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ものがたり屋 参 一 その 2

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

一 その 2

 はじまり、それはいつもそっと訪れる。
 はじまり、それはやがて形を成していく。
 はじまり、それはいつも揺るぎないもの。
 はじまり、そして永久に続くもの。

 丸一日、熱に魘された麻美だったが、その翌日にはすっかり治っていた。
「麻美、大丈夫?」
 クラスのいろいろな子に訊かれ、そのたびに笑顔で頷いてみせた麻美だった。しかし、美咲は話しかけてくれなかった。大したことが原因ではなかったけど、まだわだかまりが残っているのか、美咲は麻美と顔を合わせようとさえしてくれなかった。
 結局、この日も帰り道はひとりだった。
 めずらしく雨とは無縁の一日。梅雨の合間の蒼空が広がっていた。陽射しもまるで夏を思わせるものになっている。
 逗子大師通りを清水橋に向かって歩く。やっぱりこの日も清水橋を渡ったところで左に折れて、川沿いを帰ることにした。どうしてもいつもの帰り道に足が向かなかった。
 広がる蒼空、零れてくる強い陽射し、吹く風も暑くいのに、なぜか心は沈みがちだった。
 ──やっぱり謝った方がいいのかな……。
 美咲との口げんかが心の中に大きな影が射しているせいで、足取りもその分だけ重かった。
 ──今日はスニーカーなのに……。
 足下を見ると手頃な大きさの石ころがあった。軽く蹴ってみる。石ころは皮の近くまでころころと転がっていった。
 ──あっ、そうだ香苗ちゃん。
 一昨日、この川沿いの道で出会った香苗のことを不意に思い出した。川沿いに樹つ桜の側にひとり所在なげに立っていた香苗。どこか寂しげで、それでいて影が薄かった気もする。
 しかし、この日はどこにもその姿はなかった。
 香苗が立っていたあたりから麻美は田越川を見てみた。雨が続いていたからだろう、その流れは思った以上に濁っていた。
 しゃあしゃあと川が流れる音が聞こえてくる。
 ──ひとりぼっちか……。
 麻美は笑おうとしたが、酷くぎこちないものになってしまった。足下に転がったままの石ころを川へ向かって蹴りこむと、重い足取りのまま帰り道を辿ったのだった。

 ──ほら、こっちだって。
 眼の前の真っ赤なぬいぐるみが、まるで迫ってくるようにじっと見つめている。
 ──どこ?
 ──こっちだよ。
 ──どこへいくの?
 ──探しものだよ。一緒に探してくれるんでしょ?
 真っ赤なぬいぐるみはくるりと方向を変えると、歩き出した。
 ──ねぇ、ちょっと待ってよ……。
 ──一緒に探してくれるんじゃなかったの?
 真っ赤なぬいぐるみはいきなり振り返ると、睨みつけてきた。
 ──だから、わたしも探してあげるって。でも、どこへいくのか教えてよ。
 ──いいから、着いてくればいいの。
 ──ねぇ、どこでなにを探すの?
 真っ赤なぬいぐるみがその足を止めた。
 その瞬間、麻美の足下にいきなり大きな穴が空いた。墜ちていく。麻美はどこまでも墜ちていく。
 ──きゃあ~。
 悲鳴を上げて、麻美はただ墜ちていく。
 身悶えしながら、それでもただ墜ちていく。どこまでも……。
 ずきずきと痛む頭で麻美は眼を醒ました。なんだか変な夢を見たことは判っていたけど、それがいったいどんな夢だったのか、具体的なことはまったく覚えがなかった。
 麻美は起き上がるとカーテンを開けた。窓は濡れていた。しとしとと降る雨粒が窓を濡らしている。窓の向こうの景色がぼんやりとぼやけてくっきりと見えなかった。
 眼醒まし時計を確認したら、いつも起きる時間だった。すぐにアラームが鳴りはじめて、麻美はそれを止めた。
 なんだか身体全体が重い感じがする。頭の片隅に痛みが残っていて、なんだかすっきりとしなかった。それでも麻美は学校へいく準備をはじめるのだった。

