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ものがたり屋 参 坐 その 2

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

坐 その 2

 すこしずつ溢れている。観てもわからないほど僅かに。
 流れはそこを好み、零れはじめる。
 そしてなにかを吸い寄せるように、集まっていく。
 やがてそれは光すらも捉える場となっていく。

 不思議なもので世界が一変していた。
 秋の柔らかな陽射しが心地いい。吹く風もどこか優しく感じる。行き交う人たちの笑顔も輝いて見えるし、追い越していく車のエンジン音もまた耳当たりよく聞こえる。なによりも街全体がすべてを受け入れて、微笑んでくれているようだった。
 足取りが軽くなっていく。なんの抵抗感もなく大きく息を吸って吐ききることができる。
 あれこれ思い悩んでいたことがまるで嘘のようだった。
 たかがスクラッチくじで二等が当たっただけ。それだけなのに、いままで身体全体を覆っていた錘のような鎧が綺麗に消え去っていったような気がしていた。
 ──思いっきりジャンプするときって、まず屈むでしょ。それがいままで。これからはジャンプできるはずよ。
 真澄にいわれた言葉が富岡の頭の中で何度も反響していく。
 大学へと向かう。いつもと同じ道なのに、どこか違って見えた。なんだかいいことがすぐにでも起こりそうなそんな感じさえする。
 駅に着くとなぜか自動券売機のあたりが気になり、ふっと眼をやった。一番端の券売機のところに小銭入れが置きっぱなしになっていた。なにげなく手に取ってみる。ずっしりした重みがあった。鮮やかなピンク色の小銭入れで、ファスナーのところにはミニキャラのアクセサリーがぶら下がっていた。
 女子高生だろうか? 慌てて切符を買おうとして忘れたのかもしれない。
 富岡はあたりを見回したが、それらしい人物は見あたらなかった。改札口にいって駅員にその小銭入れを手渡した。
「忘れ物かな。そこの券売機のところに置きっぱなしになってました」
 改札を抜けようとすると駅員がすぐに声をかけた。
「念のためにお名前など伺えますか?」
「ただ拾っただけですから」
 富岡は笑顔で返すとホームへと向かった。
 なんだかとてもいい気分だった。いいことをしたということもある。けれど落とし物常習犯のこの自分が人の忘れ物に気がつくなんて信じられない思いだったのだ。
 ──幸運な人かどうかって、判っちゃうんです。
 真澄の笑顔が甦る。もしかしたら信じてもいいかもしれない。いや、信じればいいんだ。だってくじに当たったじゃないか。しかも、いまだって忘れ物を拾ったりして。
 電車に揺られながら富岡はそう考えるようになっていた。寄りかかっているドアの窓ガラスに映る自分の顔も昨日までとは違って見えた。どこがどうという訳じゃないけど、迷いが一切なくて自信に満ちている表情のようだ。
 ふっと振り返るとすぐそばの人が席を離れた。
 富岡はごくあたり前のように席に座った。
 ──ほらね。
 躓いたり、蹌踉めいたり、あちこちにぶつかるようにして生きてきたいままでとはまったく違う世界が待っているんだよ。
 そうだ、ぼくはラッキーなんだ。
 富岡はシートに凭れかかるように座り直すと、勿体ぶって腕組みをしながら力強く頷いた。

