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ふるさとへ。〜遠きにありて思ふ〜

  #小説

 

 生まれ育った東北の地方都市を出て、上京してから、もう、かれこれ五十年近くになる。。

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  小景異情 その二  室生犀星

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食《かたゐ》となるとても 帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
  ー抒情小曲集 新潮文庫よりー

 自分のふるさとが大好きで、そこが「居場所」で、時間の許す限り帰省したい人は、たくさんいることだろう。

 でも、わたしは、そんな心情になったためしがない。ふるさとは、わたしにとって、悲しいけれど、どこまでも、「遠きにありて思うもの」なのだ。。

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 わたしの「ふるさと」は、わたしのこころのなかに、大事に、しまってある。

 それは、「懐かしい、優しい、わたしが創った心象の世界」だから、もしかしたら、最初から、現実とは少し違っているのかもしれない。

 でも、そこでは、もう、亡くなってしまった人たちが、わたしに向かって微笑んでいる。。

幼かった頃に、住んでいた家。 
幼かった頃に、良くお泊りに行った母方の祖父母の家。
幼かった頃に良く一緒に遊んだ飼い犬。 好きだった風景。
わたしが幼かった頃の父と母。 
そして家族の風景。

 すべては、遠い昔の、今は、もう、「無い景色」である。

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 一九七四年 春。

「お前を東京の大学に行かせるわけにはいかないな。」

 勇気を出して、「東京への進学希望」を、切り出したとき、父は、困ったような顔をして、こう言った。

 何度お願いしても、わたしの「東京行き」に賛成してくれる人は、家族にも、親戚にも、誰一人居なかった。

 今から思うと、信じられないけれど、「女の子」は「勉強」しすぎると生意気になって、「嫁の貰い手」が無くなる、などと、まことしやかに言われていた時代だったのだ。

 「早く嫁に行って子どもを産み、親を安心させなさい。」という考えかたが、圧倒的に主流のなか、親戚が一人もいない東京に出て、下宿までして「勉強」するなんて、「全く、何を考えてるんだかねぇ。」と、わたしは、親戚じゅうから総スカン状態になった。

 それでも、わたしは、どうしても。諦めきれなかった。

「勉強」したいことは、山ほどあったし、東京で、さまざまな刺激を受けて、自分を成長させてみたいというおもいは、日に日に募ってゆくばかりだったのだ。

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 田舎の女子高のなかでは一番難しいとされていた進学校にいたわたしは、小さな世界で、「優秀なお嬢さん」と呼ばれていた。

 そんなふうに、お世辞にせよ、持ち上げられていた自分は、褒められるたびに、お前は所詮は「井の中の蛙」に過ぎない、と宣告されているような気持ちになったものだ。

 誰も、わたしのことを知らない「東京」で暮らしてみたら、「わたし」はどんな人間になれるのか知りたい、と、切実に、思っていた。

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 「東京行きをやめてくれるなら、漱石全集を買ってやるぞ。」

