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ものがたり屋 参 坐 その 4

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

坐 その 4

 すこしずつ溢れている。観てもわからないほど僅かに。
 流れはそこを好み、零れはじめる。
 そしてなにかを吸い寄せるように、集まっていく。
 やがてそれは光すらも捉える場となっていく。

「まるで人が違っちゃったみたいなんだよねぇ」
 この実は大きく溜息をついた。
 逗子湾に沿うように鎌倉へと抜ける国道百三十四号線沿いに建つカフェに、この実は友だちの本城麻美と一緒だった。
 艶やかな長い髪、目鼻立ちが整ったすっきりとした顔、素直でいつも自然に対応してくれる性格。その麻美とは高校の頃からの友だちで、いま同じ大学の学部は違っていても、頻繁に話をしたりする間柄だった。
「富岡くんだっけ。どう変わったの?」
 窓際の席に向かい合うように腰を下ろしている麻美が首を傾げた。
 窓の向こうには傾きはじめた夕陽がオレンジ色に染め上げた海の煌めきが見えた。この実はホットチョコレートの入ったカップを両手に、じっとオレンジ色に染まった海を見つめていた。
「ほら、ちょっとドジだけど憎めない奴っているじゃない」
「うん」
「それがね、いつからかなちょっと調子に乗りはじめたの。その頃はまだよかったのよ。それがね……」
 この実は手にしているカップに視線を落とした。
「富岡くんって、カフェエリアで一緒にランチなんかしている人でしょ? 最近、よくふたりでいるところ見かけるよ」
 麻美は微笑みながらこの実の眼をじっと見た。
「えへへへ。そうなんだ」
 この実は照れ臭そうに笑みを零した。
「付き合ってるんだ」
「まだ、そこまでじゃないかな。ほら、真剣におつきあいしてますって感じじゃなくて、なんていえばいいのかな。一緒にいてなんだか自然な感じというか、そんな存在」
 顔にかかる髪をそっと耳に掛けると、この実は自分にいいきかせるように頷いた。
「だから気になって仕方ないんだ。とっても」
 この実は上目遣いになって麻美の顔を見ると、こくりと頷いた。
「うん」
「それで?」
「調子に乗りはじめたころは、まだよかったの。ドジが減っただけだったし。それがここ二三日、まったく変わっちゃったのよ。なんていえばいいのかな。図々しくなったというか、傲慢ていえばいいのかな。ちょっと小狡いところもあったりして」
 この実は手にしたカップに口をつけようともせず、また大きく溜息をついた。
「小狡い?」
「財布落としたとかスマホ忘れたとかってどうでもいいのよ。それにどこかお人好しのところがあって、人に押されたらそのまま黙っちゃうのだって、ありがちなことでしょ。でもね、逆は嫌なの。人を無理にでも押しのけちゃうなんてさ」
「解る気がする」
「カフェエリアに空いた席がなくて、たとえばちょっとした小物を置いておいて場所を取っておくってあるでしょ」
 手にしていたカップをテーブルに置くと、この実は腕組みをした。
「そんなのお構いなしになってるのよ。なにかが置いてあっても、まったく気にせずにその席に我が物顔で腰を下ろして、ゆうゆうとランチ食べたりとか」
「それって酷くない?」
「それにね、なんだか金遣いも荒くなっちゃった感じなの。この前も食事したときなんだけど、いつもなにが美味しいかなってメニュー選ぶのに、高けりゃなんでもいいよって。どう考えても直貴らしくないの」
 この実はまた大きく溜息をついた。
「ねぇ、心配ならあいつに相談してみる?」
「そうか、あいつか」
「だって、そうでしょ」
 麻美はじっとこの実の眼を見つめた。

