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ものがたり屋 参 坐 その 3

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

坐 その 3

 すこしずつ溢れている。観てもわからないほど僅かに。
 流れはそこを好み、零れはじめる。
 そしてなにかを吸い寄せるように、集まっていく。
 やがてそれは光すらも捉える場となっていく。

 一変した世界にこの実の笑顔が加わった。
 富岡は文字通り充実した日々を過ごしていた。大学での時間はもちろんのこと、一日すべてがそれこそ愛おしいものになっていた。
 その日、この実は玲奈や紗亜羅と約束があるというので、富岡はひとり帰途についた。大学の門を出て公園の横を通り過ぎる。傾きはじめた陽射しがいく道をオレンジ色に包んでいる。陽が落ちる時間がずいぶん早くなったようだ。吹き渡る風にもどこか秋の終わりを感じさせる冷たさが混じるようになっていた。
 駅の近くの洋菓子店の店頭には気の早いもので、もうクリスマスケーキの予約を知らせるポスターが貼られていた。
 ──クリスマスか、もうそんな季節なんだ。
 ずっとひとりのクリスマスだったので、この実とどんなクリスマスを過ごせばいいのか正直悩んでしまう。まだ、ときおりふたりでたとえば横浜のレストランとかで食事をする関係から大きく進展はしていなかった。それだけにこのチャンスはなんとかしたい。そんな思いが富岡の中ですこしずつ膨らんでいった。
 ふっと横を見ると宝くじ売り場があった。
 あの日、小路真澄にいわれてはじめてくじを買った場所だった。
 あれ以来、宝くじは買っていなかった。まさかいくらツイているからといって、買ったくじすべてが当たるわけじゃない。ツイていると自覚できただけで一変した毎日。それだけで十分でもあった。
 ──いやいや、ツイているんだから、もしかしたら……。
 そんな思いがひょっこりと擡げたけど、富岡は首を横に振って苦笑を浮かべ通り過ぎようとした。
「あ、富岡さん」
 真澄だった。
「小路さんか」
 ときおりスマホでメッセージのやり取りはしていたが、こうやって実際に会うのはあのとき以来だった。
「大学の帰り?」
「ああ。そっちは?」
「ちょっと用事があって」
 真澄は笑顔で頷いた。 
「ここで会うなんて偶然だね」
 真澄はじっと富岡の眼を覗きこむと、あたりを見回した。
「偶然なんてこの世界にはないのよ。すべては必然。ただ、その真意が解らないだけ」
「そんなものなの?」
「ええ」
 真澄は力を込めて頷いた。
「あ、もしかして、また宝くじ?」
「いくらツイているからって、買えばすべて当たるわけじゃないし」
 富岡は苦笑した。
「どんなにツイているのか、あなたはその意味をまだ知らないのよ。特別なのよ、このツキって。世の中のみんなが同じようにツイているわけじゃない。これってあなただけのものなの」
 真澄は真顔だった。
「でも……」
「彼女とはいい感じなんでしょ。だったらいろいろと物入りじゃないの?」
 真澄は探るように富岡を見た。
「だからって宝くじじゃないだろ?」
「どうやって手に入れたかではなくて、なにに使うかだと思うわ。だってあなたがゲットしたお金にはまったく色はついていないのよ。仕事で稼いだものでも、宝くじで当たったものでも、たとえばそれが拾ったものだとしても、同じ価値のあるものを、あなたが得るという事実には変わりはない」
「そうかな?」
 富岡は途惑いがちに真澄の眼を見た。
「幸運の女神には前髪しかない。前にもいったわよね。でも、この前髪を掴むチャンスに恵まれるのはほんのひと握りの人だけ。その中のひとりなのよ、あなたは。その幸運を手にするためには、まず前髪をしっかりと掴むこと」
 真澄はそのまま富岡を見返した。
「でも、それが宝くじじゃないだろ?」
「なんだって同じっていったでしょ。ただ、それを掴むかどうかは、あなた次第ってこと。覚えておくといいわ。あなたは幸運の女神の前髪を掴むことができる限られた人だって」
 真澄は真剣な顔のまま踵を返すと、駅前の雑踏へと消えていった。

