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ものがたり屋 参 斑 その 1

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

斑 その 1

 その紅はほんとうは何色?
 その蒼空はほんとうはどんな空?
 ねぇ、その人はほんとうはどんな人?
 そもそも、人なの?

 いつもよりすこしだけ梅雨明けの時期が遅めになった。だからというわけではないんだろうが、梅雨が明けてみるといきなり真夏になっていた。
 本城麻美は朝早くから逗子海岸で海を見ていた。
 まだ昇りはじめたばかりの陽の輝きが強くなりはじめ、暑い一日になることを予見させる。その陽が空を蒼く染め上げ、その輝きが海を碧く煌めかせていた。さながら海は空の色を映す鏡だ。
 建ち並ぶ海の家はまだ静まりかえったままだった。海岸をいくのは犬を連れて散歩する人や、ジョギングをする人たち。
 麻美はそんな人たちとすれ違いながら波打ち際をゆっくりと海岸中央から東浜に向かって歩きはじめた。
 Tシャツにミニスカート。足元はもちろんビーチサンダル。
 ゆるやかなオフショアの風が麻美の髪を揺らす。麻美は打ち寄せる波にときおり足が濡れるのも構わず、しばらく波打ち際を歩き続けた。
 昨日の夜、いきなりかかってきた電話のことを考えていた。高校のときの同級生、府馬隆也からだった。
「久しぶり」
 そこまで親しい関係ではなかったけど、性別を問わずなぜか馬が合う存在がいるものだ。府馬隆也もそんなひとりだった。どちらかというと部活ひと筋といった彼だったが、たとえば学園祭などクラスでなにかをやろうとするときには、一緒になって行動することが多かった。
「ちょっと頼みがあるんだけどいいかな」
 別々の大学に進学したこともあって、高校を卒業してからはほとんど会話を交わす機会そのものがなかった。そんな彼が突然電話してきたのだった。
「なによ、改まっちゃって」
 麻美はすこしからかうように返した。
「いや、やっと紹介できそうな彼女ができたんで、逢ってもらいたいな、なんて思ってさ」
 なぜか照れながら話す夫馬の顔が脳裏に浮かんで麻美は微笑んだ。
「逢うだけならいいよ」
 軽い気持ちで返事をしたら、府馬の口調がちょっと変わった。
「それが、逢うといってもそこらの店でという話じゃなくて、ちょっと込みいってるんだけどいいかな」
 話を聞いてみると、府馬の彼女、賀来菜月がたまたま応募したプレゼントに当選したという。その賞品が軽井沢のペンションの宿泊券だったが、条件があるというのだ。それがカップルふた組限定だった。
「それだったら、わたしじゃなくて友だち誘えばいいじゃない」
 麻美はやんわりと断った。
「それがさ、おれの知り合いにそんなカップルいないんだよ。みんなシングルばっかりでさ。しかも一緒に軽井沢に旅行してくれそうなやつはいなくて」
「ひとりも?」
「そう、ひとりも」
 府馬はやけに力を入れてきっぱりといった。
「いや、じつは菜月なんだけど、ちょっと変わったところがあって、彼女とちゃんと話相手ができそうなやつって考えたら、麻美、お前のことしか思い浮かばなくて……」
「なによそれ」
 麻美はちょっとむくれたようにいった。
「だからこれ、褒めてるんだって。な、頼むよ。あの娘と旅行できるチャンスなんて滅多になさそうでさ。お願い。これ、一生のお願い」
 麻美は溜息をひとつつくと口を開いた。
「ねぇ、高校の頃、その一生のお願いってずいぶん聞いたような気がするんだけど」
「後生だから。頼む、麻美。もうお前しか頼めるやついなくって……」
 最後は縋るような口調になっていた。
「だいたいカップルふた組なんでしょ。わたしにそんな相手いないわよ、正直にいうけど」
 麻美は駄目を押すようにいった。
「ほら、あいつがいるじゃない。なんていったっけ。そうそう、久能。久能結人。麻美、いつもあいつと一緒だっただろ?」
 逗子海岸の東浜の端まで歩くと麻美は振り返って碧く輝く海を見た。夏の陽射しを受けて煌めいている。ほんの僅かだけど波が打ち寄せていた。その潮騒が微かに麻美の耳に響く。
 結人か……。
 電話では府馬に押し切られてしまった。もちろん結人にまだその話をしていなかった。
 ──どうやって切り出せばいいんだろう……。
 ふたりきりじゃないとしても、それも軽井沢への旅行だなんて。
 田越川との境となっているブロックに凭れるようにして麻美はスマホを取りだした。
 スリープを解除すると画面に表示されている時間を確認した。ちょうど七時をすぎたところだった。
 ──まだ早いかな……。
 しばらくスマホを手にしたまま海を眺めていた麻美だったが、やがて大きく息を吐くと、画面をタップして電話した。
 呼び出し音がどこか遠くで鳴っているように聞こえる。できたらこのまま結人が電話に出なければいいのに。そんなことをふと思った瞬間、結人が電話に出た。
「麻美、どうかした?」
「おはよう結人。ねぇ、いま大丈夫?」
 麻美はなぜかちょっと早口になっていた。
「ああ、いいよ」
 結人がのんびりと答える。
「あのね、ちょっと変な頼まれごとしちゃってさ」
 麻美は府馬に誘われた旅行の話をしどろもどろになりながらも事細かに話した。
 ──なんだってこんなことを必死になって話しているんだろう。
 話し終わって、すこしだけ間が開いた。なんだか心臓の鼓動が耳元に響いている。麻美は妙に落ち着かない気分になっていた。
「いいよ」
 あまりにもあっさりとした返事に、なぜだかちょっとむきになって麻美はいい返した。
「ねぇ、いいの。軽井沢だよ。ペンションに泊まっちゃうんだよ。わたしと旅行するんだよ」
「だって府馬に頼まれたんだろ。一緒にいってくれって」
「それはそうだけど……」
 そういいながら麻美はまた海を見た。空の蒼い輝きも海の碧い煌めきもなんだかちょっといつもとは違った感じに見えた。
 ──わたしったらなにいってるんだろう。
「じゃ、OKってことで府馬には話しておくね」
 そういって麻美は電話を切った。
 なんだってそんなに簡単にいいよなんていえるのか、それがちょっとだけ癪に障った。
 ──だってわたしったら、それなりに考えたんだぞ。
 なんだか肩透かしを食らったようで釈然としなかったけど、しかし軽井沢へいくことになった。
 