 翌日の昼どき。この実は富岡とふたりでカフェエリアでランチを摂っていた。カフェエリア全体が見渡せるように窓際の席にいた。柔らかな秋の陽射しが零れてくる窓の向こうでは、ときおり風に吹かれた枯れ葉が舞うようになっていた。
 箸を休めることのない富岡とは違って、この実の手がときどき止まる。そのたびに顔を上げてカフェエリアを見渡していた。
「どうかした?」
 富岡が軽く首を傾げた。
「ううん」
 この実はなにごともなかったかのように首を横に振ると、手にしていたフォークをパスタの乗った皿に伸ばした。
 それでもすぐにその手が止まる。またカフェエリアをぐるりと見渡す。もう何度目になるだろう。しかし次の瞬間、その顔がいきなり晴れた。
「あ、麻美」
 この実は思わず立ち上がると、トレイを手に席を探していた麻美に声をかけた。
 そのとなりには久能結人もいた。麻美とは幼なじみで、この実たちとも親しい間柄だった。すらりとした細身に端正な横顔。長めの髪がややカールがかっている。
「この実、ここいいの?」
 麻美は改めて確かめるように訊いた。
「もちろん。いいよね?」
 この実は頷くと富岡の顔を見た。
「どうぞ」
 富岡も頷いた。
「富岡くん、麻美ははじめてだったっけ?」
 この実は伺うように訊いた。
「この実たちと一緒のところは見かけたことはあるけど、話をするのははじめたかな」
 富岡はこの実の隣に席を移ろうとして立ち上がった。
「あ、こいつは結人。久能結人っていってわたしとは幼なじみなの」
 麻美が富岡に微笑みかけた。
「はじめまして」
 結人は手にしていたトレイをテーブルに置くと、いきなりその右手を富岡に差しだした。
「あ、こちらこそ」
 突然のことで途惑ったようだったが、富岡はその手をしっかりと握りかえして握手した。
 ほんの短い間の握手だった。麻美は握手を交わしている結人の左手をじっと見つめていた。しかし、結人はなにごともなかったかのように握手を終えると、そのままテーブルに腰を下ろした。

 その日の夕方。麻美はこの実と一緒に敷地のかなりはずれたところにポツンと建っている古い校舎へと向かった。雑然とした通路を通り抜けると、廊下の奥にあるエレベーターのボタンを押した。
 ガタピシと音を立ててエレベーターが降りてくると、この実は眉を顰めた。
「ねぇ、ちゃんと動くの?」
「大丈夫よ、きっと」
「きっと、って……」
 この実はあたりを伺いながら麻美に続いてエレベーターに乗った。
 ふたりはまるで息継ぎをしながら動いているエレベーターで四階に着くと、そのまま廊下を突き当たりまでいき、研究室のドアを開けた。
『量子情報工学研究室』という札がかかっている。
 部屋に入るとおずおずとあたりを見回してから、この実は窓際の席に躊躇いがちに腰を下ろした。麻美はごくあたり前のように隣の席に座った。
 すぐに奥のドアが開き、結人がひょっこりとその顔を見せた。
「それで、どうなの?」
 ふたりと向かい合うように腰を下ろそうとしていた結人に、麻美はいきなり切り出した。
「どうって、それがよく判らないんだ」
 結人は腰を下ろすとテーブルの上で手を組んだ。
「なんだ」
 麻美は当てが外れたように溜息を漏らした。
「なにごともそう簡単に結論は出せないんだよ」
 結人は頷いてみせた。
「ねぇ、なんの話?」
 この実はふたりの顔を比べるように見た。
「結人がその手の話、ほら怪しいこととかに詳しいことは知ってるでしょ。だから富岡くんがなぜ変わったのかも判るかと思ってたの」
「それじゃ解んない。もっときちんと説明して」
 この実は麻美の眼をじっと見つめた。
「結人はね、邪悪なものとか邪なものに憑かれているとそれが判るの。常識的に考えれば不思議な話だけど。そして、それを祓うことができる」
「それじゃ、直貴が?」
 この実が首を傾げた。
「だって、富岡くんの話は詳しく聞いたけど、いきなり人が変わっちゃったんでしょ。よほどのことがなければ、人って簡単には変われない。だからもしかしたらと思ったの」
「わたしも結人に助けてもらったことがあるから、世の中には不思議なことがあることは知ってるつもりだけど、でも、憑かれるなんて……」
 この実は改めて結人の顔を見つめ直した。
「よくあることなんだ。本人は意外に感じていないことがほとんどだけどね。大抵はその場限りことが多い。でも根が深いとそれが原因となって、なにかが大きく狂ってしまうことがある」
「それが?」
「この実が前に体験したことよ」
 麻美は諭すようにこの実を見た。
「ねぇ、どうやって憑いているかどうかを知るの?」
 この実は結人に尋ねた。
「その人の手をしっかりと握るとね、どうしてかは解らないけど、ぼくの左の小指が反応するんだ」
「もしかして、だから握手したの?」
「そういうこと」
 麻美が大きく頷いて続けた。
「確かに、結人の左手をじっと見てたけどなんの反応もないからもしかしてとは思ったんだけど……」
「ただ、左の小指は反応しなかったけど、なにもなかったわけじゃなさそうなんだ」
「ねぇ、どういうこと?」
 この実が不安そうな眼で結人を見た。
「ただの邪ななにかではなくて、もっと大きななにか。そうだな、彼を包み込んでいる全体といったらいいのか、なにか別の存在みたいなものがありそうなんだ」
 結人はひとりごちるように腕組みをした。
「それって結人には解らないの?」
 麻美が身を乗り出すようにして訊いた。
「残念だけどね、ぼくはただ祓うだけ」
 結人は苦笑した。
「だれなら解るの?」
 この実が縋るような眼で結人を見た。
「そうだな、親父ならもしかして解るかも」
「親父?」
 この実が首を傾げた。
「結人のお父さんよ。結人の家って神社でしょ。そこの宮司さん」

