ものがたり屋 参 総合ページ
うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。
気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。
「ものがたり屋 参」は好評をいただいた「ものがたり屋 」シリーズの第三弾です。執筆と同時進行で公開をしています。漢字一文字をそれだれのタイトルとして選んで、それにちなんだ物語を紡いでいます。
気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に潜む怪しくてそしてとても不思議な物語をどうぞ堪能してください。
●聲
ねえ、
ここだよ、ここにいるよ。
聞こえる?
こっちだよ。
届いてるかな、ぼくの声は……。
だから、ここだよ。
こっちにおいでよ……。
「なんだかね、真っ暗なの。ただ、その声だけが頭の中で反響しているみたいで、眼を醒ましてもいつまでも反芻しちゃうの」
潮風で乱れた髪を右手でかき上げると御津橋耀子はグラスに挿し入れられたストローに口をつけた。
八月のそろそろ半ばになろうかという逗子海岸。建ち並んだ海の家の一角で本城麻美は耀子と向かい合って座っていた。海で戯れる多くの人たちの喚声が響き渡り、ときおり吹いてくる潮風と綯い交ぜになって、麻美を気怠い気持ちにさせていた。
つづく
●隂
鬼はだれ?
影を踏まれたら、つぎに鬼になるんだよ。
さぁ、逃げて。どこまでも。
影を踏まれたら、鬼になっちゃうよ……。
「ねぇ、とっても綺麗」
成瀬はるかはそう呟くとその顔を横にいる添田仁志の肩にもたれ掛かるようにして埋めた。
仁志は黙って頷くとその左腕ではるかの肩を抱き寄せた。
「なんだか夕陽が大きく見える」
逗子湾の遙か向こうに見える山々の連なりの上に夕陽があった。紅くあたりの雲を色づけながら、陽はゆっくりと沈みはじめていた。
つづく
●凮
その風は裂け目から吹き込んでくる。
そよそよそよそよ。
まるでだれかの息吹のように。
まとわりつくように、微かに吹く風。
そよそよそよそよ。
そこにあるのは、この世の裂け目……。
そこにいるのは、だれ?
どこにでもいるごくごく普通の人間。
とくに目立つところもなく、高校でも特別なエピソードもなく、入学して、そしてそのままなにごともなく卒業した。大学もまったく同じだ。入学して、そしていまに至っている。
高校ではまわりにカップルがいたけど、ぼく自身はだれかと特別な関係になったことはなかった。だれかの噂になることもなかったし、だれかから告白されるなんてこともまったくなかった。もちろん自分から告白することも……。
つづく
●藏
そやつは闇に棲み、邪気を食む。
瘴気を吐き、血潮を呑む。
人を掠い、その命をも奪う。
冥府を彷徨い、現し世を脅かす。
その禍々しいものを、人は鬼と呼ぶ。
まだ陽が昇りはじめてからさほど間もないというのに、蝉時雨が降りしきる。
麻美は住宅地の合間の道をゆっくりと歩いていた。車がやっと通れるほどの細さの道が緩い上り道へとなっていく。やがて海へと繋がるその道を中程で右手に折れた。
披露山の山裾にあたるあたりから木々が増えていく。すぐに目の前に鳥居が見えてきた。さらに左へと続く参道をほどなくいくとそこに社があった。
宮司を務める結人の父にいわせれば猫の額の広さなのだそうだ。確かに、広さを感じさせるスペースではなかったが、ぽっかりと開いたその空間が、麻美は好きだった。こぢんまりとした社の周りを古木が囲む。
つづく
●壁
果てしなく刻まれてきた時。
積み重ねられてきた思い。
ときには哀しみが、ときには苦しみが、
ありとあらゆる感情が塗り込められてきた。
そして、閉じ込められているのものは、
いつしか呪いとなる。
満開だった桜が散り、やがて緑が眩しい日々がやって来ていた。
陽射しがすこしずつ力強くなっている。
入ったばかりの新入生もどうやら慣れはじめたのか、それまでどこか堅苦しく感じられたキャンパスも賑やかになっていた。
麻美はそんな学内の様子が一望できるカフェエリアにいた。窓からは射しこむ陽射しはまるで初夏を思わせるものだった。
「麻美、探したんだから」
そういって南村この実が歩み寄ってきた。何冊かテキストを抱え、トートバッグを肩にかけている。
長い髪はきれいに櫛でとかれてきちんと束ねられていた。薄目のリップがさわやかな笑顔に似合っていた。
「なに?」
つづく
●曇