 その日、天気は上々だった。
 府馬の運転する車で軽井沢のペンションに向かう。もちろんドライバーは府馬、そしてナビシートには菜月が座り、麻美と結人はリアシートにふたり並んで乗った。
 逗子からだと横浜横須賀新道から第三京浜を走り、環状八号線を経由して関越自動車道、そして上信越自動車道を走ることになる。
 麻美や結人、府馬は高校の頃から知り合いだったけど、府馬の彼女、菜月は初対面ということもあってしばらくはどことなくぎこちない時間が過ぎていった。
 そんな雰囲気がくだけはじめたのは、休憩もかねて関越自動車道の高坂SAで休憩したときだった。
 菜月はおとなしい娘だった。ストレートの髪が肩の辺りまで伸びている。ほっそりとしているからよけいに控えめに見えるのかもしれない。口数も少なく、府馬の言葉にこっくりと頷くだけのことが多かった。
「菜月がよくいうんだけど」
 サービスエリアのレストランで昼食を終えると府馬が口を開いた。
「なんのこと?」
 菜月がちょっと不安げに府馬の顔を見た。
「ほら、いつもいってるだろう。わたしが見ている赤とあなたが見ている赤が同じ色だってだれにもわからないのよって」
 府馬はやさしい眼差しで隣に座っている菜月を見ながらいった。
「ああ、その話ね」
 菜月はちょっと安心したように頷いた。
「ねぇ、どういうこと?」
 麻美がふたりを見ながら首を傾げた。
「クオリアのこと?」
 結人が菜月に訊くと、彼女はこっくりと頷いた。
「クオリアっていうんだ」
 府馬が興味深げに結人の顔を見た。
「科学的にも証明できないし、哲学の議論にもなっている。要するにね、ぼくが見ている赤信号の赤という色と、麻美が見ている赤信号の赤は同じ色調だと証明する方法がないんだよ。極端な話をすると、ぼくにとって青く見えているのが、麻美にとっては赤かもしれない。でもそれぞれにとっては赤という色は赤なんだけど、それが同じ色かどうかは解らない」
「ねぇ、いつも思うんだけど、なんだって結人はものごとをそうやってややこしく考えられるの?」
 麻美はそういって口を尖らせた。
「いつも、そうなの?」
 そんなあたりのやとりとを見て菜月が興味深そうに訊いてきた。
「そうなの。もう前からそうなんだけど、ぼくが見ている世界と麻美が見ている世界が同じだとはいえないんだよとかさ、この世界には解らないことがいっぱいあるんだとか」
 麻美の言葉に菜月は頷きながら、改めて結人の顔をじっと見つめた。
「高校のときもそうだったよな。なんだっけ、一度物理の先生を質問攻めで困らせたことがあっただろ
「それが昂じて大学ではなんと量子の研究なんかしているんだから。それも理由がふるっているのよ。ふつうの物理法則が通じないからなんだって」
 麻美がそういって笑うと結人は返す言葉もなくただ頭を掻くだけだった。
「でもそうよね、みんなが同じものを見ているとは限らないもの」
 菜月はひとりごちるようにいって大きく頷いた。