 陽が落ちる時間がめっきりと早くなっていた。
 午後の講義を終えると、この実は富岡とふたり逗子へと出向いた。ふたりで語らいながら海岸に着いたときには、すでに西の空はオレンジ色に染まりだしていた。
 波打ち際でふたり肩を並べるようにして、ゆっくりと沈みはじめた夕陽を眺めた。海の向こうには伊豆半島の山並みが見える。ときおり吹く潮風は冷たいものが混じっていた。
「なぜ、ここに?」
 ただじっと海を見つめているこの実に富岡は尋ねた。
「だから海が見たかったんだ」
 この実は富岡の顔を見て微笑んだ。
「でも、どうして逗子なの?」
「ほら、この前カフェエリアで会ったでしょ、麻美。彼女、逗子に住んでるの。だからよくこの海をふたりで見たりしてたんだ。それで逗子の海が見たくなっちゃって」
「そうなんだ」
 富岡は頷いた。
「なんだか風が冷たくなってきたね」
 この実は肩を富岡に預けるようにして甘えた。
「駅前のカフェにでもいく?」
「うん」
 ふたりは海岸をあとにして駅へ向かうことにした。
 しばらく身体を寄せ合うように歩いていたこの実が、突然その足を止めた。
「そうだ、ちょっと寄り道していい?」
「いいけど、どこへ?」
 この実は富岡の眼をじつと見つめると口を開いた。
「麻美と一緒にいた結人。彼も逗子なの。彼のところにちょっと寄ってみようかなって」
「近いの?」
「うん、ここからすぐだよ」
 この実は頷くと歩きはじめた。
 住宅街の中を縫うようにしばらくいくと、やがて左手に山肌に沿って木立が目立つようになってくる。さらにその歩を進めると参道が見えてきた。
「ここなの?」
「そう。結人の家って神社なの。なんでも鎌倉の終わりごろから続いているんだって。ちょっとお参りしていこうよ」
 この実は微笑みながら頷くと、そのまま綱神社の鳥居を潜っていった。何歩か歩いて振り返ると富岡は鳥居の手前で立ち止まったままだった。
「どうかした?」
 この実はそんな富岡を不思議そうに見つめた。
「いや、なんでもないけど……」
 富岡はまるで鳥居のところで途惑っているようにもじもじとしていた。
「ほら、こっちだって」
 この実は微笑んだままその富岡の両手を取ると、引っ張るようにして鳥居を潜らせた。
「ねぇ、なんか変だよ」
 腕を組むようにして歩きながらこの実は富岡の顔をじっと見つめた。
「なんでもないよ」
 まるでいい訳でもするように富岡は頷いてみせた。
 陽がもう落ちようとしている境内は暗くなりはじめていた。本殿にある灯りが境内をぼんやりと照らしている。もうすぐそこまでやってきている冬の冷たさを思わせる空気に満ちて、あたりは静まりかえっていた。ふたりが踏む玉砂利の音が静かに響く。
 ふたりが本殿の前までいくと、その背後から声をかけられた。
「よく来たね」
 衣冠単姿の宮司、結人の父親哲人だった。
「こっちへ」
 哲人はふたりを先導するように本殿の階段を上りはじめた。
「さぁ、いこう」
 この実は富岡と腕を組んだままあとに続いて階段へと歩を進めようとした。
「でも……」
 富岡の足は重かった。
「せっかくだもの。いこうよ」
 この実は微笑みを浮かべたまま富岡を半ば引っ張るようにして階段を上りだした。富岡は引き摺られるようにそれについていく恰好になった。
「ねぇ、どうしたの?」
 二段ほど上ったところで、この実の表情が変わった。真顔で富岡の眼をじっと見つめる。
「なんでもないって」
 富岡は首を横に振ると、仕方ないといった感じでこの実と一緒に階段を上っていった。
 そんなふたりのやりとりをよそに哲人は階段を上り終えると、履き物を脱いでそのまま本殿の中へと入っていった。この実と富岡も同じように靴を脱ぐと本殿へと入った。
 仄暗い本殿の中。板張りの床の奥に祭壇があった。その祭壇を挟むように灯りが頼りなげに灯っている。哲人は祭壇を背にしたままふたりが中に入ってくるのをじっと待っていた。
 本殿の左側には胡床に腰を下ろしている麻美と結人の姿があった。
「いたんだ」
 この実はふたりを見つけると小声で頷きかけた。
「どういうこと?」
 富岡はいったいなにがどうなっているのか想像もつかずに、本殿の中を不安そうに見回した。
「さぁ、ここへ」
 哲人はすぐ前にある胡床を指し示した。
 この実は大きく頷くとそこに腰を下ろした。富岡も勝手が判らず、かといってほかになにをしていいのか決めかねて、同じように胡床に腰を下ろした。
 ふたりが腰を下ろしたのを確認すると哲人は結人に頷きかけた。
 結人は本殿の隅にあった台を持ってくると捧げるようにしてふたりの前に置いた。台の上には一尺ほどの幅の板状のものが乗せられていた。きちんとした形はなく、まるで空に浮く雲のような不格好なものだった。
