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ものがたり屋 参 斑 その 2

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

斑 その 2

 その紅はほんとうは何色?
 その蒼空はほんとうはどんな空?
 ねぇ、ここはほんとうはどこ?
 この世界に境目があるとしたら、それはどこ?
 いまいるここは、いったいどこなの?

 漂う霧に包まれはじめた洋館の前で、麻美たち四人は目の前の建物をただじっと見ていた。あたりを覆う闇にエントランス脇の灯りが浮かび上がっている。ただそれも頼りなく点いたり消えたりしていた。
 麻美はなぜか心細くなり、そっと結人に身体を寄せた。
「とにかく、入ろう」
 結人の言葉にほかの三人はただ黙って頷き、それぞれ荷物を手に、入り口に向かった。
 府馬はドアノブに手をかけてそっと回すと、ゆっくり開けた。内側につけられたドアベルのカラカラと乾いた音が響く。
 ペンションの中もまるで外の闇がどこからか忍び込んできたように暗かった。
 正面にフロント用のデスクがあった。デスクライトがあたりをぼんやりと照らしていた。
 府馬は大きく頷くと一歩ずつ歩き出した。木張りの床が軋むような音を立てる。府馬は辺りを窺いながら無人のデスクまでいくと、呼出用のベルを鳴らした。
 歩み寄った菜月が府馬の袖を引っ張った。
「だれもいないのかな……」
「いや、そんなことはないと思うよ」
 府馬はそういうともう一度ベルを鳴らした。
 チーン。
 静まりかえったペンション中にベルの音がまるで波紋のように広がっていった。
 やがて奥のドアが開くと、中年の男が姿を現した。
「お待たせしました」
 白髪の交じったやや長めの髪はかなり薄くなっている。痩せぎすの身に白のワイシャツを纏っていた。ていねいにアイロンがかけられたそのワイシャツは、しかし端がすこしだけ黄ばみはじめていた。
 男はフロントデスクに立つと、じっと府馬を睨めつけるように見つめた。
「賀来菜月様、でよろしいですか?」
「はい……」
 菜月がおずおずと返事をすると、前に進み出た。
 肩にかけたバッグから封筒を取り出すと、プレゼントに当選した宿泊券をフロントデスクに置いた。
「当選、おめでとうございます。ふた組様でご宿泊でよろしいですよね」
 男はいいながら四人の顔を代わる代わる見ていった。その表情からはなんの感情も読み取れなかった。
 そんなやりとりを見ながら麻美はそっと結人の脇腹を突くと小声でいった。
「なんだか、どこか怪しい感じがしない?」
 その瞬間、まるで見咎めるように男は麻美の顔をじっと見つめた。
 麻美はなにもいわずただ首を竦めた。
「お部屋は二階になります」
 男はそういってテーブルの上にキーをふた組、置いた。
 菜月は受け取ると、そのひとつを麻美に渡した。麻美はちょっと途惑がちに受け取ると、結人の顔を見た。
「食事は奥のダイニングスペースをご利用いただきます」
 四人がそれぞれの荷物を手に二階への階段に向かおうとするとその背後からさらに続けた。
「三階はどなたもご利用されていませんが、くれぐれも立ち入らぬようお願いします」
 そういって男は軽く頭を下げるとドアの奥へと消えていった。

 部屋はシンプルなものだった。ベッドが壁を背にふたつ並んでいた。麻美は入り口に近い方のベッドの上に荷物を置くと、腰を下ろした。
「ぼくは窓側?」
 結人はそういって窓側のベッドへと歩いていった。
 窓のところにはごくちいさなライティングテーブルがある。ベッドとは向かい合うようにテレビ台を兼ねたチェストがあった。その脇には小型の冷蔵庫。さらにその奥は洗面とトイレ・バスルームになっていた。
「なんだか外観はちょっと時代がかってたけど、中は意外にすっきりしているのね」
 麻美は部屋を見回していった。
 窓から外を覗いていた結人は振り返って麻美を見た。
「いや、造りはかなり古いと思うよ。内装だけ体裁整えたのかな。ほら部屋のドアなんてかなり古い木造だし」
「そんなものなんだ」
 麻美はそういいながら窓辺へとやってきた。
「なにか見える?」
 結人の隣に立つと、同じように窓から外を眺めた。
「いや、なにも。霧が濃くなってきたみたいだね」
「ねぇ、なんだか夜が濃い感じがする」
 麻美はカーテンに手を掛けながらひとりごちるようにいった。

