Etsuko Rosal

下町暮らし。5匹の元野良猫と高次脳機能障害のある義兄との日々の断片「猫と義兄」。

Etsuko Rosal

下町暮らし。5匹の元野良猫と高次脳機能障害のある義兄との日々の断片「猫と義兄」。

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猫と義兄

 5匹の元野良猫と下町に暮らしている。 いま、そのうちの1匹は目には見えない。  脳障害のある義兄がいる。 中学生の時に脳梗塞を起こし一命を取り留めたものの、脳の損…

Etsuko Rosal
8か月前
14

Ⅱ. セカンドオピニオン [猫と義兄ー猫編]

 以前住んでいた土地は、小さなエリアに大小の公園といくつかの学校が集まっており、住宅も庭や軒下をもつ戸建がほとんどだった。そのため地元の保護猫の活動団体を中心に…

Etsuko Rosal
3か月前
8

I. 隻眼 [猫と義兄ー猫編]

 ──猫は向こうからやってくる。  この言葉は、ある詩人によるものだ。  我が家の五匹の猫たちはみな、向こうからやってきた、と言えるかもしれない。だが無計画に迎…

Etsuko Rosal
5か月前
3

10. ショルダーストラップ

 アニはいつもリュックサックのショルダーストラップが捩れ、肩からずり落ちた状態で背負っている。靴底を地面に擦りながら歩くので、しばしば夫が注意する。  高次脳機…

Etsuko Rosal
5か月前
6

9. マラドーナ

 アニは考えを言葉にするまでに時間を要する。それは数週間から数ヶ月に及ぶ場合もあり、アニへの問いは、忘れた頃に答えが返ってくることがあるので、気長に待つようにし…

Etsuko Rosal
5か月前
8

8. 冬至

 私は義父母と言葉を交わしたことがない。  義母は20年近く前に他界しており、義父については、火葬炉の前で棺の小さな窓越しに束の間の対面をしたのみである。  釈放…

Etsuko Rosal
6か月前
7

7. カレーライス

 アニは数ヶ月という短い期間だが、路上生活を送っていたことがある。  春の終わり、保釈されたアニと初めて食事をした時、歯がほとんど無いことに気がついた。傍目から…

Etsuko Rosal
6か月前
11

6. ぜいたくてちょう

 ──お兄さんは普通じゃないと思います。  警察署での聴取の終わりに差し出された一冊の手帳とともに、刑事からそのような言葉をかけられた。勾留されているアニとまだ…

Etsuko Rosal
7か月前
8

5. 孤独を感じるか

──ずっと独りで、寂しくありませんでしたか。 ──いずれ結婚をしたい、という思いはありませんか。  第三者からの客観的かつ一般的な問いかけは、家族の力では開けな…

Etsuko Rosal
7か月前
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4. 梅雨のはしり

 義母が遺した手帳に記された、当時のアニの主治医と思われる医師の苗字を手がかりに、その人が現在勤務する病院を探し出すことができた。  手帳は、アニが退院してから1…

Etsuko Rosal
8か月前
14

3. 偏食家

 アニは極度の偏食家だった。  子どもの頃からほとんどの野菜を口にしなかったという。魚も滅多に食べることはなく、食事はひたすら炭水化物と肉類が中心だったそうだ。 …

Etsuko Rosal
8か月前
14

2. 生まれつき

 義実家を訪れたのは、アニの逮捕から一週間ほど経ってのことだった。  逮捕を知るきっかけとなった、ニュースでの報道。休日の早朝に報じられたにも関わらず、ニュース…

Etsuko Rosal
8か月前
12

1. 小糠雨

 アニ(義兄)との初めての対面は、留置所のアクリル板越しだった。逮捕から四日後のことである。  「父親の金を自分のものにしたかった」 アニは警察にこう供述したと…

Etsuko Rosal
8か月前
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猫と義兄

猫と義兄

 5匹の元野良猫と下町に暮らしている。
いま、そのうちの1匹は目には見えない。

 脳障害のある義兄がいる。
中学生の時に脳梗塞を起こし一命を取り留めたものの、脳の損傷による高次脳機能障害と器質性精神障害を抱えている。

 義兄に脳障害があることが分かったのは、彼が47歳の時、自宅で病死した父の遺体を8日間放置した、死体遺棄の容疑で逮捕されたことがきっかけだった。

 我が家の猫たちは、すべてが何

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Ⅱ. セカンドオピニオン [猫と義兄ー猫編]

Ⅱ. セカンドオピニオン [猫と義兄ー猫編]

 以前住んでいた土地は、小さなエリアに大小の公園といくつかの学校が集まっており、住宅も庭や軒下をもつ戸建がほとんどだった。そのため地元の保護猫の活動団体を中心に、TNR(猫の捕獲、不妊・去勢手術、元の場所に戻すこと)された地域猫が多く暮らしていた。

 私の住んでいた低層階のマンションも、何人かの住人が餌をあげている一匹の猫がいた。食事時になると、どこからともなく現れ、駐輪場で餌を貰うのを待ってい

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I. 隻眼 [猫と義兄ー猫編]

