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ものがたり屋 参 壁 その 1

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

壁 その 1

 果てしなく刻まれてきた時。
 積み重ねられてきた思い。
 ときには哀しみが、ときには苦しみが、
 ありとあらゆる感情が塗り込められてきた。
 そして、閉じ込められているのものは、
 いつしか呪いとなる。

 満開だった桜が散り、やがて緑が眩しい日々がやって来ていた。
 陽射しがすこしずつ力強くなっている。
 入ったばかりの新入生もどうやら慣れはじめたのか、それまでどこか堅苦しく感じられたキャンパスも賑やかになっていた。
 麻美はそんな学内の様子が一望できるカフェエリアにいた。窓からは射しこむ陽射しはまるで初夏を思わせるものだった。
「麻美、探したんだから」
 そういって南村この実が歩み寄ってきた。何冊かテキストを抱え、トートバッグを肩にかけている。
 長い髪はきれいに櫛でとかれてきちんと束ねられていた。薄目のリップがさわやかな笑顔に似合っていた。
「なに?」
 麻美はラテの入ったカップから手を離すと、髪を掻きあげるようにして耳に掛けて、首を傾げた。
「ほら、前からいってたでしょ、シェアハウス」
「え? そんな話したっけ」
「いやだ、もう」
 この実はそういいながら椅子を引くと麻美と向かい合うように腰を下ろした。
「もうね、これってやつ見つけたの。ね、麻美も一緒に住もうよ、シェアハウス」
「なんでわたし?」
 麻美はすこし驚いたように首を傾げた。
「この前いってたじゃん。もう親となんか住んでられないって」
 この実は軽く睨むようにしていった。
「いや駄目だって。だいたい三食作ること考えたら、わたしきっと発狂する」
「まぁ、それはいえてるかもね」
 麻美とこの実は顔を見合わせるとどちらからともなく笑った。
「でも、マジなの、シェアハウス。一緒に住んだら食事の心配なんていらないって」
 この実は真剣な面持ちで話を続けた。
「わたしはパスだって。ねぇ、ほかには候補いないの?」
「ひとりはもう立候補がいるんだ」
 この実はそういうと大きく頷いた。
「できたら、もうひとり欲しいんだよね。3LDKなんだ」
「へぇ。どんな家なの?」
 麻美は訊くと、この実は身を乗り出すようにして説明をはじめた。
「ちょっと古い家なんだけど、でも中はすっごい綺麗なの。なんていうのかな、ちゃんと手入れがされていて、トイレとかバスルームは設備が最新になってるんだよ。だからちょっと味のある建物だけど、住み心地は抜群」
「抜群?」
「うん、そのはず」
 この実がそういうとどちらからともなく笑った。
「そうだ、一度遊びにおいでよ。今週末には引っ越しするから来週にでも」
「そうねぇ、引越祝いでもやろうか?」
 麻美の言葉にこの実は大きく頷いた。
「それいいねぇ。引越祝い。やろうやろう」