 大学の講義もなぜかいままでとは違った。応用ゲーム理論なんてさっぱり頭に入らなかったのに、この日はまったく違った。教授の言葉がすべてきちん理解できるのだ。経済学の数量とか理論なんて右から左だったのに比べると格段の差だった。
 ツイてると頭の回転も変わってくるんだろうか。
 おかげで講義に積極的になることができた。そうなると自然に頭に入ってくる。講義がこんなにおもしろいものだと思ったのは、じつは大学に入ってはじめてだった。
 なんだが浮き浮きとしたままキャンパスを歩く。秋の陽射しの煌めきが気持ちいい。
 富岡はカフェエリアへと向かった。昼時で混んでいるはずのカフェエリア。なぜか窓際の一番好きな席が空いていた。注文したランチのトレーをごくあたり前のようにテーブルに置いた。ハンバーグ定食。なぜか注文したときに付け合わせのポテトサラダをちょっと多めに盛り付けてくれた。
「おまけよ」
 いつも苦虫を潰したような顔で盛り付けている中年の女性がにこやかな笑顔で対応してくれた。
 富岡はな気分よく箸を伸ばした。
「ここいい?」
 この実がトレーを手にすぐ脇に立っていた。
「もちろん」
 富岡は笑顔で頷いた。
「もう、お昼って混むから嫌だわ」
 この実は向かい合うように腰を下ろすと、富岡の顔を見た。艶のある流れるような髪を耳にかける。
 この実と向かい合っての食事となると、大学のカフェエリアとはいえすこしだけ緊張する。富岡はこの実の存在を必要以上に感じた。
「あっ、この実、ここいい?」
 今度は玲奈だった。この実と同じようにトレーを手に立っていた。
「いいよね?」
 富岡の顔を見ながらこの実は首を傾げた。
「いいよ」
 富岡は笑顔で大きく頷いた。
「なんだ、ここにいたの?」
 次は草加部紗亜羅だった。肩の辺りでカールしている髪が印象的だ。この実とはまた別の意味でどこか大人っぽい雰囲気を漂わせている。学部の中でも目立った存在のひとりだった。
 この実や玲奈とはいつも一緒にいることが多い。それは講義のときもそうだったし、こうしてキャンパス内でも同じだ。三人が仲良く話しているところを、富岡はしょっちゅう眼にしていた。
 富岡と向かい合うように座っているこの実の左右に玲奈と紗亜羅が座っている。なんだかこの三人を見ているとまるで三姉妹みたいだった。落ち着いているこの実が長女だとすると、ちょっと派手な感じの紗亜羅は次女で、どこか幼さが残っている玲奈は末っ子だろうか。食事をしているんだかお喋りをしているんだかよくわからない三人を見ながら、富岡はそんなことを思った。
 この実はオムライス、玲奈はパスタ、そして紗亜羅は富岡と同じハンバーグ定食だった。
「ねぇ、おんなじメニューなのにどこか違わない?」
 フォークでハンバーグを口に運んでいた紗亜羅が、隣に座っている富岡のトレーをじっと見ながら呟いた。
「いやだ、おんなじよ」
 玲奈が軽く笑った。
「そんなことないって。ほらポテサラの量がぜんぜん違うじゃん」
 紗亜羅が富岡のトレーに顔を寄せていった。
「ちょっとぐらい違ってもいいじゃない。紗亜羅って減量してるんじゃなかった?」
 この実も笑顔でいった。
「それはそれ。これはこれ。いやだ、ハンバーグの大きさも違って見える」
「だからまったく同じ量なんて逆に難しいって。ハンバーグ作ったことぐらいあるでしょ」
 玲奈が訳知り顔でいった。
「なんなら交換しようか?」
 富岡がいたずらっぽい顔で訊いた。
「そういうことじゃないの」
 紗亜羅はちょっと膨れ気味で食事を続けはじめた。
「なんだか富岡くん、どこか変わった?」
 この実がテーブル越しに身を寄せるようにして富岡の顔をじっと見つめた。
「そうかな」
 紗亜羅が富岡の横顔をじっと見つめた。
「どうかしら」
 玲奈も同じように富岡の横顔を見つめる。
 三人の女性にまじまじと顔を見られたことははじめてだった。
「なんだか、そうやって見られると落ち着かないよ」
「そういえば財布ってどうなったの?」
 この実が心配そうに尋ねた。
「え? なんの話?」
 興味深げに眼の色を輝かせた紗亜羅に、昨日のカフェでの顛末を玲奈が事細かに説明した。
「それで?」
 フォークを持つ手を止めると、紗亜羅は伺うようにじつと富岡の顔を見た。
「うん、ちゃんと戻ってきたよ」
 にこやかな笑顔で富岡は頷いた。
「よかったね」
 頷いたのはこの実だった。すぐにその場の話題は変わっていた。いま流行っているバッグの話がはじまったかと思うと、唐突に映画の話になり、いつのまにか知り合いの噂話になっていた。そうやって延々と三人のお喋りが続く。
 話に付いていけないない富岡はそんな三人をぼんやりと見ていたが、気がついたらこの実の笑顔につい魅入っていた。
 その視線に気がついたのか、この実も富岡を見つめて小首を傾げた。
 富岡は笑顔でそんなこの実をただ見返すのだった。
 