陽を遮ると影が生じる。
遮るのは邪な心。
できたその影に悪が満ちると、闇となる。
闇に巣くうのは魔に堕ちたもの。
温めのお湯を張ったバスタブにゆっくりとその身を浸す。多めのお湯がバスタブの縁から零れていく。
肩まで伸びたカールのかかった髪が濡れるのも構わず、さらに身を沈めた。お湯がさらにバスタブから零れていく。
顎のあたりまでその身を沈めていくと髪の先が湯の中に広がっていった。
しばくそのまま湯の温もりを楽しんでから、頭の天辺まで湯の中に入った。
ざざざざざ。
お湯が零れるまましばらく潜った状態でいた草加部紗亜羅は、やがて顔を出すと両手で濡れた顔を拭ってから立ち上がった。
傍らにおいてあったバスタオルを手にするとバスタブから出た。洗い立てのバスタオルで濡れた髪をていねいに拭ってから、全身を拭いていく。綺麗な膨らみを見せる乳房を拭くと、下腹部から足を拭いた。
つづく
●貌
そこに映るものは、ただ見えるもの。
それはその姿ではなく、ただの像。
その姿を映すものは、かりそめの景色。
それを観ることができるのは心の眼だけ。
鎌倉へと向かう国道百三十四号線。逗子湾に沿ってゆったりと左にカーブを描き、やがてトンネルへと続く。その手前の海に突き出た場所に建物がある。
『オフショア』
そうペイントされたサーフボードが看板代わりになっている一軒家のカフェだ。バーカウンターが設えられ、崖に突き出した部分はウッドデッキになっている。
そのすぐ左側は浪子、右側は大崎のサーフポイントになっている。さらに視線を上げると、左側には逗子湾を望むことができる。正面は森戸から一色海岸、さらには長者ヶ崎、秋谷海岸が続く。
そのウッドデッキの一番海寄りの席で久能結人は寛いでいた。
テーブルには食べ終わったランチの皿が乗っている。その横には飲みかけのビールのボトル。
向かいの席には本城麻美が同じようにゆったりとしていた。
つづく
●刻
時と時の間隙に墜ちるとき、
この世のあらゆるものをはじめて知ることになる。
その硲には別の次元がある。
その時の隙間には、そして永遠がある。
いつも朝はシャワーだったのに、なぜかこの日は湯に浸かった。
なぜそんな気になったのかよく判らなかったけど、もしかしたら朝の目覚がすっきりしていなかったからかもしれない。いや、そんなものじゃないな。憂鬱で仕方なかったのだ、この朝が。このところ、朝はいつもこんな気分になる。
だからだろう、浴槽に湯を満たして、そしてそこに身体を沈めた。
そして……。
しばらく湯に浸かってから思い切って風呂を出た。
浴室の鏡に映る自分の顔を見ながら歯を磨き、顎のあたりを撫でて確認をしてから髭を剃った。なんだか妙に顔色が白っぽい。
──確かに健康的なタイプじゃないしな。
つづく
●斑
その紅はほんとうは何色?
その蒼空はほんとうはどんな空?
ねぇ、その人はほんとうはどんな人?
そもそも、人なの?
いつもよりすこしだけ梅雨明けの時期が遅めになった。だからというわけではないんだろうが、梅雨が明けてみるといきなり真夏になっていた。
本城麻美は朝早くから逗子海岸で海を見ていた。
まだ昇りはじめたばかりの陽の輝きが強くなりはじめ、暑い一日になることを予見させる。その陽が空を蒼く染め上げ、その輝きが海を碧く煌めかせていた。さながら海は空の色を映す鏡だ。
建ち並ぶ海の家はまだ静まりかえったままだった。海岸をいくのは犬を連れて散歩する人や、ジョギングをする人たち。
麻美はそんな人たちとすれ違いながら波打ち際をゆっくりと海岸中央から東浜に向かって歩きはじめた。
つづく
●濤
寄せては返し、返しては寄せる。
揺蕩う海原のその中には瑠璃色の世界がある。
射しこむのは揺らめく光。
響いてくるのは海中を舞う泡たち。
そこには輝く命たちがいる。
「なぁに?」
彼女を抱きながらぼんやりとその横顔を見ていると、ふいにその顔を上げ、声を出さないようにして訊いてきた。
「なんでもないよ」
ぼくは小声で答えると、彼女の胸に顔を埋めるようにして抱き直した。
窓からまるで微睡むような陽射しが零れてきていた。緩やかな風が吹き込んでいる。
汗ばんだ身体にその風が気持ちいい。
ぼくはこうして裸で抱き合っているこの時間が好きだった。日焼けしたその彼女の身体はどこかつるりとしていて、その背中を撫でているだけで、まるで海に抱かれ揺蕩っているような静けさを感じる。
つづく
●現
すべては幻、そして虚ろい。
すべては儚きもの。
その心に触れるものは、なに?
