ものがたり屋 参 巫 その 1
うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。
気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。
巫 その 1
その息吹はどこから吹いてくるのだろう?
その源を辿ると、どこまで遡れるのだろう?
そのいきつく先では、なにが待っているのだろう?
その系譜は果たしてなにを指し示すのだろう?
それを識るものを、もしかすると聖というのだろうか?
風までが凍てつくように冷たかった。
真冬の逗子海岸ではめったに観られない光景が広がっていた。海の上にだけ霧が漂い、幻想的な国へと迷い込んでしまったかのようだった。
「綺麗……」
海岸へ足を踏み入れた途端、天羽珠妃は思わず声を上げた。
「気嵐」
「え?」
「だから、けあらしだよ」
肩を並べるようにして歩いていた久能結人がやさしい口調でいった。
「今日は凍えるほど寒いだろ。海水の方が空気よりも温度が高いと、水面から蒸発が起こって、その水蒸気が冷やされて霧になるんだよ」
「なんだか結人くんにそうやって説明されちゃうと、ロマンチックじゃなくなっちゃう」
珠妃は笑いながらいうと、結人にその身体を軽くぶつけた。
真っ白なダウンに濃い紺色のスカート。スカートとブーツの間から覗く膝小僧がとてもキュートだった。ボーイッシュなショートカットが、その端正な顔をより一層引き立てている。
つぶらな瞳がじっと結人の横顔を見つめる。なぜか結人はその視線を感じるだけで、心が落ち着かなくなってしまう。
「でも寒い」
珠妃はそういいながら甘えるように結人の左腕を抱えてその身を寄せた。
結人はただ頷くと彼女の肩をそっと抱き寄せた。
海にはウインドサーファーがこの寒さにもかかわらずひとりだけ出ていた。凍てつくような風を捉まえて、海の上を滑っていく。
そんな様子を見ながら、結人は微かに漂ってくる珠妃の香りを感じ取っていた。
「こんな日でも海に出る人がいるんだねぇ」
珠妃の言葉にただ頷くと、その横顔を今度は結人が見つめる。
その視線に気づいたのか、珠妃は結人を見返すと、小首を傾げた。
結人はその想いを言葉にできず、ただ微笑むだけで精一杯だった。
結人が珠妃とはじめて会ったのは、去年のクリスマス前のことだった。
──結人の家の神社について聞きたいって人がいるんだけど、会ってもらえないかしら。
知り合いの草加部紗亜羅からそう相談があったのだ。話を聞くと同じ大学の史学科だというので結人は会うことにした。
夕暮れが迫っていた大学のカフェエリアで結人が会ったのが、珠妃だった。
冬の寒さがちょっと弛んだような一日だった。鮮やかなオレンジ色の陽射しがカフェエリアの窓から射しこんでいた。
てっきり男の学生だと思っていた結人は、フード付きの真っ赤なコートを着た娘が紗亜羅と一緒にやってきたのを見て面食らったことを覚えている。
話をしてみると鎌倉末期の得宗、北条高時について調べているのだという。結人の実家の神社が鎌倉末期ごろからの神社だという話を聞きつけて、なにか資料があれば教えてほしいということだった。
窓から射しこむ夕陽に照らされた珠妃の横顔に思わず見惚れてしまった結人。つぶらな瞳にじっと見つめられると、心のどこかが自然に弾んでいくようでもあり、また溶けていくようでもあった。
そんな結人の反応を敏感に感じ取った紗亜羅は話が終わったあと、結人にそっと耳打ちをした。
──クリスマス前に男の子に会いたいってことは、いまフリーよってことだからね。
そういって紗亜羅らしくウインクまで送ってみせたのだった。
それから何度かカフェエリアで会い、実際に結人の実家の綱神社と蔵を案内をした。新年になり気がつくと、毎日のようにカフェエリアはもちろん、学外でも食事をしたり話をするようになっていた。
「そもそも紗亜羅はなんだってあの娘、珠妃と知り合ったの?」
年が明けてカフェエリアで仲睦まじく話をするふたりを見て本城麻美が紗亜羅に尋ねたことがあった。
「なんだったかな、紹介されたのよ。唯士だったかな。わたしときどきね頭痛が酷いときがあって、そのときだったかな。たまたまそこにいたの」
「唯士の知り合いってことか」
麻美はそういって離れた場所で仲良く話をしている結人たちを見ていた。
「あの娘、珠妃がさ、こうやってわたしの額にそっと右手の人差し指と中指を充ててね、ふ~って息を吹きかけたの。そしたらなんと、あ~ら不思議、頭痛が飛んでいったってことがあったのよ。それからかな、あの娘といろいろ話をするようになったのは」
紗亜羅はぼんやりと上を見上げるようにして思い出しながら
話した。
「そんなことがあったんだ。でも学部違うでしょ?」
「学部なんて関係ないじゃん。麻美だってわたしとは学部違うし」
「そうだけど……」
麻美は渋々頷きながら、またふたりの方を見た。
「麻美、はっきりいえばいいのに」
紗亜羅はそういっていたずらっぽい眼で麻美の顔を覗きこんだ。
「なによ」
麻美はちょっと不服そうな顔をして紗亜羅を見た。
「解ってるんだから。妬いてるでしょ」
「なにいってるの」
麻美はちょっとムキになっていい返した。
「ほら図星なんだから。愚図愚図してると獲られちゃうぞ」
紗亜羅はからかうようにいって笑った。
─そんなんじゃない……。そんなんじゃないから……。
麻美はそういいたくて、けれどそれは言葉にはならなかった。
「やっぱり寒い」
珠妃はその身をさらに結人に寄せるようにしていった。
