無意識と共生し、強い流れを生み出し、利用する
私たちは無意識という自然を飼っている。
そしてその無意識は、外部からの何らかの入力によって規定されていくことが多いとも言える。
無意識は、外部からの何らかの刺激(入力)、パラメータ(変数)の影響を受けて出来上がっていると言える。
例えば、外に出かけたり、インターネットを見たりすることで無意識がある程度規定され、それが意識まで登ってくるといった具合だと思う。そこから様々な認知しうる『考え』などが生まれる。
哲学者や科学者がルーティーンを大切にしていたという本を読んだことがあるが、一部の偉人(カントやユーゴーなどなど)は友人との会話ですら常に『メモ』していたそうだ。
彼らは、そうやって、通常の状態ではアクセスできない無意識という領域に部分的にアクセスし、それを丁寧にすくいあげ、創造に繋げていたんだと思う。(Googleが取り入れている『ジャーナリング』にも無意識をすくい上げるという効果が確認されているのもそういうことだと思う)
上記のことから学べるのは『私たちは自分のことをあまり知らない』ということだ(Meta認知的な)。
自分の中に飼っている無意識と上手く共生する術を私たちはあまり知らないのではないか。そうするためには、まずは自分が飼っている無意識という自然のことを良く知る必要がある。
世界を外側から見て自分を知る
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先ずは、世界を外側から見ることが重要だと思う。
そして最終的にはその『無意識という自然』と仲良くなり、自らの手で、その『尊い美しい自然環境』を能動的に整えられるようにすればいい。
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それができるようになれば、『無意識にこれらのパラメータを与えればある状態を作り出せる』というようなこともできるはずだ。でもこれは、主知主義的であるため大きな副作用を孕んでいる気もする。
だから、それと同時に、『感覚や直感』も重視する必要があると思う。
その『感覚や直感』の鋭さを創るのは『無意識の手入れ具合』や『腸内環境』などであるため、自分の無意識の自然観環境を能動的に計算的に整えていくことも大事である。
それらは互いに支え合って成り立っているため『中庸』を心がける必要があるんだと思う。
『計算的に整えていく』と言ったが、これには先ほども紹介した『メモ』が効いてくると思う。『その日の気づきや自分が考えていることや志向的に感じる物事、会話』など、自分に起こったことをメモをすることによって、自分の無意識のパラメータの値を全体的に、同時並列的に見下ろす、俯瞰することができるからだ。
ゲーム画面の中にいる自分を、そのゲーム機を通して俯瞰、メタ認知するようなものでもある。外から見れば、自分やその他の事物のとの関係性や、それらを構成するパラメータについて、俯瞰的にしれるようになるはずだ。内側で巻き起こる喜怒哀楽も客観視できるようになるため、それらをある程度制御することも可能になる。チェ・ゲバラが娘たちに残した手紙には『自然を支配する術を身につけなさい』という言葉も書かれていた。
ジャーナリングの効果的に、『無意識の底にあるような自分ですら自覚していなかった気づき』などをすくいあげることもできるし、その見つけた『…種…』に愛情を注いて綺麗な『…花…』を咲かすこともできるはずだ。
パラメータを知ってある無意識の状態を再現する
一度パラメータの性質とそこから出来上がる全体の性質を、ある程度理解してしまえば、それは『再現可能』なものになりうる。10段階あるうちの5までは行けるようになる。そこから先は、『腸内環境』『脳環境』『どの流れにどのように乗っかるかという選択』『感覚』『ノリ』のようなもので決まってくるのではないか。
上記のことを自動的に行うためのルーティーン
ルーティーンや習慣というのは、芸術と同じで『人真似』するものではなく、日々試行錯誤、工夫して『自分の型』に合うやり方を見つけ描いていくものだと思う。
なんのために『ルーティーン』を使うのか。
過去の偉人が『ルーティーン』愛したのは何故か。
恐らく『ルーティーン』を創ることによって『ON - OFF』や『創造する時間 - 創造しない時間』、『アイデアや気づきの種を拾う時間』などをはっきりさせることによって、その『癖』をつけていたんだと思う。
例えば、『アイデアや気づきの種を拾う時間』というパラメータが習慣的に無意識に対して投げ込まれていれば、脳は『アイデアや気づきの種を拾う時間』なんだな、ということを学習するため、アイデアや気づきの種に気づく力や拾う力、が増す、習慣による『癖』がつく(予断の利用?)。
だから、『自分は今この関数、世界に入っているんだな』というような意識や、『自分は今枠から出ていて目的意識や価値判断なしに自由に物事を見たり種を拾える世界にいる』というような意識をルーティーンによって自動的に作り出すことが重要なのではないか。
ギリシア時代では、人々はそれは『カイロスの時間』と呼んだ。
ここからさっきの話に戻ります𓀀
先程の、
クロノスやカイロスと共通するものとして『瞑想、茶道』などがある。
エッセンシャル思考の著者であるグレッグ・マキューン氏は、『とっくに会社を出たのに心はまだ会社にいるかのように今日の出来事や明日やるべきことを延々と考えている』という問題を抱えていた。これは多くの人が経験しているDMNの暴走である。
そこで、彼は、家のドアを開ける前に「気分転換の一呼吸」をするようになった。『ドアの前にちょっと立ち止まり、目を閉じてゆっくり深く息を吸い、ゆっくり吐き出す。その時に仕事の考えを全て空気と一緒に吐き出す』というやり方だ。
カイロスの世界に足を踏み入れる(入り口)
僕は、カイロスの世界への入り口として、以下にある禅僧の言葉の『写経(書き写し)』をお勧めします。筆ペン、お勧めです。試してみれば分かると思いますが、自律神経、呼吸の乱れ、言語化できない自分の中にある無意識的な世界、を感じてることができます。
それはコミュニケーションに近いかもしれない。
このような考え方から、『全てのものには神が宿る』というような汎神論的、アミニズム的な枠組みができていったのではないか。確かにこれは『生命哲学』で、事実私たちを構成する一つ一つの細胞には意識という『神』が宿っている可能性が高い、とも考えられる。
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《禅僧の言葉》
茶碗を持ち、息を深く吸い込むと、心が体に戻ってきて、あなたは今このときに落ちつきます。
身も心もひとつになり、一杯のお茶に命を見出すでしょう。
あなたはそこに在り、お茶もそこに在ります。
過去や未来に彷徨うことなく、思いや不安に惑うことなく。
心を悩ませるものから解き放たれ、一杯のお茶を楽しむのです。
それが幸せのときであり、安らぎのときです。
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宗教的でもあるが科学的でもある。
だから仏教は宗教ではなく『生命哲学』とも呼ばれてもいる。
また、アインシュタインはこう言った。
何の事物にも関係付けられることのない意識における自然で神々しい解放区を愛で続けよう。
ある無意識の条件下で創られるアクセス権限
ある条件下の元でしか到達できない空間がある。
だから日々、無意識という自然を耕す。
#一度は行きたいあの場所