その瞳に映るものは、なに?
六時五〇分。
枕元に置いたスマホのアラームが鳴る。
手を延ばしてアラームを切ると、あなたはぼんやりと眼を醒ます。
それまで揺蕩っていた夢の中からまるで引き摺り出されるように、ゆっくりと意識がピントを合わせていく。
すぐ横の窓にかかっているカーテンをそっと開ける。意外なほどくっきりとした陽射しが飛び込んできて、あなたはやっぱり朝が来てしまったことを自覚する。
──眠い……。
いつも起きる時間は同じなのに、どうしてもつい夜更かししてしまう。
あなたは毎朝、アラームの音を聞きながらそのことを軽く後悔する。けれどしかし、だから早く眠ろうとしないことも、またいつものことだ。
あなたはベッドから出ると軽く伸びをする。そしてひとつ大きく息を吐く。
つづく
●童
聞こえているよ。
感じているよ。
でも、なぜそこにいるの?
そこで、なにをしているの?
「なんだか浮かない顔してる。らしくないよ」
午前中の講義が終わったところで産形愛生に声をかけられた。
「なんだかねぇ、寝醒めがねぇ」
本城麻美はそういって、長い髪を揺らしながら苦笑した。
校舎を出たところで強烈な陽射しが降り注いできた。梅雨は意外にもあっさりと終わり、気がつけば夏になっていた。
いつもは心地よく感じるはずの夏の陽射しが、麻美にはなぜかむしろ重たい。まるで押しつけがましいお節介のように感じる。
「ねぇ、お昼どうする?」
愛生の声はそんな麻美をよそにどこか弾んでいる。ショートカットの髪を掻きあげて、陽射しそのものを楽しんでいるようだった。
「お昼か……」
麻美は気乗りしない声で答えた。
つづく
●巫
その息吹はどこから吹いてくるのだろう?
その源を辿ると、どこまで遡れるのだろう?
そのいきつく先では、なにが待っているのだろう?
その系譜は果たしてなにを指し示すのだろう?
それを識るものを、もしかすると聖というのだろうか?
風までが凍てつくように冷たかった。
真冬の逗子海岸ではめったに観られない光景が広がっていた。海の上にだけ霧が漂い、幻想的な国へと迷い込んでしまったかのようだった。
「綺麗……」
海岸へ足を踏み入れた途端、天羽珠妃は思わず声を上げた。
「気嵐」
「え?」
「だから、けあらしだよ」
肩を並べるようにして歩いていた久能結人がやさしい口調でいった。
つづく
●朏
聴こえる……。聴こえてくる……。遙か彼方の世界から。
それは時を超えて、空間を超えて、伝わってくる。
なにかを識らせようとしているんだろうか?
だれかの呟きなのか、それとも彼方の世界の囁きなのか。
聴こえる。聴こえてくる。
──Can you hear me?
──……。……。
──Can you hear me?
──……。……。……。
──Do you copy?
──……。……。……。……。
ざくっ、ざくっ。
砂浜に埋まりそうになりながら、一歩一歩ゆっくりと歩いていく。まるでひと足、ひと足、その足跡をしっかりと砂浜に残していくように。
逗子海岸の波打ち際をゆっくりと歩いているのに、星野月翔の想いは遠くにあった。
つづく
●蟲
視える。なぜだろう、その囁きが視える。
それは命の囁き?
それは希望の囁き?
それとも嘆きのそれなの?