「なにか暖かいもの食べたくなっちゃった」
「暖かいものか。それいいね」
結人が珠妃の眼を見ながら頷いた。
「ねぇ、わたしの家においでよ。美味しいもの作ってあげる」
珠妃はにっこりと微笑んだ。
ふたり仲良く電車に乗り、珠妃の家のある駅へいった。途中のスーパーで買い物をすると、そのまま珠妃の家に向かう。
──まるでままごとみたいだな。
女の娘とふたりで食料を買い物することなんて、まったくなかった結人はどこか照れ臭くもあり、そんなことを思った。
家に着くと珠妃は結人をソファに座らせて、キッチンでひとりクリームシチューを作りはじめた。結人がなにか手伝おうかというたびに、エプロン姿の珠妃は首を横に振った。
「今日はわたしがひとりで作るから」
包丁を手にしたままそういう珠妃の言葉をそのまま受け取ると、結人はキッチンに立つ珠妃の後ろ姿をただ見ることになった。
やがて陽が暮れだした。暗くなりはじめた空に月が昇っていく。満ちた月が街並みの向こうに顔を出していた。その様子をしばらく見ていた結人は、そっとカーテンを閉じた。
振り返ると料理を終えた珠妃がシチューをよそった皿をテーブルに並べるところだった。
独り暮らしの珠妃のダイニングテーブルはちいさかった。ふたり分のシチュー皿とサラダにパンを乗せたバスケットを並べるとほとんどスペースがなくなるほどだった。
向かい合わせにテーブルにつき、珠妃の作ったシチューを口にする。互いの膝が当たりそうで、ちょっと油断すると互いの頭までぶつかりそうだった。
「どう?」
スプーンを口にする結人を見ながら珠妃が訊いた。
「うん、美味しいよ」
結人はそういって頷いた。
「よかった~。口に合うかどうかやっぱり心配だったの」
そういいながら珠妃は顔を寄せるようにして微笑んだ。
その結人を見つめるつぶらな瞳が心をざわつかせる。けれどそれはどこか甘いざわめきだった。
食事を終えて後片付けをはじめる珠妃の横に立ち、結人は気遣っていった。
「なにか手伝うよ」
「ありがとう、でもここって狭いから大丈夫」
皿を洗う手を休めることなく珠妃はいうと、結人にそっとその身を寄せた。
たしかにそのキッチンは狭くて、ふたりが並んで立つだけで精一杯だった。すぐ横にある珠妃の横顔を見つめたまま、結人は頷くと、またソファに戻った。
やがて洗い物を終えるとエプロンを外して、珠妃がその身を預けるようにして結人の隣に腰を下ろした。ソファのスプリングが鳴った。
「ねぇ、テレビでも見る?」
そういいながらテレビのリモコンに珠妃は手を延ばした。
「そろそろ……」
結人は珠妃の横顔につぶやくように口を開いた。
「そろそろ?」
珠妃はそういって小首を傾げた。
「うん、そろそろ帰るよ。遅くなるし」
結人はそういって立ち上がろうとした。
その手を珠妃は握って押しとどめると、じっと結人の眼を見つめた。
「海でいったこと覚えてる?」
珠妃はそういって小首を傾げた。
「海でいったこと?」
結人はなんのことか解らず、珠妃の眼を見つめ返した。
「もう、結人くんったら」
そういうと珠妃は座り直して、結人の顔を改めて見直した。
「お願いがあるの。ちょっとの間でいいから眼を瞑って」
珠妃はそういうと結人の手をそっと握った。
結人はただ黙って頷くとその眼を閉じた。
珠妃はいたずらっぽい笑みを浮かべると、右手の人差し指と中指を結人の額に充てて、ふ~っと息を吹きかけた。
「もういいよ」
「なにをしたの?」
結人はそういって珠妃に握られたままの手に視線を落とした。
「わたしだけのおまじない」
「なに、それ?」
「結人くんが、結人がわたしのことをもっと好きになるようにって」
珠妃はそれだけいうとじっと結人の眼を見つめた。そして結人の手を両手でしっかりと握り直した。
「キミのこと、好きだよ」
結人は珠妃に囁くようにいった。
「ほんとうに?」
珠妃は確かめるように訊いた。
「ああ」
結人は頷いた。
「でも、もっともっと好きになってほしい」
そう囁くと珠妃はじっと結人の眼を見つめた。
結人はまるで吸い込まれるように顔を近づけた。珠妃はそっとその瞳を閉じる。ふたりの唇が重なった。
どれぐらい重ねていただろう。やがてどちらからともなく離れた。
「もっと好きになって……」
珠妃は甘えるように呟いた。
結人は堪らなくなり、珠妃を両手でしっかりと抱くとふたたび唇を重ねた。それはさらに深い口づけだった。
それまで抱き合うようにして眠っていたはずの珠妃がいないことに気づいて結人は眼を醒ました。
ベッドの上に起き上がって部屋の中を見回した。
窓から月明かりが射しこんでいた。閉じていたはずのカーテンが明け放れていて、その窓から煌々と月明かりがベッドルームを照らしている。
ふと人の気配を感じて眼を凝らしてみると、そこに珠妃が立っていた。全裸のまま月の蒼白い光をただ黙って浴びている。その姿は神々しいまでに美しかった。
ベッドから離れると結人もまた全裸のまま黙って珠妃の後ろに立った。
月明かりを静かに浴びる珠妃。
その美しさをそのまま独り占めしたくなり、結人は珠妃を後ろからしっかりと抱きしめた。
「珠妃……」
珠妃は抱かれたまま振り返ると、結人の身体をしっかりと抱き返した。
「結人……」
ふたりは月の明かりを浴びたまま唇を重ねた。深く静かに、そして永遠とも思えるほど長くふたりはしっかりと抱き合い、そして唇を重ね続けた。
つづく
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