見出し画像

【Lonely Wikipedia】フランスのインドシナ進出1

さて、アジアに目を移した時に、どこから始めるべきか、というのは大きな問題となるのだが、この時期の動きに直接つながるのはフランスのインドシナ進出となりそうなので、そこから見てみたい。

French–Vietnamese relations started as early as the 17th century with the mission of the Jesuit father Alexandre de Rhodes. Various traders would visit Vietnam during the 18th century, until the major involvement of French forces under Pigneau de Béhaine from 1787 to 1789 helped establish the Nguyễn Dynasty. France was heavily involved in Vietnam in the 19th century under the pretext of protecting the work of Catholic missionaries in the country.

まず、阮朝の成立というのは、その前の西山朝も含んで、かなり複雑な様相で、そんなに簡単に整理できるものではない。

二通りの阮氏があり、まず三兄弟の阮氏の方が西山朝を立てたが、光中帝阮恵が39歳で没したため2代目景盛帝がわずか9歳で即位し、10年間統治したが、結局別の阮氏の阮福暎、嘉隆帝に簒奪された。こちらの阮氏は、1785年に5歳の幼い息子阮福景を半ば人質の如くフランスに連れ去られ、そこで87年にヴェルサイユ条約が結ばれて、ベトナムの正統王権であることが認められた。どちらが主導した話なのかはよくわからないが、いずれにしても、カトリックの宣教師であったフランス人ピニョー・ド・ベーヌが大きくそれに関与していたことは間違いなさそう。このあたり、日本語では情報が限定的なので、英語版に頼らざるを得ない。

阮朝の嘉隆帝が西山朝を倒そうとする際に、領土を割譲してでも外国の力を借りる、と言うことになり、最初はオランダにアプローチしたようだが、プロテスタントの力が増すことをおそれてピニョー・ド・ベーヌが積極的に動き、ついに支援にこぎ着けた、とのこと。
大航海時代初期はともかくとして、近世が落ち着いてきてから、カトリック、しかも宣教師が主体的に他国の内戦に介入して勢力拡大を図る、というような事は基本的には行われておらず、この行動はスペインのフランシスコ会から非難を浴びることとなり、結局ポルトガルの力を借りての阮朝支援となった。
しかも、阮朝サイドがどこまでこの力を必要としていたかはそれほど明確ではなく、儒教に基づいて阮朝を建国した嘉隆帝の態度もプロテスタントよりはカトリックに友好的、という程度で、積極的にそれに依存したという事はなさそう。
この辺り、情報が限定的で、書いてあることもそのまま信じて良いものかどうかもわからないのであまりしっかりとはかけない。

そして、フランス本国では、1793年にはフランス革命が起こっており、カトリックはその下で厳しい状態に置かれることになっていた。その後、ナポレオンが皇帝になると、カトリックとの関係は修復されたが、それでも皇帝が支配のためにカトリックを利用するという形に力関係が変わっていった。
そんなことがあったためか、フランスでもナポレオンが失脚し、阮朝でも明命帝に代替わりした後には、フランスとも次第に疎遠になっており、むしろカトリック排斥の動きが強まっていた。この過程もちょっとすぐには理解できない。このあたり、ベトナム戦争にも直結する話でもあり、ベトナムサイドの話がまだしっかりまとまっていないようにも感じる。そして欧米、特にフランスの一方的な言い分がかなり強く反映されていそう。

その頃、阮朝の南部には、軍閥ともいって良い黎文悦が割拠していた。Wikipediaに書かれていることをそのまま信じれば、皇帝との間に摩擦がありそこで分断が生じていたように読める。そして、南部にキリスト教を入れ、西洋との貿易で軍事力強化を図っていたともされる。中国語版もほぼ英語版と同じ内容で、ベトナム語版はGoogle翻訳しかないが、精度が低くて何が書いてあるのかよくわからない。

しかしながら、少し距離を置いて読めば、皇帝はこの人物をかなり信任していたように読めるし、そして1824年にはキリスト教に入信した長男の系統を、キリスト教的に非常に罪深くなるようなやり方で没落に導いており、その翌年に明命帝がカトリックを禁止する勅令を出している。

"The Westerner's perverse religion confuses the hearts of men. For a long time, many Western ships have come to trade with us and to introduce Catholic missionaries into our country. These missionaries make the people's hearts crooked, thus destroying our beautiful customs. Truly this is a great disaster for our land. Our purpose being to prevent our people from abandoning our orthodox way, we must accordingly completely eliminate these abuses."
— Minh Mạng 1825 Edict against Christianity.

