ものがたり屋 参 巫 その 2
うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。
気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。
巫 その 2
その息吹はどこから吹いてくるんだろう?
その源を辿ると、どこまで遡れるのだろう?
そのいきつく先では、なにが待っているのだろう?
その系譜は果たしてなにを指し示すのだろう?
それを識るものを、もしかすると聖というのだろうか?
凍てつくような寒さがキャンパスを包んでいる。その中でカフェエリアだけは暖かさに満ちていた。寒さに負けないような陽射しが窓から射しこみ、陽だまりの温もりを産み出している。
結人はひとりそんな温もりとは関係なく、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
テーブルに乗っている珈琲で満たされたカップからは微かに湯気が立ち上っている。そのカップに手を延ばしてはみたものの、両手でカップを包むようにして、結人はただ溜息をついた。
「ねぇ、ピントが合ってないんじゃない?」
気づくとテーブルを挟んで麻美が座っていた。
麻美は手にしたカップに口をつけて、結人の顔を覗きこむように見た。
結人は背凭れにもたれ掛かるように座り直すと、そんな麻美の顔をぼんやりと見た。
「心、ここにあらずなのかな?」
麻美はそういって小首を傾げた。
結人はそれには答えず、ただ麻美の顔をぼんやりと見やるだけだった。
「なんだって結人に紹介したの?」
すこし離れたテーブルにいた南村この実がすぐ隣の席に座っている紗亜羅に訊いた。
「別に意味なんてないよ。ただ頼まれただけだから」
そう答えると紗亜羅はテーブルに乗ったスープカップを手に取り、スプーンで混ぜはじめた。
「頼まれたって?」
「鎌倉時代の研究しているからって。だれか知らないかしらって訊かれただけ」
紗亜羅はカップに口をつけた。
「それで結人を?」
この実はそういって紗亜羅の眼を見つめた。
「だって彼の実家の神社は鎌倉の終わりぐらいからあるって話じゃん。だから」
紗亜羅はすまし顔で答えた。
「ねぇ紗亜羅、どこか楽しんでるでしょ?」
この実はそういって伺うようにして紗亜羅を改めて見つめた。
「だって~。もう、麻美ったらじれったいんだもん」
「まったく」
この実はそういいながら、向かい合って座っている結人と麻美を見た。
「拗れなきゃいいんだけど……」
気づくと麻美はなすすべなしといった素振りで席を立っていた。あたりを見回して、この実たちを見つけると重い足取りでやってきた。
この実の隣の椅子を引くと、力なく座り込んだ。
ただ黙って結人の方を見ながら、大きく溜息をひとつついた。
「どう?」
この実が麻美に気遣っていった。
「どうって?」
麻美は溜息交じりに訊き返した。
「もう、だから結人よ。どうしちゃったの?」
紗亜羅が椅子ごと麻美に近づくといった。
「わたしにも、よくわかんない……」
麻美はただそういうと俯いてしまった。
「ねぇ、珠妃ってそんなに綺麗な娘なの?」
この実は囁くように紗亜羅に訊いた。
「この実って、会ったことなかったっけ? 綺麗な娘だけど、なんだろう、それだけじゃないのよ。ほら、なんとなく男を惹きつけるってあるじゃない」
「フェロモン?」
この実はそっと結人の方を見ながら訊いた。
「そう、それっ。なんだか周りが放っておけないというか、ついつい構いたくなるというか」
「それにやられたか~」
この実が呟くようにいうと、まるで咎めるように麻美がこの実の顔を見た。
「ごめん」
この実はそういって首を竦めた。
──おかけになった電話は電波の届かないないところにあるか、電源が入っていないためにかかりません……。
何度、スマホで電話をしてもこの繰り返しだった。それがもう一週間近く続いている。
凍てつくような風が吹きつける逗子海岸で、独り海を見ながら電話をした結人。しかし、もう聞き飽きたメッセージが聞こえてくるとすぐにスマホをポケットに突っ込んだ。
低く垂れ込めた雲が陽射しを遮っている。そのために吹いてくる風の冷たさがまるで何倍にもなってしまうようだった。海もその碧色を失い、ただ燻んだ灰色に見える。
陽射しを失った海ほど侘しいものはない。
結人はいま、珠妃に逢えずにいる日々を思わせるこの景色を怨めしく感じながら、しかし波打ち際をただ歩いた。
一歩歩くたびに珠妃の笑顔が頭の駆け巡る。つぶらな瞳。ふっくらとした唇。頬にできる笑窪。その顔を覆ったショートカットの髪。そのひとつひとつが輝いていたはずなのに、その輝きの兆しすら掴むことができない。
あの月の光を浴びた、まるで女神のような珠妃の姿。想い描くたびに心がなぜか締め付けられていく。
そして決して繋がることのない電話。
──なぜだ?
ぐるぐるといろいろな想いが交錯して、乱れて、絡み合い、そして結人を惑わせていく。
強めのオンショアが吹いてきた。凍てつくような風。心の奥底まで凍りつきそうな冷たさ。
月の光を浴びてただ佇んでいた珠妃。あの輝きはどこへいってしまったんだろう?
