栃尾江美(とっちー)

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栃尾江美(とっちー)

ライター&ポッドキャスター。noteでは創作、コミュニティ関連など。役に立ったり、糧になったり、心が動いたりすることを届けたい|個人HP:https://emitochio.net|不登校向けサービス『ゲームdeコーチング』:https://gamedecoaching.com/

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  • 息子が学校へ行けなくなって

    2009年生まれの長男と、2013年生まれの次男。 2018年の夏ごろから、ふたりとも不登校(登園拒否)。 その様子や葛藤を綴っていきたいです。

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    平日の1日1回、140文字ぴったりでつぶやきます。 とれてたのことば #今日の140文字 ◆以前のものはこちら◆ https://togetter.com/li/1033054

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息子が学校へ行けなくなって

小学校3年生の長男が学校へ行けなくなった。それに伴い、年中の次男も保育園へ行かない。 夏休みに学童へ行けなくなった我が家は夫婦で働いているので、小3の息子は夏休み…

京都の友だちに、東京から会いに行く

今日から中3になった長男と、小5の次男は、相変わらず学校へ行っていない。そんな中、私が2人を連れて京都へ遊びに行ったので、その様子をレポート。 学校へ行っていない…

「児童書のスローリーディング読書会」が代えがたいイベントになっているワケ

タイトルの情報量が多いのですけれど。 長いこと、ツキイチで開催する読書会に参加している。友人のAが主催してくれているオンラインの「児童書のスローリーディング読書…

植物をよく知りたいと思ったのは、それによって世の中のことわりに近づけるのではないかと思ったから。その仮説は正しかったと思うこの頃。日々草花を見たりお世話していると、諸行無常が体感としてわかってくる。どんなものも変化するし、変化するしかない。不変を求めるのはむしろ不自然だとわかる。

子どもに対してなるべく「~させる」という言い方をしないようにしている。「塾に行かせている」などですね。自分で行くというのだから「塾に行っている」でいい。「主体性を大事にしてるんですね」と言われたけどなんかしっくりこなくて。改めて考えてみて「彼らを尊重したいんだ」と思ったのでした。

本を読む子どもになってほしい

あまり更新していなくてすみません。ときどきフォローしてくださる方がいらっしゃるので、近況をお知らせしていこうと思います。 小さなころからの読み聞かせ小さなころか…

「人に話を合わせるため」という理由でコンテンツを選ばない、というのが私の基本スタンス(もちろん例外はある)。思い出せば、小学生くらいからそう思っていた。誰かに合わせていたら自分の好きなものに触れる時間がなくなり、自分の好きを見失うだろう。結果、自分というものが薄れていく気がして。

中学生のバレー指導を始めたのは、ただ単にバレーが好きで教育に携わりたいという理由だけではない。人との関わりは大切で、それを作るには時間と労力をかける必要があり、それらを注ぐ対象は大きな未来のある若い人たちがいいからだ。自分の人生で残り少ないパワーを、世界との強い繋がりに注ぎたい。

できていないところに目が行くと、それが連鎖して全体が真っ黒に染まっていく。できているところに注目すれば、明るく見えるところがどんどん増えていく。なぜ感じ方はこんなにもいい加減で適当で、日によって見え方が違うのだろうか。いいところもできていないところも、しっかり冷静に捉えたいのに。

自分で発見しながらやりたいことだけを続け、人に教えられることなく、その分野の上の方へたどり着くことはできるのだろうか。もちろん分野によるものの、やはり適切な課題を与え、自分では思いつかない手法を教えてくれる他人や書物が必要なのではないかと思う。教えてもらう喜びもまたあるのだから。

中学生バレーの指導員をしていると、子どもたちの個性が少しずつ、精細にわかってくる。入部当初はやる気のなさそうな態度をしていた子は、公園で自主練をすることもあるらしい。今もやる気がなさそうに見えるが、それは姿勢やしぐさのせいも大いにあり、内面をそのまま表しているわけではなさそうだ。