 父はそんなことを言って、わたしの「東京行き」をあきらめさせようと頑張った。

 「漱石全集?」

 あの当時の「漱石全集」は、かなり高価なものだった。文学好きだったわたしは、たしかに、日頃から、「漱石全集が欲しいな。」と、言ってはいた。

 それでも、わたしの「東京への情熱」が、「漱石全集」で諦められる程度のものだと思われているのか、と、結構がっかりしたことを憶えている。

 母は烈火のごとく怒っていた。

「お前は長女で、この家の跡継ぎなのに、東京に行くなんて、絶対駄目です。」

 そんな両親を説得して、とりあえず、「受験だけでもさせてあげて下さい。」と、とりなしてくれたのは、当時の高校の、担任の先生だった。

 わたしは、「受験」だけは出来ることになった。でも、両親は、どうせ、「合格しない」と、たかをくくっていたのだ。

 ところが、わたしは、何校か受験したなかで、一番難しかった女子大にだけ、運良く「合格」したのだ。

 今ならあり得ないことだけれども、昔のことなので、難関大学に合格すると、地元の新聞に、出身校と実名が載った。

 すると、不思議なことが起きた。

 わたしの名前が新聞に載った次の日から、我が家の電話は、鳴りっぱなしになったのだ。

「優秀なお嬢さん」を誉め称える、たくさんの知り合いからの、「お祝いの電話」だった。

 結局、両親は、折れた。

 あまりにも、「お祝いの電話」が来るために、もう、「合格」した「大学」に行かさないと、示しが付かなくなってしまったのだった。

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 一九七五年 春。


 そんな経緯で、わたしは、念願叶って「上京」し、大学が在る「西荻窪」で、「下宿暮らし」をすることになったのだ。


 右も左もわからない東京で、知っている人も親戚も、誰もいないなか、わたしの「大学生活」は、始まった。

 「誰も知っている人がいない生活」は、わたしにとっては、寂しいことも、不便なことも、特に無く、むしろ、とても居心地が良かった。

 そもそも、わたしは、幼い子どもの頃から、雑踏のなかに、「ひとり」で立っている、という感じが、安心出来て、とても好きだったのだ。

 人を、遠くから、見ていたいけれど、近寄って、あまり密に関わりたくはない、というのが、わたしが、人に対したときの、「好きな距離感」だった。

 でも、その当時のわたしの田舎では、そのような感覚は、ちっとも理解されなかった。

 「みんな仲良し」が良しとされているようなふしがあって、ひとつの価値観を共用することで、安心しあっているような、そんな雰囲気があったのだ。

 そんなふうに、「仲良く馴れ合っているさま」が、わたしは、心底苦手だった。

 「共同体的なもの」や、「地縁的」なものが、どうしても、息苦しいし、「人と仲良しになり過ぎる」のも、とても疲れるのだ。

 適当に知らん顔をしてくれて、放っておいてもらえる、「都会の、匿名性のある人間関係」のほうが、呼吸がしやすいし、どうしても、楽に感じられた。

 だから、わたしは、「上京」出来たことで、とても楽になったのだ。

 これで、やっと、「放っておいてもらえる自由を手にした。」と思った。

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 もしも、あのとき、高校の担任の先生が、「受験だけでも、させてあげて下さい。」と、両親を説得してくれなかったら、そして、受験に成功しなかったら、わたしの人生は、全く違ったものになっていたことだろう。。

 そもそも、人格さえ、違う人間になっていたようにも思う。

 「優秀なお嬢さん」のまま、田舎で、親が勧める公務員になって、親が納得する人をお婿さんに貰って、安泰に暮らしたのかもしれない。

 東京の生活で、わたしは、自分で期待した以上に、刺激を受け続け、さまざまな経験をして、もみくちゃにさえ、された。

 生ぬるい「みんな仲良し」的な価値観は通用しなかったから、早急に、「自分なりの価値観」を、自分のなかで、確立しなければならなかった。

 学生時代でも、いっときは、こころが壊れそうになったこともあったし、まだまだ柔らかかった人格は、どんどん変化して、わたしの「個人主義」的な側面は、どんどん強化されて行ったように思う。

 どんなにつらいことに遭遇して、そのたびに凹んでも、わたしは、もともと自分が持っていて、田舎では、悪目立ちしないように隠していた、「変わった種」を「開花」させることが出来そうだと感じながら暮らせていたので、それなりに満足だった。

 「自己実現」。。

 それが、わたしの、人生の目標だったのだけれど、田舎では、それが、なんのことを指すのか、理解もされずに、ただの「我がまま」だと非難されるばかりだった。

 わたしにとっての「自己実現」とは、「本来の自分らしい自分になる」ということだったのだけれど、田舎では、「まわりから期待される自分」でいなければならなかったから、それは、自分の目指す「自己実現」とは、かけ離れていた。

 ふるさとの山や川、街並みは、大好きだった。でも、そこにある、地縁や、人間関係は、わたしにとっては、どうしても、逃げ出したいものだったのだ。

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 わたしは、結局、田舎に戻ることもなく、母が望んだ婿取りもすることなく、好きになった人と結婚した。

 生まれた娘たちが、「引きこもり」をする以前は、それでも、まだ、定期的に帰省もしていたので、ふるさとは、そこまで遠くはなかった。

 さまざまな要件が、おそらくは、沸点に達して、必然的に、娘たちは、「引きこもり」になったのだと、今は、思う。

 娘たちの「引きこもり」は、「大きな気づき」への「小さな一歩」に過ぎなかった、と、言えるのかもしれない。

 「引きこもった」娘たちは、もう、帰省したがらなかったし、どちらの祖父母たちにも、会いたがらなかった。

 祖父母たちの「共同体」的な価値観と、「役割を期待する考えかた」とを、娘たちも、からだで拒否していたのだ。

  わたしの母が亡くなったとき、もう、これからは、母の、わたしへの口撃は、無くなるから、ふるさとは、わたしに、微笑んでくれるのかな、と少し、期待した。
 
 でも、それは、不思議な方向に、変化した。
 
 母の姿が、ふるさとから消えたとき、あんなに好きだった山も、川も、街並みも、不思議なことに、わたしには、もう、「知らない景色」にしか見えなくなったのだ。

 父が亡くなって、それは、さらに、はっきりした。

 ふるさととは、父や母という、愛すべき存在が、作っているものだったのだ。

 父も母もいないふるさとの景色は、わたしには、もう、ふるさとには、見えなかった。

 もはや、わたしにとって、ふるさとは、なんの変哲もない、通りすがりの土地に、成り下がってしまっていた。。

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 だから、ふるさとは、もう、わたしのこころのなかにだけ、存在する世界になってしまったのだ。

 また帰省しても、おそらく、わたしには、ふるさとは、もう、ふるさとには見えないだろう。

 父や母が生きていた頃のふるさとは、わたしにとっては、居心地が悪く、逃げ出したいような場所だったのだけれど、それこそが、わたしのふるさとだったのだ。

ふるさとは、遠きにありて思うもの。。

わたしは、室生犀星ほど不幸な生い立ちではなく、むしろ、恵まれた生い立ちだけれど、「ふるさとが居心地が悪い」という、一点だけが、なぜか一致している。

 ふるさとは、ほんとうにほんとうに、恋しいけれど、「恋しいというおもい」だけを大切にして、わたしは、「都会」で暮らそう。

 そんなことを、想う。

 ふるさとには、わたしの、「居場所」は、無いのだから。。

 父と母の意に添えなかったことを、詫びながら、それでも、「譲れなかった人生」を、これからも、精一杯生きることを誓いながら、こころのなかで、静かに、呟く。

 ーー赦して下さい。

 そうして、今日も、わたしは、二人に向かって、そっと、手を合わせる。

 


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