 車窓を流れる街の風景。すっかり傾いた陽射しが全体を朱く染めている。
 富岡は空いている席があるにも関わらずドアの前に立ち、じっと流れていく景色を眺めていた。茜色に染まった街並みにガラスに反射する自分の顔をがダブって見える。
 ──ツイてる……、ツイてない……。
 いったいそれはなんだろう? 改めて考えたことなどなかった。
 いいことが起こればツイてる。よくないことが起こればツイてない。ただそれだけのことなんだろうか? ツキってのは自分で掴みとるものなのか? それでぼくの人生は変わる?
 ──幸運の女神には前髪しかない。
 真澄の言葉が頭の中で谺していく。
 駅に着くと富岡はいつものように自宅に向かった。気がつくと夕闇が静かに街を包みはじめていた。空を見上げると蒼から藍色へその色を変えつつあった。空の端に残った茜色にも藍色が混じりだしている。
 街灯に照らされた道を歩いていく。電車の中で考えていたことがまた頭の中でぐるぐると駆け巡る。そう簡単に正解なんて出せないことなのかもしれない。
 街灯と街灯の間の暗がりに差し掛かったところで、富岡は道に落ちている封筒を見つけた。書類を入れておくようなごくふつうの封筒。路肩にまるで置き去られた子どもの玩具のように、どこか寂しげだった。
 富岡は辺りを見回してみた。もちろん近くにはだれもいなかった。足を止めて拾い上げる。かなりの分厚さがあった。書類だとしたら、軽く単行本一冊分を超えるほどのボリュームがあるはずだ。
 暗がりではその中味をきちんと確認することができなかった。富岡はどうしたものか一瞬悩んだけど、とりあえず家に持って帰ることにした。中味を確かめて、持ち主が判るようであれば連絡すればいいし、そうでなければ警察に届ければいい。
 家に帰り着くと富岡は封筒をリビングテーブルの上に置いたまま、洗面台で手を洗った。冷蔵庫から炭酸水のペットボトルを取り出すと、キャップを開けてリビングの椅子に腰掛けた。
 ボトルからひと口飲んで落ち着くと、おもむろに封筒に手を伸ばした。
 封筒は真っ新のままで宛名はもちろんなにも書かれていなかった。会社の封筒だとよく社名なんかがプリントされているがなにもない。ありきたりの茶封筒で、ただていねいにセロハンテープで封がされていた。
 ──どうしたらいい?
 富岡は手にした封筒をしばらくの間じっと見つめたままでいた。
 こうして見つめたままでは埒が開かなかった。
 富岡はカッターナイフを取ってくると、あらためてリビングの椅子に腰を下ろした。カッターナイフの刃を出すと、セロハンテープの部分に当てて、ゆっくりと封を開けていった。
 テープをカットし終わると、そっと封を開ける。封筒の中味をテーブルの上へ広げた。書類だと勝手に思っていたけれど、同じ紙の束でも書類ではなかった。
 帯封された札束と、封のされていない一万円札が何枚かそのまま入っていた。
 富岡は思わず唾を飲み込んだ。
 封筒の中味を改めて確かめてみた。しかし、お札以外にはまったくなにも入っていなかった。
 テーブルの上の札を数えてみた。帯封された束が三つ。それ以外に二十八枚の一万円札。三百二十八万。それだけが封筒の中に入っていた。
 札束三つとそれ以外を一つの山にしてテーブルに並べて、富岡は改めて一万円札をじっと見つめた。
 まったく想像していなかった光景を前に富岡の思考は止まったままになってしまった。混乱ではなく、思考停止といっていいだろう。
 どれぐらいだろう。呆然と山になった札を見ていた富岡はやがて思い出したようにペットボトルに手を伸ばして、ひと口飲んだ。きつめの炭酸が喉を刺激しながら駆け下りていく。
 ──警察だよ……。
 やっと言葉が頭に浮かぶようになった。
 ──届けなきゃ。
 富岡はひとり頷くと、ていねいにテーブル上に広げられた一万円札を封筒に戻していった。札束三つとそれから二十八枚の一万円札。
 振り返って部屋の中を見回した。
 窓際のパソコンデスクの横にある引き出しが眼に飛び込んできた。富岡は封筒を手にパソコンデスクへと歩いていくと、引き出しを見つめた。四段ある引き出しの一番上を開けると一瞬その手を止めて、改めて三段目を開けた。大学からの書類が放り込んであった。そこに封筒をていねいに置くと、そっと引き出し閉めた。念のために鍵をかける。
 ──お金にはまったく色はついていないのよ。
 なぜだか昼間、真澄にいわれたことを不意に思い出して、しかし、富岡は首を横に振ってあらぬ考えを振り払おうとした。

