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ものがたり屋 参 一 その 1

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

一 その 1

 はじまり、それはいつもそっと訪れる。
 はじまり、それはやがて形を成していく。
 はじまり、それはいつも揺るぎないもの。
 はじまり、そして永久に続くもの。

 カレンダーをめくるのが楽しみだった。
 季節が新しくなるのはもちろんだけど、新しい日々のスタートを意味しているようにも思えたからだ。
 川沿いに樹つ桜の蕾も膨らみ、花びらが開きはじめている。見上げるとすっきりとした蒼空が広がっていた。昇りはじめた陽の輝きが眩しい。吹き渡る風も昨日までとは違って、どこか色づいて見える。
 本城麻美は田越川沿いを歩きながら思い切り深く息を吸い込んだ。
 昨日までと同じはずなのに、でもどこか違って感じる。
 真っ白のパーカーの袖をまくる。
 ──そろそろパーカーだと重いかもね。
 素肌に直接当たる風も軽やかに思える。その風が麻美の艶やかな長い髪を揺らす。
 ジーンズにビーサン。歩くたびにビーサンがペタペタと音を立てた。でもその音がまるで春のリズムを奏でているようで心地よく耳に響く。
 麻美は田越橋から海の方へとぶらぶらと歩いていった。すぐ横を葉山いき海岸回りのバスが通り過ぎていく。そのバスのエンジン音もどこか麻美の気持ちに合わせているように軽やかに聞こえた。
 富士見橋を渡り、すぐに左に折れる。その先には渚橋が見えてくる。それを潜るとその向こうには逗子湾が広がっていた。
 柔らかな潮風が麻美を迎えてくれた。
 緩やかな曲線を描きながら砂浜が続く。西浜の先、大崎の向こうには江の島が見えた。そしてそのうしろには雪を抱いた富士山が聳えている。
 麻美は逗子の海のこの景色が好きだった。
 ──逗子生まれなの。
 そう話すたびにいつもこの景色を想い描いていた。
 その景色がなぜだか今日はいつもとは違って見えた。
 なぜだろう?
 三月が四月になっただけなのに。
 いや、そうじゃない。高校を卒業して大学に入学したのだ。やがて大学生活がはじまる。真っ新な日々が待っている。そんな期待に胸が膨らんでいるのだ。
 だからただ春を心待ちにしていたわけではなかった。文字通り、新しい人生の一ページがスタートするからだった。
 ──あいつはどうしてるかな?
 打ち寄せる波音とやさしく吹き寄せる潮風を感じながら、麻美はふっとあいつ、久能結人のことを考えていた。
 すらりとした細身に端正な横顔。すこし長めの髪が巻き毛のようになっている。
 麻美とは幼なじみの彼もやはり同じように大学へと進学していた。しかも、麻美とは学部はまったく違うけど同じ大学だった。
 ──よく考えたら幼稚園から、あいつとずっと一緒じゃない。
 麻美は結人の横顔を思い出しながら苦笑した。
 麻美と同じで逗子育ちだからということもあってか、幼稚園、小学校、高校といっしょだった。そしてまさかとは思ったけど、大学も同じになった。
 ──腐れ縁か……。
 麻美が結人ととくに親しくなったのは、あるきっかけがあってからだった。それはやがて幼稚園を卒園する前のことだ。散歩の時間に近くの寺の境内の横を通ったとき。麻美はなにげなく石垣を触りながら歩いていたら、いきなりその手をなにかに掴まれた気がして立ち止まってしまった。まるで石垣の中にぐいっと引っ張られたような感じだった。
 途惑った麻美はあたりを不思議そうに見回した。まるでだれかの呼ぶ声が聞こえた気がしたからだった。しかし、あたりにはそんな人はいなかった。麻美と同じように散歩している園児と引率の先生しかいない。それでもだれかの、いや、なにかの麻美をまるで誘い込むような声が聞こえてくる気がしてならなかった。
 そのとき麻美の右手をまるで引き留めるようにしっかりと握ったのが結人だった。
 いきなりで驚いた麻美が咎めるような眼で結人を見つめると、彼は大人びた口調でいったのだった。
「そのまま」
 結人は眼を閉じてなにかを呟くように唱えはじめた。そして麻美の目の前に左手を差し出して見せた。なにがどうなっているのか結人の左手の小指から薬指にかけてみるみるうちに黒く変色していったのだった。
 そして唱え終わった結人がその左手を振り払うと、その指先から黒ずんだなにかが地面に飛び散っていった。
「これで大丈夫」
 結人はただにっこりと笑っていた。
 いったいなにがあったのか訊いても、このときはただ笑うだけでなにも答えてはくれなかった。いったいなにがあったのか、その真実を知ったのはさらに五年後のこと。それもその身を持って改めて麻美自身が知ることになるのだった。