「ねぇ、まだ」
 前髪を額に垂らして綺麗に切りそろえたおかっぱ頭の端賀谷玲奈が口を尖らせるようにしていった。両手に買い物袋を重そうに持っていた。
「もうちょっとだよ、玲奈」
 麻美も負けずに両手に買い物袋を持っていた。
 バス通りを逗子消防署の方へしばらく歩き、住宅街を右に曲がった。細い道が緑に包まれた山へと延びている。公園といってもいいほどのスペースがあり、その横にその家は建っていた。
「ほら、あそこ」
 両手が荷物で塞がれていた麻美が顎で指した。
「ねぇ……」
 その家を見て玲奈が開きかけた口をすぐに閉じた。
 玲奈がなにをいいたかったのか、麻美にも解ったような気がした。
 山の上で輝いている陽射しが緑を眩しく照らしていた。もちろんその家にも陽射しが当たっている。
 しかし麻美の眼には、その家がなぜかくすんで見えた。
 ──ちょっと古い家だけど手入れされているんだよ。
 この実の言葉が麻美の頭に甦ってきた。
 たしかにペンキは綺麗に塗り直されているようだった。遠くから見えたときには白く輝く家だったのに、近くで見てみるとなぜかくすんで見えた。
「ちゃんと手入れされた家だね」
 麻美は玄関の前に立つと、振り返って玲奈の顔を見ていった。
「手入れされた……、うん、そうだね」
 玲奈はただ頷いた。
「いらっしゃい」
 チャイムを鳴らすと、すぐにこの実がドアを開けた。
「ねぇ、重い」
 玄関に入ると玲奈は持っていた買い物袋を玄関から続く廊下に置いた。
「はいはい」
 この実は笑いながらその買い物袋を持つと、リビングへと歩いていった。
「なんだか雰囲気のある家ね」
 この実に続いてリビングへと入った麻美があちこちを見ながら呟くようにいった。
「おっそーい」
 リビングのソファで寛いでいた草加部紗亜羅がグラス片手に口を開いた。
 どうやらすっかりできあがっているらしい。真っ直ぐ伸びた長い髪をしきりにその手で弄んでいた。
「紗亜羅、来てたんだ」
 玲奈が嬉しそうにいうと、すぐ隣に腰を下ろした。
「ねぇ、なに飲んでるの?」
 玲奈が紗亜羅のグラスを覗きこむようにして訊いた。
「シャンパン、紗亜羅が持ってきてくれたの。でもね、もう二本目」
 玲奈が持ってきた買い物袋の中味をダイニングテーブルに広げながらこの実がいった。
「ねぇ、フルーツある?」
 紗亜羅が訊いた。
 麻美と玲奈が持ってきた買い物袋の中を確かめるようにして、この実がいった。
「さくらんぼがある」
「ちょっと早いかなと思ったけど、美味しそうだったから。そうだ、パックのお鮨も買ってきたから」 
 そういいながら麻美も紗亜羅と玲奈とリビングテーブルを挟むようにソファに腰を下ろした。
 テーブルの上にはシャンパンのボトルとそれから簡単なつまみが並んでいた。
「もう落ち着いたの?」
 振り返るとこの実を見ながら麻美がいった。
「まだね、部屋は段ボールだらけ。まぁ、とりあえず着るものと化粧ができればいいからさ」
 この実が笑いながらいった。
 背後の窓から外を見ていた玲奈が、麻美たちの方を見ながらいった。
「ねぇ、Wi─Fiあるの?」
 そういいながらバッグからスマホを取り出すと画面を操作した。
「うん、電波あるはずだよ。バスワードのメモ、テーブルの上にあるから。さっき紗亜羅に教えたし」
 玲奈はテーブルの上にあったメモを見ながらスマホに入力をはじめた。
「ねぇ、なに飲む?」
「同じでいいよ」
 この実に麻美が答えた。
「じゃ、とりあえずワイングラスね」
 そういってこの実はグラスを手に麻美の隣に座った。
 グラスに残っていたシャンパンを注ぐと四人はそれぞれのグラスを持ちあげて軽く触れさせた。
「引っ越しおめでとう」
 そういいながら思い思いにグラスに口をつける。
「美味しい」
 麻美が口を開くと、紗亜羅が自慢気な顔をしてグラスを持ち上げた。
「でしょ、ちょっと奮発しちゃった」
「そうか、紗亜羅のプレゼントか」
 麻美はそういうと頷いた。
「ねぇ、この実の部屋は?」
 玲奈がスマホの画面と睨めっこをしながら訊いた。
「二階よ。二階に三室あって、それぞれの部屋にしてる。といっても、まだひと部屋空いてるけどね。ねぇ、玲奈、一緒に住まない?」
「わたしは、引っ越したばっかりだもの。無理」
「そうか~」
 この実が残念そうにいった。
「まだ見つからないんだ、三人目」
 麻美が訊くと、この実は溜息交じり口を開いた。
「そうなの。なんだかみんなに断られちゃって……」
「まぁ、いいじゃない。とりあえずは引っ越すことができたんだから。念願だったでしょ、シェアハウス」
 麻美がいうと、この実は嬉しそうに頷いた。
「そうだ、引っ越し屋の話してあげたら」
 ソファに埋まるようにして座っている紗亜羅がいった。
「なにかあったの?」
 麻美の問いに、この実はすこしだけ眉をひそめると口を開いた。
「それがさ、引っ越し屋さん頼んだわけ。で、荷物っていっても大したものないじゃない。せいぜいが服が詰まった箱とあとは本ぐらいでしょ。だいたい台所のものってそんなになかったしね」
「家具なんかは?」
 麻美が途中で口を挟んだ。
「うん、めずらしいことに冷蔵庫とか洗濯機ははじめからあって、家具っていってもせいぜいがベッドぐらいだから」