 すぐに夕食の時間になった。
 四人はいわれたとおりダイニングスペースにいった。
 十人は座れるだろうと思える大きなテーブルが部屋の真ん中にあった。府馬と菜月、麻美と結人はそれぞれ隣り合う席に向かい合うようにして座った。
 男がエプロン姿で皿を運んできた。前菜、サラダ、スープ、それにメインとしてステーキ。
「飲み物はワインでよろしいですか?」
 そういいながらそれぞれのグラスに赤ワインを注いでいく。
「あの、おひとりできりもりされているんですか?」
 麻美が首を傾げながら尋ねた。
「いえ。妻が奥で調理をしております」
 男はただ静かに答えた。
「なにかありましたらお声がけください」
 ていねいだが、ただ冷たい口調でそういうとそのまま下がっていった。
「なんだかちょっと気圧された感じで食欲わかないの」
 麻美は前菜の皿をフォークで突きながら小声でいった。
「めずらしいな、麻美らしくないぞ」
 府馬がからかうようにいった。
「でも確かに軽井沢のペンションって聞いたときとはイメージが違うよね」
 ワイングラスに口をつけながら結人がいった。
「ごめんなさい。無理して来てもらったみたいで」
 菜月はふたりの顔を見ながらぼそっといった。
「そんなことないわ」
 麻美は菜月に微笑みかけるといった。
「でもさ、これ美味しいよ」
 府馬は前菜を平らげるとサラダに手を伸ばした。
「クオリアの話をもうちょっと聞かせてくれる?」
 結人は菜月に語りかけるようにいった。
「どういうこと?」
「あのときは色の話だったでしょ。それ以外にもあるのかなと思って」
 結人の言葉に菜月はちょっと考えてから口を開いた。
「違和感ってあるでしょ」
「違和感?」
 サラダを食べ終わった府馬が菜月の顔を見ながらいった。
「その場の雰囲気といえば判りやすい?」
 府馬に答えるように菜月がいった。
「その場の雰囲気がどうなの?」
「どういっていいのか、いつも迷うんだけど、ときどきずれて感じることがあるの。まるでふたつの景色が混じり合っているような、そんな違和感。でも、そんなこと感じる人っていないよね」
 菜月はそういって俯いた。
「混じり合う?」
 麻美がその菜月の顔を覗きこむようにして訊いた。
「陽があたっていて明るいはずなのに、なぜか冷たい光を感じたり」
 菜月は三人の顔を順に見てから、また口を開いた。
「あとはそこにいるべきではない人だと感じたり……」
 菜月はそういって、目の前の皿に視線を落とした。
「いろいろな意味での違和感なんだね」
 結人がいうと、菜月はこくりと頷いた。
「なんだかおかしいわよね。ごめんなさい、説明が下手で」
「大丈夫。そういう話なら、結人は専門家みたいなものだから」
 麻美はいいながら結人を顔を見て頷いた。
「そうなの?」
 菜月はなぜだかほっとしたような目つきで結人の顔を見た。
「なんだか麻美のいい方だとぼくは変人みたいだ」
「いや、結人、キミは確かにどこかちょっと変わっている」
 府馬は大きく頷いてみせた。
「ちょっとじゃないわよ、とても変なところがある」
 麻美はそういって笑った。