『あれから、どう?』
 真澄からメッセージが届いたのはその日の夜のことだった。
『いい感じだよ』
 富岡はすぐに返信した。
『こんなこと、訊いていいかな?』
 ちょっと間があってまたメッセージが来た。
『なんでも訊いてくれていいよ』
『カノジョとか、好きな娘っている?』
 富岡はタイプする手を一瞬止めた。
 ──好きな娘……。
 そういえば高校のころに散々振られ続けたせいで、大学に入ってからまともに考えたことはなかったなぁ。
『とくに、いないかな』
『気になる娘とかは?』
『気になるねぇ……』
『あっ、いるな。でしょ?』
 真澄の眼差しを、その顔立ちとともに思い出していた。ちょっとしたことなら簡単に見通される気がして、富岡はなんとなく落ち着かなかった。
『正直、真面目に考えたことなかったよ』
『ツイていることは判ってるでしょ。だったらいまなんだけどな』
『そんなに簡単じゃないよ』
 富岡は気づいたらこの実の笑顔を想いだしていた。
『知ってる? 幸運の女神には前髪しかないって』
『どういうこと?』
『幸運ってそのときしか掴めないの。前髪しかないから、追いかけてももう遅いのよ』
『幸運の女神か……』
『ラッキーだってことは、昨日判ったでしょ』
 富岡は昨日スクラッチくじを削ったときのことを思い出していた。斜めに三つ揃ったマーク。
 ──確かに、あれはラッキーだった。
 あれは? いや、あれ以降どうだっけ? なんだかいままでとは違った感じがしてないか?
 確かにやることなすことなんとなく上手くいっている感じがする。
 富岡はカフェエリアでのこの実の笑顔を心の裡に改めて想い描いていた。

 翌日。講義が終わり、そのまま帰ろうか、それともカフェエリアにでも寄ろうかと考えながら、ふっと前を見るとこの実が同じように歩いていた。
 富岡は足早に追いつくと声をかけた。
「この実、ちょっといい?」
 傾きはじめた秋の陽射しがこの実の横顔をオレンジ色に浮かび上がらせていた。その艶やかな長い髪が風に揺れている。薄いベージュのミニワンピースに深いブラウンのジャケット。どことなく大人っぽいところのあるこの実だったけど、今日はぐっとシックな装いだった。
「なあに?」
 この実は振り返ると、じっと富岡の眼を見つめた。
「このあと、なにか予定ある?」
「講義は終わったし、とくになにもないよ」
 髪をかき上げるようにして耳にかけると、この実は笑顔で頷いた。
「プライベートも?」
「なんだかちょっと大袈裟。でも、今日はこのまま帰ろうかなって思ってる」
 富岡は唇を結んでこの実の顔をじっと見つめてから、思い切って口を開いた。
「どこかで食事しないか?」
「なんか勿体ぶったいい方」
 この実は伺うようにじっと富岡を見てから頷いた。
「いいけど、どこで?」