良くも悪くもないフラットな思い出だとしても、「懐かしい」が加わると非常にポジティブな感情が付け足される。だからこそ、若い頃に見聞きしたコンテンツは生涯にわたり自分に影響を与え続けるのではないだろうか。昔触れたコンテンツを久しぶりに味わうと「私はここにいた!」とルーツを感じてしまう

私にとって自由は「コントロールできる感覚」だ。制限があったとしても、「自分で選んだもの」や「いつでも捨てられるもの」ならコントロールできるということ。逆に「捨てられない」と思い込んで選択肢を失うと不自由になる。他人をコントロールしようとしないのも、不自由な感覚が嫌なのかもしれない

母子で筋トレする日々(不登校児の運動のしかた)

中1と小3の男児ふたりは、4年間ほど不登校。ときどき行っていたこともあるけど、行かないほうがスタンダード。 失われる「運動」の機会学校に行かないことで、失うものは…

ウクレレの練習が日課になっている。歌も一緒に歌うのでかなり楽しい。人に見せられるほどうまくならなくたって「お風呂」や「動画視聴」くらいには心の安らぎになる。上達を目指す行為って、必ずしも到達点に価値があるわけではないんだけど、私も含め多くの人はそこにとらわれすぎるきらいがあるよね

子どもに対して「誰かが叱らなきゃいけない」という命題について考えた。「叱る」というのは好きではない。そこには大人の都合による善悪があるからかもしれない。それよりは「私はイヤだ」と言うほうがいい。大人の善悪には間違いがあるが、「イヤだ」という気持ちに間違いはない。子どもだってわかる

息子が学校へ行けなくなって

息子が学校へ行けなくなって

小学校3年生の長男が学校へ行けなくなった。それに伴い、年中の次男も保育園へ行かない。

夏休みに学童へ行けなくなった我が家は夫婦で働いているので、小3の息子は夏休みに学童へ行く。最初は、「友達にあだ名でからかわれるのが嫌だ」という。何日もいやだいやだと言い続ける。

「気にしなくていいよ」と最初は声をかけていたが、本人が気にしているのだから仕方ない。それ以前にHSCについて啓発しているkokoka

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京都の友だちに、東京から会いに行く

京都の友だちに、東京から会いに行く

今日から中3になった長男と、小5の次男は、相変わらず学校へ行っていない。そんな中、私が2人を連れて京都へ遊びに行ったので、その様子をレポート。

学校へ行っていないからいつでも行けるのに、なぜ春休みに……。それは、長男の友だちの休みに合わせているからだ。

1日目は「パンチィーファーム」さんで野菜販売体験0日目の夜、高速バスで京都まで。朝の5時半に着いたが、長男の友だちとは9時集合だったので、それ

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「児童書のスローリーディング読書会」が代えがたいイベントになっているワケ

「児童書のスローリーディング読書会」が代えがたいイベントになっているワケ

タイトルの情報量が多いのですけれど。

長いこと、ツキイチで開催する読書会に参加している。友人のAが主催してくれているオンラインの「児童書のスローリーディング読書会」。

この記事では、「こんな感じで開催しているよ」と、「こんないいことがあるよ」をご紹介。興味がある方は、わたし宛にメッセージくださいませ。月一で、だいたい日曜午前に開催。だいたい4~6人くらい。

オンライン開催の読書会「読書会」と

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植物をよく知りたいと思ったのは、それによって世の中のことわりに近づけるのではないかと思ったから。その仮説は正しかったと思うこの頃。日々草花を見たりお世話していると、諸行無常が体感としてわかってくる。どんなものも変化するし、変化するしかない。不変を求めるのはむしろ不自然だとわかる。

子どもに対してなるべく「~させる」という言い方をしないようにしている。「塾に行かせている」などですね。自分で行くというのだから「塾に行っている」でいい。「主体性を大事にしてるんですね」と言われたけどなんかしっくりこなくて。改めて考えてみて「彼らを尊重したいんだ」と思ったのでした。