どう考えても答えは出ない。
もう決まりきったメッセージが流れるに決まっているのに、ついスマホに手が延びてしまう。
風が吹き荒ぶ燻んだ海を眺めながら、結人はスマホをポケットから取り出した。電話アプリをタップして、珠妃にかける。
──おかけになった電話番号は、現在使われておりません……。
「!」
いつものメッセージじゃなかった。
──電話が解約されている?
ついさっきまでは電波が届かないか電源が入っていない、だったのに。
まるで意識が逆流するようだった。
──珠妃になにかあったのか?
どこか遠くで非常ベルが鳴り続けているようなそんな焦燥感を覚えて、結人は踵を返すと逗子海岸を離れた。
結人が最初に向かったのは珠妃の家だった。
あの日、ふたりで夕食を摂り、それから互いの想いを確かめたはずの彼女の家。
しかしマンションのエントランスに入ったところで、なにかおかしいことに気がついた。エントランス脇のメールボックスにあったはずの名札が消えている。あの日、彼女は確かに「天羽」の名札がついていたボックスを開けていた。なのにメールボックスのどこにも「天羽」の名札はなかった。
エレベーターに向かう途中の管理室には、前と同じように眼鏡をかけた初老の男が座っていた。通ろうとすると、眼鏡をずり下げるようにして、ガラスの小窓越しにじろりと結人を見た。まるでなにか疑っているような視線を結人に向け続けた。
エレベーターで三階に向かう。廊下を歩き、珠妃の部屋の前に立った。
やはりここも同じだった。ドアの横にあるはずの名札が消えている。
ドアチャイムを何度か押した。
しかし、返事はまったくなかった……。
しばらくドアの前に立ち尽くしていた結人だったが、そのままエレベーターで階下に戻った。
そのまま管理室の前までいくと、閉じられていたガラスの小窓を軽くノックした。
「なにか?」
小窓が開くと、初老の男がまるで胡散臭いものでも見るよな眼つきで結人を睨めつけた。
「三階の天羽さんに用事があるんです」
「天羽?」
男はかけていた眼鏡をそっと外すと改めて結人の眼をじっと見た。
「ああ、あの娘ね。引っ越したよ」
男は素っ気なくいった。
「引っ越した? いつ?」
結人は勢い込んで訊いた。
「あんた、なんだね」
「連絡がつかずに心配しているんです」
「心配ねぇ」
男はそういうと、改めて眼鏡をかけなおして、また結人を値踏みするように見た。
「いつ、いつ引っ越したんです?」
「さあて、いつだったかな。一週間ほど前かな。突然、母親だと思うんだが、女性が見えてね。それで引っ越しますからといって、業者がどやどやとやってきて、それっきりだよ」
男はそういって頷いた。
「そんな……」
結人が途方に暮れていると、男は興味深げに口を開いた。
「もしかして、あのお嬢さんとなにかあったのかね?」
なにをどう考えたらいいのか。結人にはまったく理解不能だった。研究している量子力学の分野では理解不能は歓迎すべきことでもあったが、しかし現実の世界は別だ。
結人はそのまま大学へと向かった。
正門の真っ正面の建物に学生課があった。冬晴れの空から零れてくる陽射しがあたり、ガラス張りの建物が眩しい。結人はガラス戸を押して建物に入るとそのまま学生課に向かった。
部屋に入ると窓口から事務をしている女性に声をかけた。
「学生の連絡先を調べたいんです」
女性はその手を止めて、結人をじっと見た。
「あなたは?」
「ぼくは物理・数理学科の久能です。じつは実験の手伝いをしてくれるはずの学生と連絡が取れなくて」
結人はそういって事務員の顔をじっと見た。
デスクにあったパソコンでなにか操作をしてから、その女性は改めて結人の顔を見た。
「久能結人くんね。それはいいんだけど、個人情報の扱いになるので、勝手に教えることができないの」
事務員の女性はそういって微笑んだ。
「じゃ、所属の確認でもいいです」
「仕方ないわね」
結人が珠妃の姓名を伝えると、改めてパソコンに向かって操作をした。
「天羽か……」
何度かキーボードをタイプして、マウスをクリックする。
「久能君、うちの大学にはいないわ。天羽珠妃よね、そんな娘はいないわよ」
そういうと、じっと結人の眼を見つめた。
「そんな……。確か、史学科のはずなのに……」
「何度調べても同じよ。おかしな話ね」
結人の頭の中で珠妃の笑顔がぐるぐると駆け巡る。しかし、その笑顔は果たしてほんとうに笑顔だったのか。
いまの結人には、なにがなんだかまったく解らなくなっていた。
──いったい、どういうことなんだ?
建物の窓から見えるキャンパスには冬の陽射しがあたっている。ついさっきまで窓から射しこむその陽射しが眩しく見えていた。なのに、まるで突然、空を雲が覆い尽くしてしまったようだった。
いま自分自身が現実の世界にいるのかどうかも解らなくなるほどの衝撃を、結人はその全身で受けていた。
はじめから つづく
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