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ものがたり屋 参 聲 その 1

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

聲 その 1

 ねえ、
 ここだよ、ここにいるよ。
 聞こえる?
 こっちだよ。
 届いてるかな、ぼくの声は……。
 だから、ここだよ。
 こっちにおいでよ……。


「なんだかね、真っ暗なの。ただ、その声だけが頭の中で反響しているみたいで、眼を醒ましてもいつまでも反芻しちゃうの」
 潮風で乱れた髪を右手でかき上げると御津橋耀子はグラスに挿し入れられたストローに口をつけた。
 八月のそろそろ半ばになろうかという逗子海岸。建ち並んだ海の家の一角で本城麻美は耀子と向かい合って座っていた。海で戯れる多くの人たちの喚声が響き渡り、ときおり吹いてくる潮風と綯い交ぜになって、麻美を気怠い気持ちにさせていた。
 溶けて肥大になった陽がゆっくりと西へと沈んでいく用意をはじめたようだった。その陽射しにすこしずつオレンジ色が混ざっていく。
「ねぇ、麻美ったら、ちゃんと聞いてる?」
「もちろん、聞いてるって。だから声が聞こえるんでしょ」
「そうなの。このところ毎晩よ。声が聞こえて、それで眼が醒めてしまって。それもまだ夜が明ける前の時間だっていうのに」
「なんだか変な話ね」
「人ごとみたいにいわないでよ。おかげで寝不足なんだから。もう強烈な寝不足。どうしてくれるのって感じ。まったく」
 そういうと耀子はグラスを満たしていたジンジャエールを綺麗に飲み干した。
「ねぇ、呑んでもいいかな。というかアルコール抜きだといられないって気分だし」
「いいんじゃない。ビールにする?」
 どこまで真剣に聞いていいのかわからなかった麻美は一も二もなく賛成して、海の家の店員を呼ぶとビールを注文した。
「ねぇ、耀子。もしかしてまだ二十歳になってなくない?」
「なにいってるの。あとたった二日で誕生日だから大丈夫」
「え~、フライング」
 ふたりは笑いながら運ばれてきたグラスで乾杯すると、それぞれ口をつけた。
「で、声が聞こえるんだっけ」
 麻美が耀子の眼を覗きこむようにして訊いた。
「お陰で寝不足で困ってる。目蓋がピクピク痙攣しちゃうし、もう参ってる。どうしたらいい?」
「どうしたらって……。そうねぇ」
 麻美にそう口籠もって、海の方を見た。傾きはじめた陽を浴びて、それでも海は煌めいていた。その煌めきを眩しげに見つめながら、思い立ったように口を開いた。
「ねぇ、その声に聞き覚えないの?」
「ないわよ、そんなの。だってなんだかとっても幼い口ぶりなのよ。二十歳前のうら若い乙女がそんなちっちゃい子と繋がりがあるわけないし」
「それはそうよね」
 麻美は頷いた。
「マジで参ってるの。麻美、ほら知り合いにいるでしょ。なんていうのかな、この手の相談に乗ってくれそうな人」
「この手のって、どんな?」
「もう、いやね。解ってるでしょ。なんだか怪しい感じしない? だって何日も同じ声が、しかも眠っているときに聞こえてくるなんて」
「そうなのかな。その手の話なのかな……」
「本人がそういってるんだから、そうなのよ。だって、わたしにしてみたらなんだか気持ち悪いし……」
「そうね」
 麻美は生返事をしながらある人物のことを想い浮かべていた。 ──この手の話を相談するならあいつしかいないか……。
 麻美がその人物──久能結人に連絡をしたのは翌日のことだった。
つづく

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