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ものがたり屋 参 貌 その 1

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

貌 その 1

 そこに映るものは、ただ見えるもの。
 それはその姿ではなく、ただの像。
 その姿を映すものは、かりそめの景色。
 それを観ることができるのは心の眼だけ。

 鎌倉へと向かう国道百三十四号線。逗子湾に沿ってゆったりと左にカーブを描き、やがてトンネルへと続く。その手前の海に突き出た場所に建物がある。
『オフショア』
 そうペイントされたサーフボードが看板代わりになっている一軒家のカフェだ。バーカウンターが設えられ、崖に突き出した部分はウッドデッキになっている。
 そのすぐ左側は浪子、右側は大崎のサーフポイントになっている。さらに視線を上げると、左側には逗子湾を望むことができる。正面は森戸から一色海岸、さらには長者ヶ崎、秋谷海岸が続く。
 そのウッドデッキの一番海寄りの席で久能結人は寛いでいた。
 テーブルには食べ終わったランチの皿が乗っている。その横には飲みかけのビールのボトル。
 向かいの席には本城麻美が同じようにゆったりとしていた。
 皿に載ったバーガーを食べ終えると、ペーパーナプキンで口を拭ってから、飲みかけのビールのボトルに手を伸ばした。
「ねぇ、なんだかこんなにのんびりしたの久しぶりかも」
 九月に入ったばかりだからか、その陽射しの強さはまだ夏のまま。雲ひとつない空はどこまでも蒼く輝き、陽射しを受ける海は碧く煌めいていた。
「このまま昼寝したくなっちゃうね」
「いいんじゃない。いびきかいても聞こえないふりしてあげるから」
 麻美はそういって笑った。
 ふたりともまだ大学は夏休み期間だった。あと一月近く残っている。
 海を渡ってきた潮風がゆるやかに吹き抜ける。麻美の長い髪がその風に揺れた。
「わたしも昼寝しちゃおうかな」
「ぼくも聞こえないふりしてあげるよ」
 結人もまたそういって笑った。
「あの、久能さんですか?」
 ふたりのテーブルの横に女性が立っていた。歳の頃は三十代だろうか。ピンク地に大柄な模様の入ったワンピースを纏っていた。短めに揃えられた髪は淡いブラウンに染められている。バッグを持つその手の爪にはオレンジを基調にしたネイルアートが施されていた。
「はい、ぼくですが」
 結人は訝しげに答えた。
「突然ですみません。じつは神社で宮司の方がこのお店にいらっしゃると教えてくれたもので」
 そういうとその女性は結人の眼をしっかりと見つめた。
「宮司って、ああそうか、親父か。それで、ぼくになにか?」
 結人はそういうと女性に向き直った。
「いま、お話しさせてもらっても構いませんか?」
 そういって女性は結人と麻美の顔を代わる代わる見た。
「どうぞ」
 結人が頷くと、彼女は空いていた椅子に腰を降ろした。
「ありがとうございます」
 そういってあたりを伺うように見回すと、声を潜めるようにして話しはじめた。
「こんな話をして、いいのかどうか。いろいろ悩んだんです。それでどうしていいのか判らず、気がついたら神社に足が向いていました。そこでも、いったいだれになにを話したらいいのか思い悩んでいたら、宮司さんが声をかけてくれたんです」
「あの、お邪魔なら、わたし席を外しますけど」
 麻美が気をつかっていった。
「いいえ、構いません。むしろ、いろいろな方に聞いてもらった方がいいかもしれないので」
 女性は麻美にそういって、続けた。
「あ、失礼しました。わたし、渡会奈々美といいます。今年、小学生になったばかりの息子がいます。じつは、その息子のことなんです」
「息子さんのこと、ですか?」
 麻美が不思議そうな顔をしていった。
「ええ。前から気にはなっていたんです。ときどきだれもいない方をじっと見つめていたり、ふと気づくとだれかと話をしているような素振りを見せたり……」
 そういうと渡会はふたりの顔を見た。
「子どものことなのでさして意味はないだろうと思っていたんですが、じつは夏休みが終わって学校がはじまる日になって、いきなり学校にいきたくないといいだしたんです。理由を聞いて驚いてしまって、それで……」
「どうしたんです?」
 結人が身を乗り出すようにして訊いた。
「どうやら友だちから嫌われているようなんです」
「嫌われてるって、どう?」
 麻美が訪ねた。
「息子が、翔汰というんですが、近くにいくと、露骨に嫌な顔をするそうです。それだけならまだしも、一番仲のよかった子から、そばに寄るなってはっきりといわれたらしくて、それで学校にいきたくないと……」
 渡会はそこまでいうと俯いた。
「いったいなにが?」
 結人はさらに訊いた。
「そうですね、本題はここからです。なぜそうなったのかを翔汰に訊いたら、友だちのことがいろいろ解ってしまうんだそうです。昨日食べた食事だったり、おねしょしたとか、お父さんやお母さんが言い争ったり、だれそれが怪我をしたとか、病気になったとか、そういった諸々のことがなんでも解ってしまうらしいんです」
 渡会はそういうと伺うようにそっと結人の顔を見た。
「翔汰君でしたっけ。彼はどうしてそんなことが解るって話しましたか?」
 結人の問いに、渡会は恐る恐る頷いた。
「それが、教えてくれる人がいると。姿は見えないけれど、翔汰にはその存在が解るらしいんです。その人たちが友だちの様子だったり、家庭の事情なんかを話してくれるといってました。まさかとは思ったんですが、そのとき、わたしの肩の上あたりをじっと見つめて……」
 渡会はそこで顔を上げてあたりを伺ってからまた口を開いた。
「それから、わたしにいったんです。おかあさん、昨日の夜、おとうさんと喧嘩したねって。確かに夜遅くに口げんかしました。でも、その時間、翔汰はぐっすりと眠っていたはずだし、まさか起きていて聞いたはずもなくて、それで……」
 渡会はまた俯いた。
「こんな話、いったいだれに相談していいのか判らず、たまたま眼についた神社にいって、そこでお参りをして、それでもすぐにその場から離れることもできず、ベンチに腰を降ろして悩んでいたら、見かねたのか宮司さんが事情を聞いてくれて、それなら息子に相談してみるといいとおっしゃったんです」
「なぜぼくなんだろう?」
 結人はそういって首を傾げた。
「それはなにも……。でも、こういうのを藁をも縋るっていうんですよね。お願いなんですけど、息子と、翔汰と一度、話をしてやってくれませんか?」
 そういうと渡会は頭を下げた。