いま、その先にある光景を視るためなのかもしれない。
カレンダーは新しい月になったというのに、まだ陽射しそのものは真夏のそれだった。まだ午前中だというのに強烈な陽射しがまるでスポットライトのように降り注いでくる。
産形愛生はうっすらと浮かびはじめた額の汗をその手でそっと拭うと、公園の隅っこにあったベンチに腰を下ろした。
すぐ後ろに立つ樹がささやかな陽影を作っている。ときおりそよ吹く風がその顔を撫でていくけど、それは熱気を含んだものだった。
愛生は短く綺麗にカットした髪に手をやった。淡いブラウンに染めてみたけど、自分としてはなかなかいい感じになったと思っていた。ただ残念なのはそれを褒めてくれる彼がいないことだった。
つづく
●蜉
虚ろい漂う。
その揺らめきは夢現の硲を彷徨う。
こちらとあちら。その境目はどこにあるの?
それこそ漂う虚ろい。
川沿いに立つ桜の木にやっと蕾が見てとれるようになった。やがて訪れる春を想わせるこの蕾を見ながら川沿いを散歩するのは、本城麻美にとっては、朝の散歩とともに春を待つまでの楽しみのひとつだった。
田越川沿いに立ち並ぶ桜の花が開きはじめると春本番になる。
それまであとどれぐらいだろう? まだ陽が昇りはじめる前の早朝、めずらしく早起きしてしまった麻美は、ひとり川沿いを歩いていた。
長い髪を垂らしたまま、麻美はジーンズにダウンを着込んでいた。両手を顔の前で合わせるようにして息を吐きかけた。息の白さが春を待つ前の寒さを教えてくれる。
つづく
●泡
膨らんでいくのは、なに?
心を満たしていくのその膨らみは、なに?
その煌めくような膨らみは、なに?
そしてそれはやがてどうなるの?
オンショアの風が吹いてくる。
まるで天空の一番高いところから照りつける陽射しが、空を蒼く輝かせていた。その蒼をまるでそっくり映し取るように海は碧く煌めいている。
その海から吹いてくる潮風は陽射しと海の熱を孕んではいたけど、決して暑すぎることはなかった。サマーベッドの上で横になって海岸の賑わいを眺めている南村この実にとっては、夏の熱気を帯びたこの潮風は心地いいものだった。
真夏の逗子海岸。海の家が建ち並び、砂浜にはサマーベッドやシートが並べられ、多くの人たちで賑わっていた。
そっと眼を閉じると打ち寄せる波音があたりに響いているざわめきを打ち消してくれた。潮の香りを感じてみる。陽射しを受けとめている身体がじりじりと灼けていくようで、それもまたこの実にはどこか嬉しいものだった。
纏っているのはオレンジのビキニだけ。艶やかな長い髪を後ろでまとめている。
──今年は夏を楽しんじゃうんだ。
つづく
●釦
それは滔々とした流れ。
刻まれたものが果てしなく続くのではなく、
立ち止まることの決してない流れ。
その流れに終焉はあるんだろうか?
傾きかけた陽射しが栗色の髪をオレンジ色に輝かせていた。軽くカールした長い髪が涼やかな風に揺れる。
つぶらな瞳、すらりと通った鼻筋、柔らかな膨らみを見せる頬、艶やかな唇、顎から喉へと流れるような曲線。
どのパーツもぼくには完璧に見える。
その横顔をぼくはただ黙って見ていた。いや、こういうのを見蕩れるというのだろう。
秋の柔らかな陽射しが彼女の横顔をさらに美しく見せている。吹いてくる風に乗ってほのかに漂う香り。そのなにもかもがぼくの心を捉えて放さない。
公園のベンチに並んで座っているだけなのに、彼女が隣にいることでぼくはいいようもないほど満たされた想いでいた。
この瞬間をこのまま閉じ込めてしまいたい。そんな考えにも駆られてしまう。それほど彼女はぼくにとって完璧な存在だった。
ふいに彼女がぼくを見つめた。
つづく
●某
線と線が繋がり、そこに形が生まれる。
色と色が重なり、そこに像ができる。
光と影が描かれて、そこに貌が見えてくる。
そのすべてが混ざり合い、創られるものはなに?
