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ものがたり屋 参 坐 その 1

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

坐 その 1

 すこしずつ溢れている。観てもわからないほど僅かに。
 流れはそこを好み、零れはじめる。
 そしてなにかを吸い寄せるように、集まっていく。
 やがてそれは光すらも捉える場となっていく。

 気がついたらその陽射しに暑さではなく、温もりを感じるようになりはじめていた。キャンパスに立つ樹々はまだ緑色の葉を湛えているけど、やがて葉は色を変え、そして落ちていくのだろう。
 まるで水彩絵の具を零して一面に色を塗ったような青空がなぜだかとても高く、そして遠くに感じる。片隅に浮かぶ雲でさえ、そのまま天空へと昇ってしまうのではないかと思えるほどだった。
 午後最初の講義を終えたばかりの富岡直貴は、すっきりと広がる青空をしばらくの間まるで見蕩れるように見上げていた。
 ボタンダウンのブルー地のコットンシャツに、裾を絞ったベージュの綿パン、紺色のリュックを背負っている。すっきりとしてはいたけど、目立ったところがなく、そのままキャンパスの風景に溶け込んでしまいそうだった。
 やがて短くカットした髪を軽く撫ぜてちいさく頷くと、なんとなくカフェエリアの方へと歩き出した。カフェエリア一面のガラス窓が秋の青空と柔らかな陽射しを映し出していて、眩しかった。
 カフェリアは雑然とした喧噪と、ガラス窓から射しこむ陽射しに溢れていた。
 富岡は注文したカフェラテのカップを手に、だれか知った顔がないかカフェエリアの中をぐるりと見回した。奥まった窓側の席に同じ学科の女性がいたのを見つけた。端賀谷玲奈だった。おかっぱ頭の前髪を額のところで綺麗に刈り揃えていた。大人びた顔つきのくせに、どこか幼さが残っている。とくに親しいわけではなかったけど、なにかあればごくあたり前に会話を交わす仲だった。
「ここ、いい?」
 富岡は声をかけるなりいきなり向かい合った椅子に腰を下ろした。
「あ、ダメ!」
 玲奈が驚いたような声を上げた。
 そのときだった。綿パンのお尻のあたりに冷たいものを感じて思わず腰を浮かしかけた。その拍子に椅子に躓いて後ろに転んでしまった。おまけに手にしていたカフェラテの中味も盛大にぶちまけていた。
「だから駄目っていったのに」
 玲奈はちょっと困ったような顔で富岡を見た。
「これって……」
 富岡は零したカフェラテで濡れた床に尻餅をついたまま、玲奈を呆然と見上げた。
「この実が飲みもの零しちゃったのよ、その椅子に。だから駄目って。なのにいきなり座っちゃうんだから」
「知らなかったよ」
「ねぇ、どうしちゃったの?」
 ダスタークロスを手にした南野この実が不思議そうに訊いた。ていねいに櫛でとかれた長い髪をきちんと束ねている。ダークブラウンのシャツにジーンズ。物腰が柔らかくいつも落ち着いている。
「富岡くんが、この実が飲みもの零した椅子に座っちゃって、それで」
「慌てて転んで、手にしていたカフェラテもぶちまけちゃったってわけだ」
 富岡は大きく溜息をついた。
「でも、これじゃダスターで拭くわけにもいかないわね」
 富岡がぶちまけたカフェラテで濡れてしまった床を見ながらこの実は苦笑した。
 どこからかモップを持ってきた富岡が床を綺麗にすると、三人はそれぞれテーブルを囲むようにして座った。
「それで富岡くん、どうかしたの?」
 ミルクティーのカップに手を伸ばしながら玲奈が訊いた。
「いや、なんでもないよ。世間話でもと思っただけで」
「それで濡れた椅子に座っちゃって、おまけにひっくり返って、カフェラテを盛大に零しちゃったわけ?」
 アイスティーのストローを口にしていたこの実が軽く笑った。
「どうやらぼくは運が悪いというか、ツキというやつに見放されて生まれてきたみたいなんだ。泣き面に蜂の人生。一日に何度もやらかしちゃうんだよな」
 富岡は大きく溜息をついた。
「なんか大袈裟」
 玲奈は富岡の顔を覗きこむようにしていった。
「マジだって。こんなの序の口だから。アパートの鍵はなくすわ、財布はどこかに落とすわ、果てはスマホだってしょっちゅう忘れるし」
「よくいままで生きてきたわね」
「ほんと、自分でもその点は感心しちゃう。よく生きていられるなって」
 富岡は真顔でこの実を見返した。
「ねぇ、なんか聞こえない?」
 玲奈が辺りを見回してから富岡の顔をじっと見た。
「え、オレ?」
 富岡は横に置いていたリュックの中を探った。
「スマホじゃない?」
 この実にいわれてリュックからスマホを取りだした。電話の呼び出し音だった。
「もしもし……」
 富岡は話しながら席を離れていった。
「ふつうさ、スマホってシャツの胸ポケットとかにいれない?」
 玲奈が身を寄せるようにして声を潜めてこの実にいった。
「きっと落とすのが心配なんだよ」
 同じように声を潜めてこの実が答えた。ふたりは互いにじっと見つめ合うと、どちらからともなくクスクスと笑いはじめた。 
「なんだって?」
 富岡がテーブルに戻ってくるとこの実が尋ねた。
「また、やっちまったみたい」
「え? どういうこと」
 玲奈が小首を傾げた。
「財布拾ったって娘からの電話だった」
 呆然としたまま富岡は呟いた。
「まさか」
「マジで?」
 玲奈とこの実は今度は富岡の横顔をそれぞれまじまじと見つめてから声を出して笑い出した。