 この実の説明に麻美は頷いた。
「ベッドが終わって、あとは服とかの段ボールってところでさ、引っ越し屋さんが盛大に段ボールの中味をぶちまけてくれたわけよ」
 そこまでいうと、この実はグラスを持ち上げてひと口飲んだ。
「ぶちまけたって、どこで」
「それがね、笑っちゃうのよ。玄関先で、ご丁寧なことに下着が詰まった箱の中味を、引っ越し屋の別の人の顔目がけて全部ぶちまけたんだって」
 紗亜羅が可笑しそうに笑いながらいった。
「もう笑いごとじゃないから。だってショーツとかブラとか、女性の下着を男の頭にぶちまけるってどうよ」
 この実はちょっと気色ばんだようにいった。
「笑えるでしょ、男の人の頭にこの実のブラがぶら下がってるなんて」
 紗亜羅はお腹を抱えながらいった。
「もう、最悪。しかもあのブラ高かったんだから。それをどこのだれかも判らない男がその汗臭い手で触っちゃって」
「だから引っ越し屋さんだって」
 紗亜羅が茶々を入れた。
「ねぇ、電波入らない」
 しきりにスマホを弄っていた玲奈が割り込んで口を開いた。
「え~? 玲奈、ちゃんとパスワード入れた?」
 この実はそういうと、玲奈の横へと歩み寄った。
「ちょっとトイレいく」
 紗亜羅がそういって立ち上がると、この実は玲奈のとなり空いた場所に座った。
「ねぇ、玲奈。パスワードの入力、ちゃんとできてないじゃん」
 この実は、玲奈のスマホを取り上げるようにして操作をはじめた。
 ばたばたばたばた。
 ふいに二階から音が聞こえてきて麻美は思わず、上を見上げた。
「聞こえた?」
「なに?」
 しきりに玲奈のスマホを操作していたこの実が画面を見つめたまま訊き返した。
「さっき二階でばたばたって、音がした」
 麻美がいうと、この実がその顔を上げていった。
「家鳴りじゃないの。ほら古めの家だしさ」
「ならいいんだけど、だれか二階にいるのかと思っちゃった」
「いやだな、今日は二階にはだれもいないよ」
 この実はそういって笑うと、ほらといってスマホを玲奈に渡すと、そのまま麻美の隣に座り直した。
「麻美んちでもあるでしょ、家鳴り」
「そうね、しょっちゅうってわけじゃないけど」
「家鳴りって?」
 渡されたスマホを弄りながら、玲奈が訊いた。
「そうか、玲奈んちはマンションだから、あんまりそういうことはないか。木造の家だとね、木が乾燥したりして、ときどき音がするんだよ」
 麻美がやさしく説明した。
「ねぇ、同居人、帰ってきてるの?」
 トイレから戻ってきた紗亜羅がリビングの入り口のところで廊下を振り返りながら訊いてきた。
「え? 佐々森さん、まだ学校だと思うけど。どうして?」
「だよね。でも、さっきトイレの前に女の人がいた」
 紗亜羅はそういって不思議そうに首を傾げると、玲奈の隣に腰を下ろした。
「もしかして、もう酔っぱらっちゃったの?」
 玲奈がからかうようにいった。
「そんなんじゃないって。トイレの前に白い服着た女の人がいて、わたしの顔を見るとそのまますうっと二階へいったような気がしたんだけど……」
「気がしたって」
 麻美が首を傾げた。
「てっきり同居人かと思ってたけど、まだ帰ってきてないなら、気のせいかもって……」
 紗亜羅は口籠もるように答えた。
「ねぇ、やっぱり酔ってるんだよ、紗亜羅。結構、飲んでるし」
 この実は笑いながらいうと、紗亜羅のグラスにシャンパンの残りを注いだ。
「まぁ、いいか。シャンパン美味しいし」
 ばたばたばたばた。
 ──また、聞こえた……。
 麻美はほかの三人の顔を見たけど、三人には聞こえなかったようだった。
 ──家鳴りって、ちょっと違うような……。
 麻美になにか確信があったわけではなかった。でもなぜだろう心のざわつきを感じたことも確かだった。
 結人を連れてくるんだった。部屋を改めて見回して、麻美はそう思った。
「きゃっ!」
 玲奈はちいさく叫ぶとてにしていたスマホを放り出した。
「どうしたの?」
 隣に座っていた紗亜羅が玲奈の肩を抱くようにして訊いた。
「スマホが……」
 そういって玲奈は口を噤んだ。
「なに?」
 そういって麻美は玲奈のスマホを拾い上げると、電源を入れてみた。
「さっき写真撮ろうとしたら、なんか変なものが映ってて……。それで思わず……」
「変なものってなによ」
 この実が問い詰めるようにしていった。
「髪の長い女の人のまっしろな顔が……」
 玲奈の言葉を聞いて、麻美はカメラアプリ起動してみた。玲奈と紗亜羅にカメラを向けた。そこにいるふたりがそのまま映っていた。
「紗亜羅も玲奈も、なんだかわたしにいいたいことあるの?」
 この実が不満げに口を開いた。
「そんなことないって」
 すぐさま玲奈は首を横に振った。
「だから気のせい。ごめんね」
 紗亜羅もそういって謝った。
「ねぇ、なんともないって。ふたりがそのまま映ってるし」
 そういって麻美はシャッターボタンを押した。
 カシャリ。
 小さな音を立てて、写真が撮られた。
 ふたりはきちんと映っていた。しかし、その背後がなぜかぼんやりとしていて、別のなにかが映っていることを、このとき麻美は気がつかなかった……。

