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7. カレーライス

 アニは数ヶ月という短い期間だが、路上生活を送っていたことがある。

 春の終わり、保釈されたアニと初めて食事をした時、歯がほとんど無いことに気がついた。傍目からは、欠けてそれぞれ1/3ほどになった左側の中切歯と側切歯が辛うじて確認できるのみで、実際に何本の歯が残っているのかさえ判らないほどだった。会話の時に、やや言葉が抜けるような印象を受けるのは、歯音がうまく発音できないせいだろう。
 アニの話では、その時の路上生活が歯の大半を失う原因になったという。

 母が亡くなって数年が経つころ、些細なことで父と喧嘩したアニは、家を飛び出し、隣町の新聞配達所で住み込みのアルバイトをし始めたという。20万弱の月給に加え、六畳一間のアパートの一室と食事が提供されるので、家出中のアニにとっては好都合だったのだろう。

 肝心の仕事は、朝刊の配達を深夜0時から始め、担当の地域が終わるのはいつも8時を過ぎていたそうだ。あまりの遅さに心配した同僚が援軍に駆けつけることもしばしばあったという。疲れ果てて寮に戻り、束の間の休息の後、正午過ぎから夕刊の配達を始め、やはりこちらも仕事が終わるのは20時をまわることが常だったという。
 アニの話が正しければ、8時間労働を1日2回していたことになる。

 なぜ、そんなに時間が掛かってしまったのかアニに訊ねると、配達先の家は全て覚えていたが、どういう訳か200件程の配達に8時間を要したそうだ。職場の同僚たちはみな、数時間も早く配達を終えているにも関わらず、その差にアニは思い当たる節は無いという。

 この件に限らず、アニの身に降り掛かるトラブルは、その原因について訊ねると、明確な答えが返ってこないことが多い。大抵が理由は分からないけれど、そのような結果になっていた、何故か自分だけよく怒られていた、という類の返事がくる。特徴的なのは、アニ自身は周りと比べて自分の能力に特に劣ったところはない、と考えている点である。

 新聞配達の仕事について行けなくなったアニは、たった数千円を握り締め、無断で職場から逃げ出したそうだ。アニはこれまでの職場の殆どを、同じような方法で辞めている。
 実家には帰れないと考えていたアニは、徒歩でゆっくりと南下していき、上野や浅草を拠点に路上生活をしていた。衝動的に始まった路上生活は、想像以上に過酷なもので、他の路上生活者から蹴られたり、炊き出しなどに並ぶこともできず、100円ショップに売っている一番大きくてカロリーの高いロシアパンを1日1つ食べ、飢えを凌いでいたという。
 
 無計画な家出が長続きするはずもなく、所持金は数ヶ月で底をつき、行くあてもなく実家の方向へと北上する途中に彷徨っていた市立公園で、「長髪で服もボロボロの不審者がいる」という近隣住民の通報で駆けつけた警察官に説得され、実家へ戻ったという。
 恐る恐る実家のチャイムを鳴らし、父へ謝罪すると、何も言わず迎え入れられ、風呂へ通された。その日の夕飯は父特製のカレーライスだったそうだ。

 兄弟が幼い頃、たまに食卓に登場する父親のカレーには、大量の胡椒が挽いてあり、その黒い粒が大量に浮かんだ見た目も含め、子ども達には不評だったと夫から聞いたことがある。アニが帰宅した際に供されたカレーは、まさにその黒い粒々入りカレーだったようだ。

 この話には、夫によるもう一つの側面がある。
父親との喧嘩で突発的に家を飛び出したアニの消息が分からないまま、数日が経った頃。家に帰りたくても気の弱いアニの性格ゆえ、戻りにくくなってしまっているのだと心配した夫は、町中のアニがいそうな職場を連日探してまわったという。
 ある新聞配達所を訪ねた際に、隣町の配達所にいるという情報を掴んだ夫は、父親との間を取り持ち、アニが家に帰れるようなお膳立てをしたそうだ。だが、アニは家に帰ることなく職場からも逃げていた。
 このような過去もあり、夫は今回の事件が起こるまで、月に一度程度の母親の墓参りの際に実家に立ち寄り、必ずアニの動向を確認していた。

 ところで、アニは先日、約20年振りに28本の歯を手に入れた。
 歯が入ったことで、やや精悍な顔立ちになったアニと食卓を囲む。これまでは数本の歯でも胃腸に負担の少ないメニューを中心としていたが、肉も野菜も噛むことを意識した献立に替えた。
 思い立って、路上生活から戻った晩に作ってもらったカレーの味を訊ねる。

「めちゃめちゃ美味しかったですよ。」

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