 食事を終えて部屋に戻ると、結人はバスルームにいった。
 麻美はとくになにをすることもなく窓際にいくと、ぼんやりと外を見た。
 夜の闇と霧が綯い交ぜになっていた。エントランス脇の灯りがぼんやりとその暗闇を照らしている。まるで瞬くようにときおり灯りは消え、また再び灯った。その灯りが照らしているのはエントランスのすぐそばだけ。門の方へと伸びいてるはずの道は夜の闇の中にまるで沈んでしまったようにかき消え、見えなくなっていた。
 麻美はやがて溜息をつくと、その夜の闇が忍び込むのを防ぐようにそっとカーテンを閉じた。
 そのときドアをノックする音が響いてきた。
 ──だれだろう?
 ひとりごちると歩み寄り、そっとドアを開けた。菜月がまるで行き場に困った子どものようにそこに俯いたまま立っていた。
「なに?」
 麻美は首を傾げながらいった。
 菜月はすぐには答えず、その顔をそっと上げると麻美の顔をじっと見つめてから、おずおずと口を開いた。
「いま、いい?」
「うん、大丈夫だけど」
「結人さんは?」
 ドアの隙間から部屋の中を覗きこむようにして訊いた。
「あいつはお風呂。だからいまはわたしだけだよ」
 麻美の言葉にほっと息をつくと、頷きながら口を開いた。
「あのね、ちょっとお願いがあって」
「あ、だったら部屋に入る?」
 菜月はなにもいわずただ首を横に振った。
「お願いって?」
「ごめんね、勘違いだったら恥ずかしいんだけど、部屋にいると物音が聞こえてくるの」
 菜月はそういって麻美の眼を見つめた。
「物音が?」
 菜月はこっくりと頷くと続けた。
「上の部屋だと思うんだけど、なんだかバタバタって、人が走るようなそんな物音。この部屋はなんともない?」
 菜月はそういって首を傾げた。
「え、物音か。まったく気がつかなかった。静かすぎるぐらいだけど」
 麻美がいうと菜月はちょっと困ったように俯いてしまった。
「よかったらわたしが部屋にいってあげようか」
「あ、駄目。隆也に怒られちゃうかも。またお前は変なことを話して人に迷惑かけるって」
「でも、聞こえるんでしょ?」
「隆也はなんでもないっていうんだけど、ものすごく気になって……」
 菜月はそういうと上目遣いで麻美を見た。
「気になるって、なんだか落ち着かないよね。そうだフロントにいって相談してみる?」
「あの人、なんだか話を聞いてくれそうにない感じがしない?」
「確かにそうね。というか、なんだか怪しいよね、こんないい方変だけど」
「そんなことない。わたしもなんだかそんな気がしてた」
 麻美は腕組みした。
「ねぇ、ちょっと三階にいって様子見てみない?」
「え?」
 菜月の言葉に麻美はどう答えていいかの判らず言葉に詰まってしまった。
「客はいないっていってたでしょ、あの人。だったらちょっといってみて、だれもいなければ上の部屋から聞こえる物音はわたしの勘違いかもってことになるでしょ」
「でも、立ち入らないようにっていってたよね」
「だから、こっそりといって、ちょっと確認するだけ」
 麻美は腕組みしたまま考えてしまった。
「無理にとはいわない。だったらわたしひとりでちょっと確認してみるから。ごめんね、変な話しちゃって」
 菜月はそういうと階段の方へと歩き出そうとした。
「判ったから。でも、ちょっとだけよ。だれにも怪しまれないようにこっそりといってみて、すぐに戻ってくる。それでいい?」
 麻美の言葉に、菜月は振り返ると大きく頷いた。
 麻美はドアを後ろ手に閉めると菜月と一緒に階段に向かった。
 一階から続いている階段は二階までは薄明かりがついてたけど、その先の灯りは消えていた。階段の先は暗がりの中に消えているようだった。
 麻美は菜月と並ぶように一歩ずつ階段上りはじめた。途中の踊り場の部分で上を見ると、まるで闇夜のように暗くなっていた。
「ねぇ、ちゃんと見える?」
 麻美が声を潜めて菜月に訊いた。
 菜月はただ首を横に振った。
 それでもいったん上りはじめた階段を途中で引き返す気にはなれなかった。まるで足場を確かめるように一歩ずつその段を上っていく。
 濃い闇夜のような暗がりだったけど、やがて眼が慣れはじめたのか、なんとか階段を上ることはできた。三階についてみると二階と同じように廊下が奥に続いている。
 ここを支配しているのもやはり闇夜と思えるような暗がりだった。廊下にあるはずの灯りは消えたままだ。
「ねぇ、菜月たちの部屋の上だとしたら、一番奥の部屋だよね」
 麻美の問いに菜月はただこっくりと頷いた。
 まるで這うようにして一歩ずつ麻美と菜月は廊下を進み、やがて一番奥の部屋の前に辿り着いた。
 どちらからともなく顔を見合わせると、麻美はドアノブに手をかけた。

