ひたすらこらえていました。

5歳の頃から数えて4年も経過するのに、さんざんな結果ですね(笑)

さて、この頃、父とは1か月~2か月に1回程度しか会わなくなっていました。母から急に「パパに会いたい?」と聞かれて、「会いたい」と答えると会える。この周期がちょうど1か月~2か月に1回程度でした。大好きだった祖父とは、もうこの頃には会えなくなっていました。

冒頭に書いたエピソードは、1か月~2か月に一度しか会えなくなった父とのエピソードです。

仕事はしていなかったから、日雇いの仕事でお金を貯めて、僕達と一緒に出掛けていたのでしょう。

僕は、父が大好きでした。

気を遣ったり、怒られたり、アッパーをもらったり(笑)

大変だったことも沢山あったけれど、それでも父が好きだったんです。

自分の親です。当たり前じゃないですか。

楽しい思い出も沢山あったんです。本当に、優しい父だったんです。

だから母から、

「パパがパパじゃなくなるけど、それでもいい?」

と言われた時、ビックリした自分がいました。

僕は、いつかは父に会えなくなると確信していたのに、この期に及んで心のどこかでは、楽しかったあの頃の家族にまた戻れるかも。そんな事を思っていたのかもしれません。

父との思い出は永遠に消えませんね(笑)

21年前のことなのに、今でもちゃんと覚えているんだから。

この記事を読んでいる人の中で、今親をやっている人がいたなら、覚えておいてください。

子供はちゃんと親を見ています。

親との思い出はちゃんと覚えています。

どんなに時間が経過してもです。

だから、模範となる行動をして、精一杯の愛情を注いであげてほしいです。

この先両親は離婚します。そして、新たな生活と絶望の4~5年生のハードすぎるいじめライフが始まります(笑)

解決したと思ったいじめ問題が復活するんです。しかも想像を超えるくらいハードになって。驚いたでしょ?(笑)

多分、いじめのピークはここです(笑)

僕は、ここからかなり歪みます(笑)

でもその話をする前に、明日は少しだけ、家族や兄弟、祖父母、友人など、幼少期の僕の人格を形成するのに重要な役割を担ってくれた人の事を簡単に紹介します。

めっちゃ泣きそう(笑)

まさか、思い出を語るのがこんなに大変だったなんて(笑)(笑)(笑)


ありがとうございました。

少しだけ修正をしましたが、内容までは変化していません。
僕、この記事は結構気に入っています。

かなり本質に近い記事だと思います。いい感じに情景が伝わる書き方だなぁと。何よりも、親子って不思議な関係だなというのが伝わる気がしますから。

自画自賛ですね(笑)
すみません(笑)

この後有料パートでUPDATE記事を書くのですが、無料部分でも1つ、UPDATE情報を書きます。

先週の金・土の記事でいじめに対する対処法を書かせてもらったのですが、いじめにはもう1つ、大切な対処法があります。

友人です。

被害にあっている方にはぜひ、友人を思い出す時間を作る・友人を作るという事を意識してほしいです。

この記事の本編でも触れていますが、僕にとって小2・小3が生きにくかったのは、友人とコミュニケーションをとれる環境が少なくなってしまったことがあります。

友人は、別に学校や職場でなくてもいいです。ネットの中だっていい。
今ならネット上にプライベートルームを作る事が出来ますよね。
そこで話しをする時間を作ってみてください。

いじめは友人で中和出来ます。
自分の事を心配していくれる人と友人を大切にして、その人たちの言葉を信じれば、あなたの人生は元に戻るはずです。

ぜひ、友人の存在を思い返してみてください!

さぁ、ここからは有料パートです。

将来確定論と未来変革論、そして親子とは何なのか?

この辺りを書いていこうと思います。めちゃくちゃややこしい話ですが、興味があれば読みに来てください!

それでは、ここまで読んで下さりありがとうございました!
また明日の記事でお会いしましょう!

将来確定論と未来変革論

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