 傘を肩にかけるようにしてくるくると回しながら、麻美はとぼとぼと帰り道を歩いていた。
 この日もひとりでの帰り道になってしまった。
 ──どうしたらいいのかな……。
 美咲と仲直りができないまま、この日も下校の時間になってしまったのだ。
 ──ごめんね、っていえればいいんだけど……。
 意地を張っているわけではないつもりだった。何度か美咲に話しかけようとしたのだ。けれど、なぜかそのたびに美咲の方がそっぽを向くのだった。話しかける取っ掛かりを掴むことができずに、一日が過ぎてしまった。
 しとしとと降る雨。なんだか心の中にも雨が降っている気がして、麻美は俯いたままとぼとぼと歩いていた。
 清水橋を渡ったところで、ちょっと迷ったけど、やっぱりいつもの道で帰る気にはなれなかった。左に折れると、川沿いの道を歩きはじめた。
 水たまりを長靴のまま踏んづけて雨水を跳ねとばしながら歩く。ふっと前を見ると川沿いに樹つ桜の側に香苗の姿があった。この前と同じようにひとりでじっと川を見ていた。しゃあしゃあと川が流れる音が聞こえてくる。
「かなえちゃん」
 麻美は歩み寄りながら声をかけた。
「あっ、麻美ちゃん」
 傘を差したまま香苗が振り返った。俯き加減のその顔はやはりどこか寂しげだった。
 麻美がさらに歩み寄ろうとしたところで呼び止める声がした。
「麻美ちゃん」
 振り返ると結人だった。
「結人くん」
 紺色の傘に紺色のランドセルの結人がゆっくりと歩み寄ってきた。
「なにしてるの? いつもと道が違うでしょ?」
 結人は首を傾げた。
「ちょっとね」
 麻美は曖昧に笑った。
 そのときだった。香苗が結人を軽く睨みながら踵を返すと駆け出した。
「あっ、香苗ちゃん!」
 麻美は後を追おうとしたけど、香苗の姿はすぐにちいさくなっていった。
「だれ?」
 香苗が駆けだしていった方を見ながら結人が尋ねた。
「うん、狛田香苗ちゃんっていうんだ。この前、ここで会って、友だちになったの」
「そうなんだ」
 結人は訝しげに頷いた。
「そうだ、結人くん一組だったよね。香苗ちゃん知ってるでしょ。同じクラスだから」
 麻美は微笑みながら訊いた。
「え?」
 結人は驚いたように麻美の顔を見つめた。
「なに?」
「あんな子、いないよ。一組にはいないよ、狛田香苗って子は」
「そんな……」
 麻美は途惑ったような顔で結人を見た。
 結人は黙って香苗が去っていった方をただ見つめた。
 しとしと降る雨がふたりの傘に当たって立てる音だけがいつまでも静かに響くのだった。

 ──ねぇ、どこにいるの?
 微かに届く光の筋が幾重にも揺らめく。
 声を出しているのに、それがまるで響くことなく、ただくぐもってしまう。まるで水の底に取り残されてしまったようだった。
 ──どこ? どこにいるの?
 あたりをしきりに見回しても、影すら見ることができない。
 ふいにどこからか声が聞こえてくる。ただ、なにを話しかけられているのか、言葉を聞き取ることができない。音という音がすべてくぐもってしまい、響くことがないからだろうか。しゃあしゃあという流れの音も重なっている。
 でも、聞こえてくる……。どこかで聞いたことのある声が……。
 ──あぶないから……。
 ──え? なに?
 しきりに声の主を探そうとしても、やはりなにも見えない。まるで重なった水の層がその視界を遮っているようだった。
 ──攫われるから……。
 ──だれに?
 アラームの音で眼が醒めた。麻美は軋むような頭の痛みを覚えて、ベッドの上で大きく溜息をついた。
 ぼんやりといままで揺蕩っていた夢を思い出そうとする。けれど、どこか深い水の底に閉じ込められていたような感覚だけしか思い出せなかった。
 ──聞こえてきた声。あれは確か……。
 聞き覚えのある声。そして流れの音。
 ──美咲ちゃんの声みたいだった。それにあれは……。