 やがて哲人の祝詞がはじまった。低くしかし太い声で唱えられる祝詞が本殿の中に響いていく。
 仄暗い本殿に響く祝詞を聞きながらこの実は心が不思議に落ち着いていくのを感じていた。祝詞のひとことひとことそのものは解らないかったけど、しかしその言葉が心をゆっくりと満たしていく。まるでとても大きななにかに包み込まれていくような安心感すら抱いていた。
 満ち足りた気持ちのまま、ふっと隣の富岡はと見ると様子がちょっと違っていた。まるでなにかに耐えるように固く眼を瞑り、その顔は歪みはじめていた。
 額から頬にかけて冷たい汗が流れ落ちている。やがて膝の上で握り締めている拳が小刻みに揺れはじめた。しばらくするとその揺れは全身に伝わり、胡床ごとがたがたと揺れだした。
 その様子を見ていた結人がすかさず台の上にあった板状のものの覆いを外した。中から現れたのは鏡だった。その鏡がすぐに白く輝く光を発しはじめた。
 哲人の祝詞が続く。それにつれて富岡はさらに身体全体が揺れていく。そして鏡が発する光は青白いものへと変化していった。
 ガタン!
 突然、胡床が倒れる音が本殿内に響いた。
 富岡は胡床に座っていられなくなり、腰を落としたのだ。苦悶の表情を浮かべ、しかしなにかに耐えるように固く眼を瞑ったまま身体全体が震えている。
 鏡が発する光がすっと伸びていくと富岡の全身を包んでいった。
 まるでそれを待っていたかのように結人は立ち上がると、富岡の背後から台の上にあった鏡と同じ鏡をかざした。向かい合う二枚の鏡の間に富岡はいた。その富岡の全身を覆っていた青白い光が結人がかざした鏡にも伸びていく。
 すぐに二枚の鏡が発する青白い光が富岡の全身を包む。富岡は光に包まれたまま悶え苦しんでいた。
「きゃあぁぁぁ……」
 奇妙な叫び声が上がった瞬間、二枚の鏡が発する青白い光はいきなり消えた。
 そして富岡の全身の震えは止まった。
 それまで本殿内を満たしていた圧迫感もまた消え去って、静かな空間へと戻っていった。
「大丈夫?」
 膝をついたまま呆然としている富岡の肩を抱くと、この実はその顔を覗きこんだ。
 富岡はそれには答えず、ただ黙ったままじっと床を見続けている。まるでいま自分がどこにいて、いったいなにをしているのか。なにもかもがその頭から消え去り、自分自身をすっかり見失ってしまっているようだった。
「心配はいらない。すぐに自分を取り戻せるはずだ」
 いつのまにか祝詞を終えた哲人はふたりの姿をじっと見ながら、やさしくこの実に語りかけた。
「ねぇ、なにがどうなったの?」
 鏡を抱えたまま富岡の背後に立っていた結人に麻美は問いかけた。
 この実もまた振り返り結人の顔をじっと見つめた。
「昨日、研究室で話しただろう。なにか別の存在が彼自身を覆っているって。それを取り払ったといえばいいのかな」
 抱えていた鏡に覆いをかぶせて片付けながら結人は答えた。
「それって、祓ったってこと?」
 麻美が首を傾げた。
「麻美ちゃん、それともちょっとだけ意味が違うんだよ。結人が祓うことができるのは邪な悪意といったものだ。けれど、彼を覆っていたのはその邪な存在そのもの、あるいはその存在の身代わりのようなものだ。結人が祓うことができるものとは、まったく別の存在なんだよ」
 台の上に乗せられていた鏡に覆いをかぶせて同じように片付けながら、哲人がいった。
「あの、その鏡は?」
 結人と哲人のふたりが抱えている鏡を見て、この実が訊いた。
「これはね、姿見と影見といわれる鏡なんだ。一対のものでその邪な存在そのものを映し出して、鏡の中に閉じ込めることができる」
「それじゃ、直貴に憑いていた存在がそこの中に?」
 この実はまるで不吉なもの厭うように鏡を見た。
「うん、二枚の鏡の間の世界に閉じ込められたってことだね。あくまでも、そういい伝えられているなんだけどね」
 結人は頷いた。
「あああ……」
 富岡が声を漏らしながら、改めて床に腰を落とした。
「ねぇ、大丈夫?」
 この実はその肩をやさしく揺さぶった。
「おれ……、ここでなにしてるの?」
 富岡ははじめていまどこにいるのか気がついたように周りをキョロキョロと見回した。
「直貴だよね」
 この実は富岡の肩を抱いたまま、改めてその眼をじっと見つめ直した。
「ああ、そのつもりだけど」
 富岡は立ち上がるとすぐ横にあった胡床を広げた。
「それで、おれって、なにがあったの?」
 富岡はこの実の顔を見つめながら腰を下ろそうとして、上手く胡床に座ることができず、その場で引っ繰り返ってしまった。
「もうドジなんだから。でも、大丈夫。いつものドジな直貴に戻ったみたい」
 この実はホッとしたように笑った。