 渡会宅は県道を鎌倉に向かい、小坪入口の交差点をすぎてすぐ先の道を左に折れたところにあった。
 まだ建ってからさほど年数は経っていない新しい一軒家だった。小綺麗なすっきりとした家で、門の横には車庫があり、その奥にはちいさいながらもちょっとした庭があった。綺麗に芝生が刈揃えられている。
「三年前に越してきたんです」
 渡会はそういいながら玄関のドアを開けた。左側には二階へあがる階段があり、奥にはリビングダイニング、その左側はキッチンになっている。
 結人と麻美はリビングに通された。
 窓側に置かれたソファに腰を降ろす。その後ろ側にはさっき門から見えた庭があった。まだ高い位置にある陽射しが芝生を強く照らしている。
 しぱらく待っていると階段を降りてくる足音が聞こえ、渡会が息子の翔汰を伴ってリビングへやって来た。
「息子の翔汰です。翔汰、ご挨拶なさい」
「こんにちは……」
 渡会の影に隠れるようにして翔汰はふたりにいった。
 Tシャツにデニムの短パン。髪は短めに綺麗に刈り揃えられている。
「こんにちは」
「やぁ、翔汰君だね」
 麻美と結人も挨拶を返した。
「冷たいお茶でいいかしら」
 渡会はソファに座っているふたりにいうと、翔汰をふたりと向かい合うように床に直に座らせた。
「お構いなく」
 麻美は渡会に声をかけた。
 床にしゃがむようにして座った翔汰は、麻美と結人のふたりを交互にじっと見つめて、ただ黙っていた。
「どうぞ」
 やがて渡会がお盆を手にふたりのところへ戻ってきた。ローテーブルに麦茶の入ったグラスを置くと、お盆を抱えるようにして翔汰の隣に腰を降ろした。
「ごめんなさい、ちいさな家で。ソファもふたり分しか座るところがなくて」
 渡会はそういって笑った。
「でもとてもすっきりとした綺麗なお家ですね」
 麻美は軽く頷いた。
 結人はそのとなりで黙って翔汰を見ている。
 翔汰はふたりの顔に見飽きたのか、今度は背後の窓のあたりをじっと見つめだした。
 その視線を追って、結人は振り返った。けれど、そこにはただ窓があるだけだった。
 ──なにを見ている?
 翔汰の視線があまりにも強いものだったので、結人は思わず首を傾げた。
「翔汰、どうしたの?」
 じっと窓のあたりを見つめる翔汰のことが気になったのか、渡会が翔汰の肩を揺するようにして訊いた。
 それには答えず翔汰はしばらくじっと睨むように窓の方を見つめていたが、やがてほっと肩の力を抜くようにしてちいさく溜息をついた。
「翔汰」
 渡会はまた翔汰の身体を軽く揺さぶった。
「なんでもない……」
 やっと口を開いたかと思うと、そのまま俯いてしまった。
「翔汰、ママにいってた話を、このふたりにもしてほしいの」
「どうして?」
「どうしてって、だって……」
 渡会はどう話していいのか判らず、思わず口籠もってしまった。
「ねぇ翔汰君、キミはいったいだれと話をしてるの?」
「どういうこと?」
 翔汰は結人の顔を上目遣いで見るとぼそっといった。
「だって、いろいろな人と話をするんでしょ。たとえば友だちのことを聞いたりとか」
 結人はやさしく語りかけるようにして訊いた。
「知らないよ、そんなこと」
「知らないって?」
 今度は、麻美が訊いた。
 翔汰はそれには答えず、麻美の顔を見ると、すぐに視線をさらにその奥へと移した。
「おねえちゃん、病気じゃなかったの?」
 翔汰はそういって首を傾げた。
「え?」
 麻美はそこで絶句してしまった。
「頭はもう痛くないの?」
 翔汰はそういうとじっと麻美の眼を見つめた。
 いたずらっぽくそっと笑う翔汰を、しかし結人は見逃さなかった。
つづく

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夕焼けフォトグラファー / 物書き / デジタルコンテンツデザイナーの癌サバイバー、竹井義彦です。 逗子の海の写真や、オリジナルの小説をメインに公開しています。よろしくお願いします。 逗子の「いま」を伝える https://www.op-studio.com/
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