 チャイムが鳴ると永澤美咲はすぐに帰る用意をはじめた。
 机の上に広げていた教科書やノートをランドセルにていねいに入れていく。片付けながら、どうしても麻美に眼がいってしまう。
 ──もう、なんだってこんなこといつまで続けてるんだろう……。
 ランドセルのベロを錠前でしっかり閉じるとちいさく溜息をついた。そのまま立ち上がると、ていねいに編まれた三つ編みをよけるようにランドセルを背負った。
 ──なんだかムキになっちゃったんだよね。
 美咲は麻美との口げんかを思い出していた。きっかけは他愛もないものだった。
 ──なんていったんだっけ?
 そぼ降る雨を教室の窓から見ながら呟いたことだった。
 ──雨が降り続く川をじっと見つめちゃダメなんだって。
 麻美はただ不思議そうに首を傾げた。
 ──どうして?
 ──川の流れに攫われちゃうんだって。
 ──なに、それ。
 なにげない麻美の言葉が反駁に聞こえた。
 ──だって、おじいちゃんがいってたんだもん。
 美咲の口調はつい強いものになってしまった。まるで大好きなおじいちゃんを笑われたように感じてしまったからだった。
 川が人を攫うわけない、だってそう聞いたからと互いにいいあっているうちに諍いになってしまった。
 ──分からず屋の麻美なんて、川に攫われて、そのまま海に流されて死んじゃえばいいんだ!
 あんなこというんじゃなかった。
 美咲は思い出すたびに下唇を噛んでしまう。けれど、一度口から出た言葉は戻ってはこない。
 しとしとと雨が降る。
 まるで取り残されたような気分になりながら校舎を出ると、美咲はただひとりぽつんと傘を差した。雨が傘を打つ音が聞こえる。
 いつもの帰り道を歩きながらふっと前を見てみると、同じように麻美がとぼとぼと清水橋を渡っていた。知らす知らず美咲の足が早くなっていく。
 清水橋を渡ったところで麻美は立ち止まると、しばらくあたりを伺うようにしてから左へと折れた。
 ──あれ? いつもと違う。そのまま踏切を越えるのに……。
 美咲と一緒のときは踏切を越えて市役所の横の道をいくのがふだんの帰り道だった。
 美咲は不思議に思いながら急いで清水橋を渡ると、麻美と同じように左に折れた。
 川沿いの道を麻美がひとり傘を差して歩いていた。それまで聞こえていた傘を打つ雨音の代わって、川が流れるしゃあしゃあという音が聞こえてくる。
 ──どこへいくんだろう?
 麻美がいく先を見てみるとすこしいったところにひとりの女の子が立っていた。
 真っ赤な傘、真っ赤なランドセル、真っ赤な長靴。おかっぱ頭の子が桜の樹に寄りかかるように、じっと川を見つめていた。
 やがて麻美はその子に近づくと、その子は振り返って麻美の顔をじっと見返した。
 ──なに話してるんだろう?
 訝しく思っていたら、その子が麻美に手を差し出した。麻美はなんの躊躇も見せずにその手を握った。
 麻美と手を繋ぐと、ふいにおかっぱ頭の子は美咲の顔を見つめた。そこにいるのは知っているんだよといわんばかりに笑った。
 その瞬間、ふたりの姿が消えていた。
「え?」
 いったいなにが起こったのかまったくわけが解らず、美咲はふたりがいたところへと駆け寄った。しかし、そこにいたはずの麻美とおかっぱ頭の子の姿はどこにもなかった。
 ただ傘が逆さまに開いたままそこに残されているだけだった。しとしとと降り続く雨を受けて濡れそぼった真っ赤な傘。
 ──麻美ちゃんが、麻美ちゃんが攫われた……。
 呆然と立ち尽くす美咲の耳に、ただしゃあしゃあと川が流れる音だけが、酷く大きく響くのだった。
はじめから つづく

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