「麻美、お先」
 濡れた髪をタオルで拭きながら結人はバスルームを出た。
 しかしいるはずの麻美の姿はなく、結人は部屋を見回してしまった。
 いると思っていたはずの相手がいないとなんだか肩透かしを食らったようで、どうしたものか考え倦ねて結人は窓際のベッドに腰を下ろした。
 ぼんやりと窓の方を見ながら頭をタオルで拭いていたがやが立ち上がった。
 ──もしかして隆也たちの部屋かな。
 あらかた頭が拭い終わったことを確認すると、ベッドの上にタオルを置いたまま、結人は部屋を出た。
 隆也たちの部屋の前にいくとドアをノックする。
 返事がなかったので、もう一度、力を込めてノックした。しかし、静まり返ったままでなんの反応もなかった。
 ひとつ大きく息をつくとドアノブを握って、ゆっくりと回してみた。鍵がかかっていなかったようで、ドアはすぐに開いた。
 灯りが消された薄暗い部屋だったが、眼を凝らすとぼんやりとその様子が見て取れた。結人たちの部屋と同じような内装だった。
 ベッドにだれか寝ていた。
 部屋に入った結人は壁に手を伸ばすと灯りを点けた。
 ベッドに横たわっているのは隆也だった。ただふつうに眠っているようには見えなかった。灯りをつけたのに隆也は身じろぎすらしない。
 ──静かすぎる……。
 訝しく思った結人はベッドへ歩み寄ると、隆也の顔を見た。
 まるで血の気が失せたような真っ白な顔。しかも服は夕食のときのままだった。
 ──まさか……。
 寝息が聞こえなかった。それどころか胸が上下することもなく、ピクリとも動かずにただ横たわっている。
 その左手がベッドから垂れるようにはみ出していた。
 その腕をそっと持ち上げてみて結人は驚きのあまり、ちいさく声を上げた。
 その左手首からふた筋ほど血が垂れている。しかもまるでなにかに噛みつかれたような穴がふたつ空いていた……。
 ──麻美……。
 いったいなにが起こったのかまったく考えもつかなかった結人の頭をよぎったのは得体の知れない虚無にも似た不安だった。

 部屋の中も暗かった。ただ部屋の真ん中になにかがあることはわかった。
 かなり大きい。部屋の真ん中に台の上に置かれた大きな箱のようなものがあった。手探りでそれがなんなのか確かめようとしたけど、まったく想像することもできなかった。
「ねぇ、なんだと思う?」
 麻美はうしろにいた菜月に訊いてみた。
「なにかしら?」
 菜月もまったく判らないようだった。
「そうだ」
 麻美はそういうとポケットからスマホを取りだした。フラッシュライトのアプリを起動する。闇になれた眼には眩しすぎるほどの光がそれを照らし出した。
「まさか……」
 麻美はあまりのことにその言葉を漏らしたそのとき、すぐうしろで人が倒れる音がした。
 ──!
 麻美が振り返ろうとした刹那、その口を布で塞がれてしまった。
 薄れいく麻美の意識にはさっき見た光景だけがまるで残像のように刻み込まれた。
 ていねいに装飾の施された棺だった。しかも、その蓋は開いていた。
 麻美のその意識も、しかしすぐに途切れてしまった……。
はじめから

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