皇帝の勅令はかなり直接的にカトリックを非難しており、よほど腹に据えかねていたことが見て取れる。

おそらく、この時期にカトリックのかなり強引な進出、それは皇統の変更も視野に入れたような動きがあり、それに対して皇帝を中心に、その兄でヴェルサイユ条約を結んだ阮福景の妻宋氏涓、その子 阮福美堂、そして告発した黎文悦など、阮朝の指導層はみなそれに危機感を持っており、それにいかに対応するか、という問題意識を共有していたように思われる。その対応によって、長男の系統が没落し、それによってキリスト教の浸透も抑えられ、その後8年、黎文悦が亡くなるまで緊張を孕みながらも平穏は保たれていた。しかし、黎文悦が亡くなった後に、その義理の息子を称する黎文𠐤が、長男の系統を帝位につけるために反乱を起こし、タイなど周辺諸国を巻き込んで騒乱となった。ベトナム南部コーチシナで非常に評判の良い黎文悦は、前王朝の姓である”黎”を名乗っていることから、そことつながりがありそうで、その点で前の後黎朝から西山朝、そして阮朝に至る話は、たぶん事実とは違う形でかなり書き直されているように感じるが、実態はよくわからない。

1833年、黎文悦の義理の息子、黎文𠐤が反乱を起こす。

Lê Văn Khôi declared himself in favour of the restoration of the line of Prince Cảnh, the original heir to Gia Long according to the rule of primogeniture, in the person of his remaining son An-hoa. This choice was designed to obtain the support of Catholic missionaries and Vietnamese Catholics, who had supported the line of Prince Cảnh with Lê Văn Duyệt. Lê Văn Khôi further promised to protect Catholicism.

キリスト教とつながりの深い嘉隆帝の長子の系統に皇統を変えようとしたという。明らかに後ろでカトリックの宣教師が糸を引いていたとみるべきだろう。黎文悦の義理の息子と言うが、中国語版Wikipediaによると阮朝の皇室と血のつながりがあるようだ。ただ、部族が違うようなことも書いてあり、とにかくよくわからない。いずれにしても、黎文悦とは血のつながりがなく、その考え方も随分違ったようだ。カトリックの他にも、タイにも援軍を求めているようで、義理の父がミャンマーと組んでタイを挟み撃ちにしようとしたのとは手法が違う。情報錯綜の可能性もあるので何とも言えないが、行動から見ても黎文悦とは違う立場だったと考えてよさそう。
黎文𠐤は挙兵の翌年1834年には亡くなっており、息子の黎文鴝が8歳で後を継ぎ、その後も戦いは続く。つまり、この戦い自体が黎文𠐤の個人的意志と言うよりも、何らかの後ろ盾の力によって行われていたことを示している。戦いはその翌年に鎮圧された。

このベトナム南部には、華僑も多くいたようだし、またアヘンの流入もあったようだ。そんな状況があっての1839年から42年の清におけるアヘン戦争であったと考えれば、より状況も理解しやすい。

そしてそのアヘン戦争の最中に明命帝が崩御し、紹治帝が後を継ぐが、やはり対仏強硬姿勢であった。そんなベトナムに対して、フランスは43年に艦隊を送り込む。47年には、ダナンに対して砲撃を加えた。58年にもナポレオン3世がベトナム攻撃をしていた。この時期になると、アロー号事件やヨーロッパ情勢にも絡んできて、ベトナム、インドシナ情勢からだけではかけそうもない。1860年台の話も含めて、どうまとめたら良いのかまだちょっと整理がつかない。

全体として、情報が非常に限定的で、ベトナムの方の言い分がほとんどわからない。この情報がベトナムという国の基本情報として国際的に出回っているというのは非常に不幸なことだと思う。

誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。