 泊まっていくというふたりとは別に麻美は夜になる前に帰ることにした。
 玄関で帰り支度をしているとこの実が口を開いた。
「麻美、今日はありがとう」
「うん、あのふたり置いていっちゃうけど、大丈夫だよね」
「後片付けが大変そうだけど、賑やかでいいわ」
 この実はそういって笑った。
「それじゃ、学校でね」
 麻美がそういってドアに手をかけようとしたとき、この実が心細そうな面持ちで改めて口を開いた。
「ねぇ、なにかあったら、相談してもいいかな」
「なに? わたしでよければ、いつでもいいわよ」
 麻美は振り返ると、そういって笑った。
 そのとき背後でドアが静かに開いた。
「あ、お帰りなさい」
 この実が声をかけた。
 淡いブルーのワンピースを纏った佐々森優里菜だった。長めの髪をそのまま垂らしている。
「ただいま」
 口籠もるように呟くと、やや俯き加減のまま、麻美の脇を通り抜けた。玄関から上がると、まるで忍び足のように静かに階段を登っていく。
「佐々森さん?」
 麻美が尋ねるとこの実は頷いた。
「なんだかひどく人見知りするみたいなんだよね。だから、わたしもあまりちゃんと話したことないんだ」
 そういってこの実はどこか頼りなげな笑顔を見せた。
つづく

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