本を読む子どもになってほしい

本を読む子どもになってほしい

あまり更新していなくてすみません。ときどきフォローしてくださる方がいらっしゃるので、近況をお知らせしていこうと思います。

小さなころからの読み聞かせ小さなころから読み聞かせは多い方だったと思う。毎晩、寝る前に2冊は読む。3冊が定番だった時期もあった。購入したり、図書館で借りたり。

大変な時には、自分の声を録音しておき、流すだけにして私はページをめくるだけ。それでも、一緒に見ていることが楽しいみ

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「人に話を合わせるため」という理由でコンテンツを選ばない、というのが私の基本スタンス(もちろん例外はある)。思い出せば、小学生くらいからそう思っていた。誰かに合わせていたら自分の好きなものに触れる時間がなくなり、自分の好きを見失うだろう。結果、自分というものが薄れていく気がして。

中学生のバレー指導を始めたのは、ただ単にバレーが好きで教育に携わりたいという理由だけではない。人との関わりは大切で、それを作るには時間と労力をかける必要があり、それらを注ぐ対象は大きな未来のある若い人たちがいいからだ。自分の人生で残り少ないパワーを、世界との強い繋がりに注ぎたい。

できていないところに目が行くと、それが連鎖して全体が真っ黒に染まっていく。できているところに注目すれば、明るく見えるところがどんどん増えていく。なぜ感じ方はこんなにもいい加減で適当で、日によって見え方が違うのだろうか。いいところもできていないところも、しっかり冷静に捉えたいのに。

自分で発見しながらやりたいことだけを続け、人に教えられることなく、その分野の上の方へたどり着くことはできるのだろうか。もちろん分野によるものの、やはり適切な課題を与え、自分では思いつかない手法を教えてくれる他人や書物が必要なのではないかと思う。教えてもらう喜びもまたあるのだから。

中学生バレーの指導員をしていると、子どもたちの個性が少しずつ、精細にわかってくる。入部当初はやる気のなさそうな態度をしていた子は、公園で自主練をすることもあるらしい。今もやる気がなさそうに見えるが、それは姿勢やしぐさのせいも大いにあり、内面をそのまま表しているわけではなさそうだ。

良くも悪くもないフラットな思い出だとしても、「懐かしい」が加わると非常にポジティブな感情が付け足される。だからこそ、若い頃に見聞きしたコンテンツは生涯にわたり自分に影響を与え続けるのではないだろうか。昔触れたコンテンツを久しぶりに味わうと「私はここにいた!」とルーツを感じてしまう

私にとって自由は「コントロールできる感覚」だ。制限があったとしても、「自分で選んだもの」や「いつでも捨てられるもの」ならコントロールできるということ。逆に「捨てられない」と思い込んで選択肢を失うと不自由になる。他人をコントロールしようとしないのも、不自由な感覚が嫌なのかもしれない

母子で筋トレする日々(不登校児の運動のしかた)

母子で筋トレする日々(不登校児の運動のしかた)

中1と小3の男児ふたりは、4年間ほど不登校。ときどき行っていたこともあるけど、行かないほうがスタンダード。

失われる「運動」の機会学校に行かないことで、失うものはたくさんある。勉強は一番に思いつくが、友だちとのコミュニケーション、修学旅行的なもの、放課後の教室に差し込む夕焼け、とか、レベル感はさまざま。

そのひとつに、運動がある。学校に行っていれば勝手にある程度は運動する。通学路を歩くだけでも

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ウクレレの練習が日課になっている。歌も一緒に歌うのでかなり楽しい。人に見せられるほどうまくならなくたって「お風呂」や「動画視聴」くらいには心の安らぎになる。上達を目指す行為って、必ずしも到達点に価値があるわけではないんだけど、私も含め多くの人はそこにとらわれすぎるきらいがあるよね

子どもに対して「誰かが叱らなきゃいけない」という命題について考えた。「叱る」というのは好きではない。そこには大人の都合による善悪があるからかもしれない。それよりは「私はイヤだ」と言うほうがいい。大人の善悪には間違いがあるが、「イヤだ」という気持ちに間違いはない。子どもだってわかる