 昼どきのカフェエリアはいつものように混み合っていた。一面のガラス窓からは秋の終わりを思わせる陽射しが零れている。人いきれの中、賑やかな声が響いていた。
 そんないつもの風景にこの実はほっとしながら麻美と結人と一緒にランチを摂っていた。
「ねぇ、ひとつ教えて欲しいことがあるんだけど、そもそもなにが彼、直貴に憑いていたの?」
 手にしていたフォークを止めると、じっと結人の顔を見た。
 麻美もその答えが気になったようで同じようにその手を止めた。
「その姿が鏡に映るところ見たわけじゃないから、なんともいえないんだけどね。彼はなにかいってなかった? ほら、ここ最近知り合った人のこととか」
「そういえば財布を拾ってくれた娘のことを話してたな」
 この実はなにか思い出すように頷いた。
「その娘とこの実は会ったことあるの?」
 麻美が確かめるようにこの実の眼を見た。
「ないよ。そういえば、まったくないよ」
「その娘って、実在する人なのかな?」
 首を横に振ったこの実の顔を結人はじっと見つめた。
「ねぇ、そんなことってありえるの? その会ったと思っている相手が実在しない人だなんてことが」
「もう、なにいってるの。自分だってふつうじゃ説明できないこと経験しているじゃない。しかも、今回だって、だれが聞いたって眉に唾するような話でしょ」
 麻美はしたり顔でこの実を見た。
「この世は不思議なことだらけだと思っていた方がいいよ」
 結人がこの実に微笑みかけた。
「でもさ、いったいなんのために、存在しない人が直貴に憑いたりするわけ?」
「理由はぼくたち人間にはきっと理解できないかもしれない。ただ人を狂わせたり、迷わせたり、弄ぶことが望みかもしれない。あるいはぼくたち生きているものが持つかけがえのないなにかを奪いたいのかもしれないけどね」
「それってなに?」
 麻美は真顔で結人に訊いた。
「命そのものかな」
 結人はひとりごちるように呟いた。
「そんな奴らの正体ってなに?」
 この実は声を潜めて結人の顔をじっと見た。
「ものの怪」
「え?」
 麻美とこの実が声を揃えて首を傾げた。
「ぼくたち日本人は、そういって怪しいことを納得してきたんだ」
 結人は静かに頷いた。
「あっ、直貴だ」
 富岡が頭をかきながらテーブルへとやってきた。
「遅いんだから。ほら、もうほとんど食べ終わっちゃったでしょ」
 この実は頬を膨らませた。
「ごめん。なんだか財布を忘れちゃったみたいで」
 富岡はちいさな声でかしこまった。
「ほんとうにドジなんだから」
 この実はやさしい眼で富岡を見つめながら笑った。
はじめから

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