 雨が降っていた。しとしとと雨が降り続いていた。灰色の空から止むことなく降り続く雨。
 小学校が終わると麻美は傘を差して、ひとり家路についていた。
 清水橋を渡ると、そのまま踏切を渡り市役所の横の道をまっすぐ東郷橋へと向かうのがいつもの帰り道だった。けれど、その日に限って、清水橋を渡ってから左に折れて川沿いを歩いて帰ることにした。仲良しだった美咲ちゃんとつまらないことで口げんかしてしまったのだ。いつもの道だと、美咲といっしょになるかもしれなかった。
 傘を差して川沿いの道をひとり歩く。雨が傘にあたる音と長靴が立てる足音が寂しく重なって、麻美の心はすこしだけ沈んでいた。
 仲のいい友だちと諍いをするのははじめてではなかった。それでもいつもはすぐに仲直りができていた。けれど、なぜかこのときはすぐに許す気になれなかった。
 なんだかランドセルがいつもより重く感じる。道の端に転がっていた石ころを見つけると、麻美はそれを蹴りながら川沿いの道をとぼとぼと歩きだした。
 気まぐれではじめた石ころ蹴りだったけど、何度かいい感じで蹴った石ころが転がって、気がついたら夢中なっていた。だからかつい力が入ってしまって、思わぬ先まで石ころが転がっていった。
 微かな音を立てて転がっていく石ころ。それが前にいた子の足に軽く当たってしまった。
「ごめん」
 麻美は駆け寄ると頭を下げた。
「大丈夫。気にしないで」
 何年生だろう。麻美と同じぐらいの背丈の子だった。真っ赤な傘、真っ赤なランドセル、真っ赤な長靴。まるでおかっぱ頭の見本のような髪型のその子は俯いたままただ頷いた。
 麻美は通り過ぎてから、なにか気になって振り返った。
 おかっぱ頭の子は傘を差してそこに佇んだまま、ぼんやりと田越川を見つめている。
「ねぇ、なにしてるの?」
 麻美は歩み寄って、その子の顔をじっと見た。
「なんでもない」
 その子は首を横に振った。おかっぱ頭の前髪が揺れる。
「でも、雨降ってるし、濡れるよ」
「平気だから……」
 川面をじっと見つめたまま頷いた。
「わたし、本城麻美」
 麻美はじっとその子の眼を見つめた。
「どうして?」
 その子は首を傾げた。
「なにが?」
「だって、名前教えてくれたんでしょ。どうして?」
「友だちになれるかなって」
 麻美は微笑んだ。
「いいの? わたしでいいの?」
 その子は麻美の顔を覗きこむようにして訊いた。
「いいよ」
 麻美は大きく頷いた。
 その子はしばらく足下に視線を落としていたかと思うと、ふいにその顔を上げて、改めて麻美の眼をじっと見つめた。
「かなえ……」
「え?」
「狛田香苗……」
 香苗は俯いて呟くようにいった。
「香苗ちゃんか。ねぇ、何年生?」
「五年生」
「わたしと一緒だ。ねぇ、何組?」
「一組……」
 香苗はなにかを確かめるようにじっと麻美の顔を見た。くっきりとした二重の眼。その頬にはそばかすがあった。
「わたしは三組なんだ。そっか、一組か」
 麻美は納得したように頷いた。
「ねぇ、わたしでいいの?」
 香苗は確かめるように首を傾げた。
「もちろんだって。学校で会ったらよろしくね」
 麻美は微笑みかけた。
「うん……」
 香苗は俯いたまま、それでも嬉しそうに頷いた。
 気がつくと傘を叩く雨の音がすこしだけ大きくなってきた。灰色のグラデーションに塗りつぶされた空から落ちてくる雨粒が、音を立てて川面に波紋を描いていく。
「それじゃ、またね」
「うん……」
 麻美はその場を離れて帰途に就いた。仲町橋のところで川沿いの道を右に曲がる。
 振り返ってみると香苗はまだ川面じっと見つめたままだった。真っ赤な傘を差したままどこかへいこうという素振りもみせず、ただ佇んでいた。
 なぜだかその寂しそうな姿が麻美の心に焼き付いたような影を残した。

 ──なにしてるの?
 ──探してるの……。
 ──なにを探してるの?
 ──大切なもの……。とっても大切なもの……。
 ──どうしたの?
 ──だから、落としちゃったの……。
 真っ赤なぬいぐるみに麻美は尋ねていた。けれどその真っ赤なぬいぐるみはその表情を見せることなく、あたりをただうろうろとうろつき回るだけだった。
 ──ねぇ、わたしも探してあげる。
 ──ほんとう? いいの?
 ──もちろんだって。
 麻美が頷いたその瞬間、足下にいきなり大きな穴が空いた。墜ちていく。麻美はどこまでも墜ちていく。
 ──きゃあ~。
 悲鳴を上げて、麻美はただ墜ちていく。
 身悶えしながら、それでもただ墜ちていく。どこまでも……。
 ぐっしょりと寝汗をかいて麻美は眼を醒ました。頭が酷く痛かった。
 真っ暗な部屋の中で麻美は上半身を起こした。吐く息が熱い。
 麻美は高熱を発していた。
「おかあさん……」
 その口から言葉が漏れたけど、しかしその声はだれにも届くことはなかった。結局、朝までベッドに横になったまま、麻美は熱に魘されることになったのだった。
つづく

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