「遅いなぁ、まったく」
本城麻美はスマホで時間を確認すると苦笑した。
海を渡ってきた風が、その長い髪を揺らす。その風にはもう夏の暑さは残っていなかった。蒼空を輝かせている陽もどこか秋の色が差しているような気がする。
鎌倉へと向かう国道百三十四号線のトンネルの手前に、海に突き出たところがある。そこに建つ一軒家のカフェ『オフショア』。ウッドデッキの一番海側の席で、麻美はひとりまだ来ない友だちを待っていた。
すっかり氷の溶けてしまったアイスティのグラスに手を伸ばす。右側には大崎のサーフポイント、左の奥には逗子湾を見渡すことができる。正面には森戸から一色海岸を望むことができる。
すっきりと晴れ渡った空の蒼さを受けて、眼の前に広がる海も碧く輝いていた。まさに絶景だった。
つづく
●環
めぐる。古からめぐるもの。
はじまりがあり、そして終わりはない。
新たなはじまりへとすべては繋がる。
めぐる。それは遙か古から続くもの。いつまでも……。
吹き渡る風がすこし冷たくなってきた。傾きはじめた陽が川面を紅く染めはじめている。
そんな川を見つめながら、かえでは膝を抱えるようにして座っていた。手を伸ばすと小石に触れた。それを手に取ると川へ投げ込んだ。
ぽちゃん。
ちいさな音を立てて川面が揺れる。しかしすぐに川の流れは元へと戻っていく。
もうひとつ小石を拾う。川へと投げ入れる。ちいさな波紋はすぐに川の流れにかき消されていく。
今朝ほど台所で聞かされた話が頭の中をぐるぐると巡っていた。
つづく
●坐
すこしずつ溢れている。観てもわからないほど僅かに。
流れはそこを好み、零れはじめる。
そしてなにかを吸い寄せるように、集まっていく。
やがてそれは光すらも捉える場となっていく。
気がついたらその陽射しに暑さではなく、温もりを感じるようになりはじめていた。キャンパスに立つ樹々はまだ緑色の葉を湛えているけど、やがて葉は色を変え、そして落ちていくのだろう。
まるで水彩絵の具を零して一面に色を塗ったような青空がなぜだかとても高く、そして遠くに感じる。片隅に浮かぶ雲でさえ、そのまま天空へと昇ってしまうのではないかと思えるほどだった。
午後最初の講義を終えたばかりの富岡直貴は、すっきりと広がる青空をしばらくの間まるで見蕩れるように見上げていた。
ボタンダウンのブルー地のコットンシャツに、裾を絞ったベージュの綿パン、紺色のリュックを背負っている。すっきりとしてはいたけど、目立ったところがなく、そのままキャンパスの風景に溶け込んでしまいそうだった。
つづく
●一
はじまり、それはいつもそっと訪れる。
はじまり、それはやがて形を成していく。
はじまり、それはいつも揺るぎないもの。
はじまり、そして永久に続くもの。
カレンダーをめくるのが楽しみだった。
季節が新しくなるのはもちろんだけど、新しい日々のスタートを意味しているようにも思えたからだ。
川沿いに樹つ桜の蕾も膨らみ、花びらが開きはじめている。見上げるとすっきりとした蒼空が広がっていた。昇りはじめた陽の輝きが眩しい。吹き渡る風も昨日までとは違って、どこか色づいて見える。
本城麻美は田越川沿いを歩きながら思い切り深く息を吸い込んだ。
昨日までと同じはずなのに、でもどこか違って感じる。
真っ白のパーカーの袖をまくる。
──そろそろパーカーだと重いかもね。
つづく
●新
それは光からはじまった。
それは闇からはじまった。
それは思うことからはじまった。
それは、終わりからはじまった。
吹く風が冷たい。
ピンと張り詰めたようなその風が、草加部紗亜羅の軽くカールした髪を揺らした。歩道の脇の枯れ葉たちがその風を受けてカサカサと音を立てる。
今年もカレンダーはあと一枚。街はクリスマスへと追い立てるように赤と緑色で溢れていた。
懐へそっと忍び込もうとする冷たさを拒むように、紗亜羅はフェイクファーのジャケットの襟元を掻きあわせた。ベージュのジャケットにブラウンのミニスカート。そして焦げ茶のロングブーツ。淡いブラウンのトートバッグを肩からかけて、紗亜羅は大学から駅へと向かっていた。
毎日のように歩いている街並みなのに、なぜかこのときはちょっとだけよそよそしさを感じる。めずらしくひとりだからだろうか。風の冷たさを避けるようにその歩みもいつもより早いものになっていた。
「だから、いやだって」
つづく
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「Zushi Beach Books」では、逗子を舞台にした小説はもちろんのこと、逗子という場所から発信していくことで、たとえば打ち寄せるさざ波の囁きや、吹き渡る潮風の香り、山々の樹木のさざめき、そんな逗子らしさを感じることができる作品たちをお届けしています。
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