 ──どんな娘なんだろう?
 指定された大学近くの駅前で、富岡はあたりをキョロキョロと伺いながら待っていた。
 ずいぶん遅いなと焦れはじめたころ、足早に近づいてくる娘がいた。明るめのピンクのワンピースの上に濃い目のブルーのジャケットを羽織っている。短めのスカートからすらりとした足が伸びていた。
「ごめんなさい、出がけにちょっと手間取ってしまって」
 笑顔で話しかけてきた。淡く茶色に染められたショートカットが、その整った顔を印象的に見せている。
「よくぼくだって判ったね」
 富岡はちょっと口籠もりながらいった。
「だって、財布の中に免許が。写真見ればひと眼で判るでしょ」
 真っ直ぐな視線を富岡はちょっと眩しく感じていた。
「ああ、そうか。そうだね。免許も入っていたんだっけ」
「キャッシュカードとか、それから連絡先のメモも。念のために中を確認してください」
 財布を渡され、富岡は頷いた。
 二つ折りの茶色の財布。左側のポケットには免許とキャッシュカードなどが入っている。右側はコイン入れになっていた。
「うん、大丈夫みたいだ。ありがとう、とても助かったよ」
「よかった。でもコインは空だったけど」
「ああ、財布が膨れるのがいやで、小銭は別にしてるんだ。ほら、これが小銭入れ」
「なんの問題もなしですね。それじゃこれで」
 笑顔で頷くと、そのまま立ち去ろうとした。
「お礼がしたいんだけど」
 その背中に富岡は思い切って声をかけた。
「ただ届けただけですから」
「それでも……。そうだ、お茶でもどう。たいして時間は取らせないし、それでぼくの気も済むし」
 ふたりは駅前のカフェに向かった。
 それぞれ飲みものを注文すると、支払うために富岡は小銭入れを取り出した。
「財布じゃないんですか?」
「ふだんはこっちを使うんだ。だいたいこれで用が足りる。今日だって財布なしでいままで平気だったわけだし」
「もしかして、だから財布を落としたことに気づかなかったとか?」
 小首を傾げるとショートカットの髪が揺れる。富岡は改めて、その顔を見蕩れたように見つめてしまった。
「じゃないですか?」
「うん? ああ、そうかもね。それはそれで問題か……」
 ふたりは空いた席を見つけて向かい合うように腰を下ろした。
「改めてお礼をいわせて。ほんとうにありがとう。とても助かったよ」
「そんな。ただ見つけただけです。じつは交番にと思ったんだけど、連絡先があったし、それなら帰りがけに直接渡すのもありかなと」
 笑顔になるとどこか幼さを感じさせる。その表情がとても可愛かった。
「そうだ。名前教えてもらってもいい?」
「小路真澄です。ちいさな路と書いて、しょうじって読むんです。ちょっと変わってるでしょ?」
 またにっこりと笑った。
「小路真澄さんか」
「でも連絡先のメモ入れてるんですね」
 カフェラテの入ったカップに手を延ばしながら真澄は訊いた。
「じつは自慢じゃないけど、とにかくツキから見放された人生をず~っと送ってきたんだ。だから財布を落とすなんてしょっちゅうでね。そこで念のために連絡先のメモもいっしょにね」
「え~、とてもそんな風に見えない」
 真澄は意外そうな声を上げた。
「ほんとうだって。電話をもらったときもじつは大学で酷い眼にあってたところだったんだ」
 富岡は溜息をついてみせた。
「まったくそんな感じじゃないし」
「そうかな」
 富岡は頭を掻いた。
「こんなこというのもなんなのだけど、わたしときどき判っちゃうことがあるの」
 真澄はカップの載ったテーブルに身を寄せるようにして小声でいった。
「判っちゃうって?」
 真澄はあたりをそっと伺ってから、さらにちいさな声でいった。
「幸運な人かどうかって」
「まさか」
 富岡は即座に頚を横に振った。
「ぼくに限って、それだけは絶対にあり得ないね」
 真澄はじっと富岡の眼を見つめた。
「これだけは、いいきれる。こんなことに自信があるのもおかしな話だけど、絶対だ。そうだな、たとえ太陽が西から昇ることがあっても、ぼくにラッキーなことが起こるなんてない」
 真澄はしばらくの間、富岡の眼を見つめたまま黙っていたが、やがて耳を澄ますようにそっとその瞳を閉じた。
 しばらくしてからその眼を開けると、あらためて富岡の顔をじっと見つめた。
「ここで証明してあげるといったら、どう?」
 真顔で真澄は首を傾げた。その整った顔にショートカットの髪がかかる。そのまま写真に撮っておきたいほど富岡には美しく見えた。
「証明って……」
「ちょっとしたゲームみたいなものよ。その場であなたがどんなに幸運に恵まれているか判るわ。あなたに必要なのは幸運だと自覚することだけなのよ。どう?」
 自らがラッキーかどうかは富岡にとってどうでもよかった。それよりも真澄のことに興味が湧いていた。
 せっかくこうして知り合ったのだ。それならもっと彼女のことを知るのもいいかもしれない。いや、惹かれはじめているといえばいいのか。
「なにをすればいいの?」
 富岡は真澄の顔をしっかりと見返して尋ねた。