I. 隻眼 [猫と義兄ー猫編]

 ──猫は向こうからやってくる。

 この言葉は、ある詩人によるものだ。
 我が家の五匹の猫たちはみな、向こうからやってきた、と言えるかもしれない。だが無計画に迎え入れたわけではない。

 我が家の猫のうち、正確な年齢が判っているのは一匹だけである。
 その猫は、あるピアニストと仕事をしていた時、彼の伯母が保護した野良猫のうちの一匹だった。

 デスジャズというジャンルを掲げるグループで活動してい

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10. ショルダーストラップ

10. ショルダーストラップ

 アニはいつもリュックサックのショルダーストラップが捩れ、肩からずり落ちた状態で背負っている。靴底を地面に擦りながら歩くので、しばしば夫が注意する。

 高次脳機能障害の判定をした市立病院の紹介で、二つ隣の駅にある精神医療の専門病棟を有する大学附属病院を訪れたその日も、肩が捩れたリュックサックを背負い、靴底を引きずる音と共にアニはやってきた。
 誕生日にプレゼントしたスニーカーは、靴べらを使わずに

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9. マラドーナ

9. マラドーナ

 アニは考えを言葉にするまでに時間を要する。それは数週間から数ヶ月に及ぶ場合もあり、アニへの問いは、忘れた頃に答えが返ってくることがあるので、気長に待つようにしている。

 義父の死後、一切の炊事ができないアニのために、一週間分の食事を作り、毎週末に渡している。脳障害により、注意力が欠如することが多いため、ガスコンロを使うことなく電子レンジで温めるだけで食べられる状態まで調理してから、種類別に一食

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8. 冬至

8. 冬至

 私は義父母と言葉を交わしたことがない。
 義母は20年近く前に他界しており、義父については、火葬炉の前で棺の小さな窓越しに束の間の対面をしたのみである。

 釈放されたアニと初めて話をした際、自分が義父と一度も関わる機会がなかった、という話をしたところ、会わなくてよかった、と何度も笑いながら言われたが、その様子を見る限り、冗談ではないように思われた。

 これは、アニから聞いた、義父による家庭内

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7. カレーライス

7. カレーライス

 アニは数ヶ月という短い期間だが、路上生活を送っていたことがある。

 春の終わり、保釈されたアニと初めて食事をした時、歯がほとんど無いことに気がついた。傍目からは、欠けてそれぞれ1/3ほどになった左側の中切歯と側切歯が辛うじて確認できるのみで、実際に何本の歯が残っているのかさえ判らないほどだった。会話の時に、やや言葉が抜けるような印象を受けるのは、歯音がうまく発音できないせいだろう。
 アニの話

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6. ぜいたくてちょう

6. ぜいたくてちょう

 ──お兄さんは普通じゃないと思います。

 警察署での聴取の終わりに差し出された一冊の手帳とともに、刑事からそのような言葉をかけられた。勾留されているアニとまだ1度しか面会をしていなかった当時、刑事の言葉に私は動揺した。警察の示す、普通じゃない状態とはどのようなものか。

 警察署を後にし、まだ冬の寒さが残る夕暮れの街を、刑事にかけられた言葉を反芻しながら駅に向かうと、家路を急ぐ人たちが行き交う

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5. 孤独を感じるか

5. 孤独を感じるか

──ずっと独りで、寂しくありませんでしたか。
──いずれ結婚をしたい、という思いはありませんか。

 第三者からの客観的かつ一般的な問いかけは、家族の力では開けないアニの脳内を見せてくれる。この質問は、アニの起こした事件に関心を持った新聞記者が取材に訪れた際に訊ねたものだ。この二つの問いに、アニは「いいえ」と即答していた。

 中学3年生の時に脳梗塞を起こして以来、人知れず高次脳機能障害と共に生き

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4. 梅雨のはしり

4. 梅雨のはしり

 義母が遺した手帳に記された、当時のアニの主治医と思われる医師の苗字を手がかりに、その人が現在勤務する病院を探し出すことができた。
 手帳は、アニが退院してから1ヶ月ほどの通院記録を最後に途絶えてしまっているため、当時を知る人や病院に見てもらった方がいいかもしれないと、その医師のいる病院とアニが緊急搬送された市立病院に連絡をした。

 35年以上前に起こした脳出血と今回の事件との関連性について、後

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3. 偏食家

3. 偏食家

 アニは極度の偏食家だった。
 子どもの頃からほとんどの野菜を口にしなかったという。魚も滅多に食べることはなく、食事はひたすら炭水化物と肉類が中心だったそうだ。

 義父は亡くなる数ヶ月前に体調が悪くなり、炊事ができなくなったという。アニ独りの食生活を支えていたのは、隣駅にあるイタリアン専門のファミリーレストラン、揚げ物が中心に並ぶ惣菜店、100円ショップで取り扱われているカップ麺や菓子パンなどで

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2. 生まれつき

2. 生まれつき

 義実家を訪れたのは、アニの逮捕から一週間ほど経ってのことだった。

 逮捕を知るきっかけとなった、ニュースでの報道。休日の早朝に報じられたにも関わらず、ニュース動画のコメント欄には、その日のうちに夥しい数の意見が書き込まれていた。落伍者たるアニへの痛烈な批判と「8050」問題への言及。なかには警察が発表したアニの供述から、他に家族がいるのではないか?という推理を繰り広げる者も出ていた。

 翌日

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1. 小糠雨

1. 小糠雨

 アニ(義兄)との初めての対面は、留置所のアクリル板越しだった。逮捕から四日後のことである。

 「父親の金を自分のものにしたかった」
アニは警察にこう供述したという。
 
 当初から夫はアニの供述に強い違和感を持っており、警察をはじめ検事、国選弁護人との電話でもしきりにそれを伝えていた。お金に執着するようなタイプの人間ではない。

 かつて日光街道の宿場町として栄えたその土地の駅前のロータリーを

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