 藤岡JCTで上信越自動車道に入ると碓氷軽井沢ICで高速を降りた。そのまま軽井沢駅を過ぎると三笠通りを北上していく。どれぐらい走っただろう、右に折れると山の方へ向かった。やがて開けていた視界に木立が飛び込んでくるようになっていた。
「ねぇ、そのペンションってどこなの?」
 府馬がただ黙って樹々に囲まれた上り坂を走り続けていると麻美は不安げに訊いた。
「ナビだと、もうちょっと先みたいなんだよね」
 関越に入る前の環八がかなり混んでいたせいで、朝、逗子を出たにもかかわらず、もうかなり陽が傾きはじめていた。
「ねぇ、そこを左みたい」
 ナビを覗きこんでいた菜月がいった。
「ああ」
 府馬はスピードを落としてゆっくりとをハンドル左に切った。
 沈んでいく夕陽の輝きに静かに夕闇が混じりはじめていた。樹々の枝の間から零れていた陽射しもいつしか頼りな気になっている。
「なんだか暗くなってきちゃったわね」
 窓から外をしきりに気にしていた麻美がぼそっと呟いた。
「うん」
 結人はただ静かに頷いた。
「ねぇ、まだ?」
 麻美がせっつくように府馬に声をかけた。
「もうすぐのはずなんだけど……」
 府馬はそういいながらヘッドライトを点けた。
「なんだかぼんやりとしてきたわ」
 菜月がフロントガラス越しにしきりにあたりを伺うに見回していった。
「霧が出てきたみたいだ」
 府馬はそういって頷いた。
「霧か……」
 結人も窓から外の様子をじっと見ていた。
 いつのまにか忍び寄るように霧が車を包もうとしていた。
 府馬はさらに車のスピードを落としてゆっくりと進んだ。
「あっ、門が見える」
「ああ」
 府馬はほっとしたように口を開くと、ハンドルを切ってアクセルをすこしだけ踏み込んで進んだ。
 陽はすっかり沈みきり、あたりは暗くなっていた。
 府馬が車を止めると、菜月がすぐに車から降りた。麻美もドアをあけると外に出た。
 すぐ目の前にペンションがあった。しかし、それは軽井沢のペンションという言葉の響きとはおよそかけ離れたものだった。
「隆也、送ってきたパンフレットとずいぶん違うみたいだけど、ここでいいんだよね」
 菜月は車を降りた府馬のそばにいくと、心細そうに呟いた。
 結人も車を降りると、目の前の建物を見てぼそっといった。
「なんだか別の世界に迷い込んだみたいだ……」
 目の前に建っていたのは、いつの時代に建てられたのか想像できないような古色蒼然とした洋館だった。
「ねぇ、ここ軽井沢よね」
 麻美は半ば呆然としながらいった。
つづく

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「Zushi Beach Books」では、逗子を舞台にした小説はもちろんのこと、逗子という場所から発信していくことで、たとえば打ち寄せるさざ波の囁きや、吹き渡る潮風の香り、山々の樹木のさざめき、そんな逗子らしさを感じることができる作品たちをお届けしています。

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