 カフェを出ると駅の近くにある宝くじ売り場へと富岡は連れていかれた。
「宝くじ?」
「そうよ」
 真澄はにっこりと笑った。
「そんなにツキがないなら、絶対に当たらないはずでしょ。でも、わたしがいうように幸運な人なら、どう?」
「ラッキーなら当たるかもね。でも、ぼくに限ってそれはあり得ない」
「それならこの場ですぐに結果が判る宝くじを買えば、いまここではっきりするでしょ」
 富岡はすぐに答えなかった。
「大袈裟にいってるだけなの? ツキから見放された人生を送ってきたっていうのは。もしかしてそれで人の気を引こうってことかしら?」
 真澄は挑むような眼差しになっていた。
「どうすればいい?」
 富岡はむっとしながら訊き返した。
「スクラッチなら、この場で結果が判るわ」
 その声に半ば反発を覚えながら富岡はスクラッチくじを買った。一枚だけだった。
「一枚で十分」
 傍らで呟いたのは真澄だった。富岡はいわれるまま買って、そしてその場で九枡に仕切られた赤枠をコインで削りはじめた。
「はじめてなんだ」
 なんだかいい訳めいたことをいいながら富岡は赤枠を削っていく。
 削っていくたびに下に印刷されたマークが現れる。左側の列から縦に削っていった。最初の列が終わると、つぎは真ん中の列。そこが終われば最後の列。
 すべて削り終えたところで富岡は不思議そうな表情になり、手にしていたくじを息を詰めて見つめていた。
 縦にも横にも揃ったまマークはなかった。けれど……。
 けれど、斜めにマークが三つ揃っていた。
 当たりだった。
「どう?」
 真澄が横からくじを覗きこんだ。
「揃っちゃった……」
 富岡の声は掠れていた。
「ね、だからいったでしょ」
 真澄は破顔になっていた。
「これって……」
 富岡は当たりくじを見つめたまま呟くのが精一杯だった。
「おめでとう。二等よ」
「二等って……」
「五万円ゲットっていうこと」
「そんな……」
つづく

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