 翌日、駅へと向かう道すがら、例の封筒を拾ったあたりで富岡はその足を止めた。
 ──もしかして探している人がいるんじゃないか? あたりを伺っている人はいないか? 
 朝のその時間は通勤や通学で急ぐためか、足早に通り過ぎていく人たちばかりだった。なぜかその胸をなで下ろすと富岡もいつものように駅へと急いだ。
 なぜだろう、この日に限って講義を受けていて、とても居心地が悪かった。教授の言葉が右から左へと通り過ぎてしまう。ノートをとる手も滞りがちになる。おまけにまるで頭が空回してしまうみたいだった。考えもまとまらず、そもそもなにをノートすればいいのか判断できなかった。
 講義を終えるといつものように富岡はカフェエリアへと向かった。
 陽射しに強さを感じることがなくなって久しくなっていた。ときおり吹く風にももの寂しい冷たさが増している。気づくとキャンパスに溢れていた緑が目立たなくなっていた。
 弾むような足取りだったはずなのに、この日に限ってはなぜか重さを感じてしまう。富岡は溜息を漏らしながらカフェエリアに入った。カフェラテを注文してレジで支払いをした。
 たまたま小銭が足りなかったので、札で支払いをした。財布から一万円札を取り出す。心に引っかかるものを感じながら、支払いを済ませる。
 ぐるりと見渡して空いている席を探した。このところいつも空いているはずの窓際の席だけでなく、すべての席が埋まっていた。まだ昼前のこの時間だと席が見つけられないということはなかったはずだ。なのにこの日に限って、空いた席がなかった。
 カフェラテのカップを手に富岡はカフェエリアを出ようとした。振り向いた瞬間、後ろにいた女性とぶつかり、手にしていたカップを落としてしまった。
「ごめん」
 富岡は相手の顔も見ずに頭を下げた。
「もう、ドジなんだから」
 この実だった。優しい笑顔で富岡の顔をじっと見ていた。
「この実か」
 富岡はほっとひと息ついてから、あたりを改めて見回した。床には富岡が手にしていたカップが転がり、あたりにはカフェラテが零れていた。
「どうしちゃったの?」
「うん、なんだか調子がおかしいんだ」
 富岡は汚れてしまった床をぼんやりと見つめながら苦笑した。
 カフェエリアはあきらめてキャンパスのベンチで休むことにした。富岡はこの実と一緒にしばらく歩いて、キャンパス内のベンチに腰を下ろした。
「なんか変」
 この実がじっと富岡の横顔を見つめる。
「そんなこと、ないって」
 なにか咎められたような気になり、富岡はむくれたように返した。
「なら、いいんだけど」
「そう、なんでもないよ。いつもと同じ」
 この実はじっと富岡の顔を見つめると、ぼそっと口を開いた。
「でも、なんだか疲れた顔してる気がする」
「え、そう?」
 富岡は落ち着かないのか座り直すと、この実の顔を見た。
 確かに疲れて見えるかもしれない。じつは、昨日の夜はよく眠ることができなかったのだ。もちろん、あの封筒のせいだった。中味が現金だったことも関係している。その金額もだ。
 どうしたらいいのかあれこれあらぬ考えが湧きあがり、横になっても寝つくことができなかった。うとうとしはじめると、大金を手に豪遊する姿が頭を駆け巡り、眼が醒めてしまう。
 まさか、あのお金に手をつけるなんてことはない。そう考え直して眠ろうとする。今度は道を歩いているとふいにうしろから呼び止められ返せと迫られて、しどろもどろでいい訳をはじめる。そんな姿が思い浮かび、じっとりと汗をかいて眼が醒めてしまう。
 ──だから、手をつけることなんてしないから。
 自らに言い聞かせるようにしてまた眠ろうとする。今度は真顔の真澄が現れて、語りかけてくる。
 ──お金に色はついていないの。仕事で稼いだものでも、拾ったものでも、あなたが得たという事実に変わりはない。それは、あなたがツイていたから手に入れたのよ。
「違う……」
 富岡はつい声を出してしまっていた。
「え、なに?」
 この実が首を傾げて富岡の眼をじっと見つめる。
「いや、ちょっとね。じつはよく眠れなかったんだ。だから」
「疲れて見えるのかな」
 富岡はただ頷いた。
 ふいに気になり富岡はジャケットの内ポケットに手をやった。財布がちゃんとそこにあることを確かめる。財布の中身を思い出す。さっきカフェエリアで使った一万円札のことも。
 ──だから、お金に色はついていないの。たとえ拾ったものでも、あなたが得たことに変わりがない。
 夢と現実が入り交じりぼんやりとした頭の中で語りかけてきた真澄の言葉がふいに浮かび上がってくる。
 富岡は頭を振るようにして真澄の言葉をかき消そうとした。
 そのとき、胸ポケットにスマホが入っていないことに気がついた。
「あっ」
 富岡はいきなり呆然と立ち上がった。
「どうかした?」
 この実は驚いたように尋ねた。
「ごめん、スマホをどこかに忘れちゃったみたい」
 ばつが悪そうに富岡が後ずさったそのとき、キャンパス内をランニングウェアでジョギングしていた学生とぶつかってしまった。その衝撃で思わず尻餅をついた。
「大丈夫?」
 この実が心配そうに側へと歩み寄ってきた。
「ごめん、大丈夫だから」
 富岡は項垂れながら立ち上がった。 
「ねぇ、やっぱりどこか変だよ」
 この実は不安そうな顔で富岡の顔をじっと見つめた。
「ごめん」
「ごめんごめんって、謝らなくていいから。大丈夫?」
 富岡はこの実の視線を避けるように頷くと、しかしまた謝っていた。
「ごめん……」
はじめから つづく

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