 空には茜色がまだ僅かに残っている。けれど街はすっかり夜の装いに変わっていた。ショーウインドウはライトで照らし出され、あちこちに明かりが灯っている。その明かりにひとときのやすらぎを求めて人が街を彷徨っていた。
 富岡とこの実は横浜西口のビルの狭間にぽつんと佇むイタリアンの店にいた。
 窓側の席からは細い裏道が見える。店の明かりがその裏道を照らし、ときおり人が歩き過ぎていく姿を見ることができた。
「ねぇ、なんだかいつもの富岡くんと違う感じよ」
 この実はまじまじと富岡を見つめてそっと口を開いた。
「しかも、こんなお店。なんだかちょっとよそいきの感じがして落ち着かないかも」
「どんな店ならぼくらしい?」
 富岡はちょっといたずらっぽく訊いた。
「どんな店って……」
 この実はちょっと困ったような笑顔を浮かべた。
「確かにね、昨日までのぼくだったら、こうじゃなかったかもしれない。でも、人ってちょっとしたきっかけで次のステージへと駆け上がることができるんだ。いままでのぼくだったらそれは背伸びに見えたかもしれないけど、これがいまのぼくなんだ」
 富岡はテーブルにおかれたワイングラスに手を伸ばした。
「ねぇ、なにがあったの?」
 この実は顔を寄せるようにして首を傾げた。
「一昨日だっけ、ぼくの人生はツキとは見放されたものだっていったよね。でも、どうやらそれはぼくのただの思い込みだったようだ」
 富岡は落とした財布を受け取ってからのことを事細かに話した。財布を拾ってくれた女性、小路真澄。彼女にいわれた言葉。そしてスクラッチくじで試してみたら二等が当たったこと。それからまるで世界が一変したように、なにからなにまで富岡には都合よくものごとが進んでいること。そして……。
「こうやって、この実、キミと食事をすることもできている。さぁ、食べようよ」
 富岡はテーブルに並べられた皿に手を伸ばした。
「うん」
 この実も納得したのかワイングラスを口をつける。
「ねぇ、二等っていくらだったの?」
「五万円。ちょっとしたものだろ。おかげでこうやって食事も楽しめる」
「でも、その小路さんってどんな人なんだろう。幸運かどうか判るって」
「綺麗な娘だったよ。確かに、その話をされたときは面食らったけどね」
 この実はフォークを持つ手を止めて、じっと富岡の顔を見つめた。
「もしかして富岡くんのタイプ?」
「なにいってるんだよ。こうやって一緒に食事してるのはキミだろ。この実、キミと食事がしたかったんだよ」
 富岡の語気はちょっと強かった。
「ごめん」
 この実は思わず首を竦めた。
「でも、嬉しかったわ、誘ってもらって」
「ほんとう?」
 この実は満面の笑顔で頷いた。
 食事を終えたふたりはすっかり夜の帳が降りた街を駅に向かった。ふたりの距離が来たときとは違ってすこしだけ縮んだようだった。歩くたびに肩が触れるようになっていた。
 そのたびに富岡はなにかが心の中で膨らんでくのを感じていた。それは淡い期待といったものではなく、もっとはっきりとした想いだった。
 腕と腕が触れる。
 富岡はそっとこの実の手を握ろうとした。
 この実はふいに立ち止まると、じっと富岡の眼を見つめた。
「どうかした?」
 富岡は伸ばした手を引っ込めると不安そうな眼でこの実を見つめ返した。
「今日は嬉しかったことはほんとうよ。あなたに誘われたこともね。でも、こういうことは急いではいけないと思うの。もしかしたらわたしの思い切りが足りないだけなのかもしれない。けれど、いまのあなたがいままでとは違う富岡くんなら、これがわたしなの」
「うん」
 富岡は素直に頷いた。
「今日はありがとう。また、誘ってくれる?」
 この実はそっと右手を差しだした。
 富岡はその手をしっかりと握りかえした。この実の手は思ったよりもすこしだけちいさかった。ひんやりとした感触が伝わってくる。しかし、その手の柔らかさが富岡の心に新たな想いを湧きあがらせた。
 ──いつまでもこの手を放したくない。
 富岡はただこの実の眼を見つめ続けた。
はじめから つづく

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