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戦前現代史照射

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記事一覧

広島文脈の結晶・宏池会の源流6

これまでの流れは、

話は戻って、昭和33戊戌年(1958年)9月11日、藤山愛一郎外相とジョン・フォスター・ダレス米国務長官の日米外相会談が行われ、アメリカが(旧)日米安全保障条約の改定に同意し、10月4日安保条約改定のための第一回日米会談が開催された。一方、この動きの中で、ソ連も9月30日 にノヴァヤゼムリャで核実験を実施した。

そんな中、10月8日に政府が警察官職務執行法(警職法)改正案を

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広島文脈の結晶・宏池会の源流3

これまでの流れは、

前回一つ書き漏れたが、昭和29甲午年(1954年)5月11日に内閣諮問機関として原子力平和利用準備調査会が設置されている。これに先立って2月、原子力研究開始の可否について公聴会が開かれている。そして、3月の予算で原子力予算が2億5千万円計上された。これは、通産省の予算であり、通産大臣は愛知揆一、大蔵政務次官から1月に通産大臣に横滑りしており、さらに父親の敬一は物理学者でアイン

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広島文脈の結晶・宏池会の源流2

今度は外交・原子力政策を軸にして宏池会を見てみたい。
これまでの流れは、

宏池会の話に入る前に、広島原爆投下から戦後の核をめぐる動きのところをもう少し詳しくみておきたい。

アメリカの原爆開発についてみると、まず、ルーズベルトは大統領就任直後にボーイングを含んだ総合飛行機会社を三分割し、ボーイングは機体製造の専業となり、創設者の手を離れて軍事企業として動き出していた。のちにアイゼンハワーが指摘し

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広島文脈の結晶・宏池会の源流1

広島の複雑な文脈を引き受け、それを原動力として戦後政治の軸となり続けた自民党宏池会について見てみたい。

まず、宏池会という名であるが、後漢の学者馬融の『広成頌』から、陽明学者安岡正篤が命名したものだとされる。安岡正篤については、京都八坂神社の社家と同族である堀田氏の出身ということで、平曲八坂流の『平家物語』と少なからず関わるのだと考えられる。一方馬融というのは、非常にわかりにくい人選であるが、ま

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なぜ広島に原爆が落とされたのか

世界で初めて原子爆弾が落とされるのに、広島という町が選ばれたのはなぜなのか。それには非常に長い歴史的文脈と第二次世界大戦開戦に関わる国内・国際政治情勢が複雑に絡み合っていた。

まず、広島には、中世に沼田庄という広大な荘園があったとされる。それは、今の沼田川流域、本郷や三原のあたりであったとされているが、厳島神社と関わりの深い平清盛によって後白河法皇の建てた蓮華王院(三十三間堂)に寄進されたともさ

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【日米開戦80年】「覚悟」の秋の実像

【日米開戦80年】「覚悟」の秋の実像

開戦80年ということで、少しずつ記事も出始めているようだ。そんな中で朝日新聞が12月5日付1面2面のプレミアムAの特集で、『昭和天皇開戦「覚悟」の秋』との見出しを掲げて侍従長日記の内容を紹介している。侍従長という最側近の日記ということで、非常に史料的価値の高いものであるが、解釈の仕方、あるいは情報の取り上げ方一つでここまで印象を作ってしまうのだ、という好例としてこの記事の内容を見てみたい。

百武

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【Lonely Wikipedia】1870年代

【Lonely Wikipedia】1870年代

それでは、1970年代の世界の様子について見てみたい。

Wars
* Dungan Revolt (1862–1877), Hui uprising against the Qing Empire which resulted in 20 million deaths and a Qing victory
* Franco-Prussian War (1870–1871), resulted i

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【世界の中の日本】維新に群がる有象無象

【世界の中の日本】維新に群がる有象無象

国内で攘夷運動が盛り上がる一方で、実際に外国と戦火を交えることも出てきた。その最初の例となるのが、文久3年(1863)の薩英戦争だ。

薩英戦争は、前回書いたとおり、生麦事件に対する報復と称してイギリス代理公使のジョン・ニールが、幕府から11万ポンド(第二次東漸寺事件の1万ポンドを含む)の賠償金をせしめた上に、更に薩摩まで自ら7隻の艦隊を率いて討伐に出向くという、およそ公使の名にふさわしからぬ、何

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【世界の中の日本】攘夷の動き

【世界の中の日本】攘夷の動き

さて、安政5-6年(1858-59)にかけて安政の五カ国条約が相次いで締結され、安政7年には万延元年遣米使節を派遣してこの批准作業を行った。そしてその年、大老の井伊直弼が桜田門外の変で暗殺され、攘夷の動きが活発化していた。その攘夷の動きを順に見てゆきたい。

ムラヴィヨフ
まず、安政6年(1859)、ロシア東シベリア提督のニコライ・ムラヴィヨフが7隻の艦隊を率いて江戸湾に現われ、国境策定交渉を求め

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【世界の中の日本】安政の五カ国条約

【世界の中の日本】安政の五カ国条約

明治維新へ至る道のりを国際的視点で見るためには、やはり通商条約の締結によって本格的に国際経済体制に組み込まれることとなった安政の五カ国条約から見てゆく必要がある。

ハリスの来日
ペリー来航以来の各国との和親条約締結により、鎖国状態は終わりを告げ、西洋への窓は開かれた。しかしそれは通商まで踏み込んだものではなく、限定的な通信を定めたに過ぎなかった。
そこで、まずアメリカからタウンゼント・ハリスがや

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【世界の中の日本】開国への道

【世界の中の日本】開国への道

1860年代のまとめとして、1868年の明治維新に至るまでの日本の国際的位置づけを辿るために、江戸中期以降におけるその海外との接触を見直してみたい。

ラクスマン来航
まずそのはじめは、寛政4年(1792)のアダム・ラクスマンの来航となる。ラクスマンは、ロシアに漂着した大黒屋光太夫を連れ帰るために日本を訪れたとされる。ここで、ラクスマンは、その名を見ても明らかなように、ロシア人ではない。スウェーデ

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【Lonely Wikipedia】英仏関係

【Lonely Wikipedia】英仏関係

ちょっと無理矢理気味にイギリス推しになってしまっており、何がここまで強引にさせる、言葉にならない違和感をもたらしているのか、というのを突き詰めるために、英仏関係を見てみることにした。とは言っても、これは長い歴史に基づく複雑な関係で、そんなにぱっとすっきりするようなものではない。それを全て追っていたらいつまで経っても前に進まないので、とにかくスポット的に同時代のナポレオン3世との関係性を見ることとす

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【Lonely Wikipedia】フランスのインドシナ進出1

【Lonely Wikipedia】フランスのインドシナ進出1

さて、アジアに目を移した時に、どこから始めるべきか、というのは大きな問題となるのだが、この時期の動きに直接つながるのはフランスのインドシナ進出となりそうなので、そこから見てみたい。

French–Vietnamese relations started as early as the 17th century with the mission of the Jesuit father Alexa

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【Lonely Wikipedia】南北戦争3

【Lonely Wikipedia】南北戦争3

いつまでも経過にこだわっているわけにも行かないので、南北戦争の本題へ。とは言っても、戦いの様子はそのままWikipediaを見ればだいたいわかるわけだし、それを写しても意味が無いので、南北戦争の国際的位置づけとその影響ということを考えてみたい。

1860年11月の大統領選挙では奴隷制が争点のひとつになり、奴隷制の拡大に反対していた共和党のエイブラハム・リンカーンが当選した。この時点では、奴隷は個

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