ものがたり屋 参 刻 その 1
うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。
気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。
刻 その 1
時と時の間隙に墜ちるとき、
この世のあらゆるものをはじめて知ることになる。
その硲には別の次元がある。
その時の隙間には、そして永遠がある。
いつも朝はシャワーだったのに、なぜかこの日は湯に浸かった。
なぜそんな気になったのかよく判らなかったけど、もしかしたら朝の目醒めがすっきりしていなかったからかもしれない。いや、そんなものじゃないな。憂鬱で仕方なかったのだ、この朝が。このところ、朝はいつもこんな気分になる。
だからだろう、浴槽に湯を満たして、そしてそこに身体を沈めた。
そして……。
しばらく湯に浸かってから思い切って風呂を出た。
浴室の鏡に映る自分の顔を見ながら歯を磨き、顎のあたりを撫でて確認をしてから髭を剃った。なんだか妙に顔色が白っぽい。
──確かに健康的なタイプじゃないしな。
ひとりごちるとバスルームを出ようとして、カッターナイフが落ちているのに気がついた。なんだってこんなところに転がっているんだろう。さほど気にすることなくそれを手にリビングへいった。
いつものように身支度をしてから、リュックサックの中味を確かめる。今日は講義があるので、必要な本や資料を放り込んで背負った。
テーブルの上においてあったスマホを手にして家を出る。
眩しいほどの陽射しが直撃してくる。人によってはこの季節が気持ちいいと感じるかもしれないけど、ぼくはどちらかというと苦手だった。
木々が青々と茂りはじめて陽射しは強くなる。それにつれてぼくの心は逆に萎縮していくのを感じる。
──考えすぎよ。
ぼくにそういったのは南村この実だった。艶のある長い髪が綺麗な娘だ。
いつごろからだろう、親しくなったのは。後期のテストの準備でノートの貸し借りをしたのがきっかけだった。ぼくが日本経済史の講義を熱心にノートしているのを知った彼女が、一度ノートを見せてほしいと頼んできたのだった。
あれはクリスマス前だった。
デートなんていうのはおこがましいかもしれないけど、そのお礼ということでちょっとした店でふたりで食事を共にしたことがあった。
それから頻繁に声を交わすようになって、よく講義の合間に立ち話をしたり、カフェで話をしたりするようになった。
新しい年度がはじまって、ぼくはできたらその関係をもっと親密なものにしたかった。けれど春先はいろいろとやることがあって、なかなかふたりの時間を取ることができなかった。気がついたらゴールデンウィークになり、そして休み明けにはぼくの心の裡を打ち明けようと思っていた。
けれど、やはりなかなかそんな時間が持てないでいた。いや、決心がつかなかったといった方が正しいのかな。
──ねぇ、前向きでいけばいいじゃない。
彼女の笑顔を眩しく感じる。
ぼくは電車に揺られながら学校に向かう。
今日は彼女、この実は学校にいるだろうか?
それだけがぼくの心の裡を占めていた。だって彼女の笑顔が大好きだから。
ドアの近くに立つと外を眺める。家々がまるで飛び去っていくように見える。そのガラスの部分にぼくの顔が映っている。やっぱりどこかちょっと青白いかもしれない。
外の光が眩しければ眩しいほどその青白っぽさが際立って見える。
顔にかかる髪がちょっと気になる。
──もうちょっと伸ばして、それから髪をまとめて縛っちゃうか。
でも、なんとなく額のあたりを開けっぴろげにする気にもなれずにこんな髪型のまま、もうずっと過ごしている。見馴れてしまえば、きっとそれまでだ。髪は垂らしたままの方が落ち着く。
学校に着くと、まずこの実を探した。
キャンパスは行き交う学生でいっぱいだった。新入生の顔はすぐにわかる。まだ希望に眼を輝かせている。やがてその眼から生気が失せていくのは毎度のことだ。去年のぼくだってそうだったからそれはよくわかる。
講義が本格的にはじまって大学生活がはじまると、すぐにうんざりする。中にはサークル活動に精を出すやつ、バイト生活に足を突っ込むやつ、彼女捜しに血眼になるやつもいる。ここでまともに勉強をするやつなんて、ほんのひと握りしかいない。
ぼくはどの部類だろう?
講義は真面目に受けていたけど、だからといって勉強に身が入っていたわけじゃないし、もしかしたらちょっと変わってた存在なのかな。それはきっといまでもそうだ。
初夏を思わせる陽射したっぷりのキャンパスを俯き加減に通り過ぎるとぼくはカフェエリアに向かった。
テーブルのあちこちにいくつかのグループがいた。
その中にこの実がいた。
となりに座っているのは、たしか端賀谷玲奈という娘だ。ちょっと幼い感じの可愛いタイプだ。でもぼくの好みではない。ぼくはすこし大人びたこの実が気に入っていた。なんだろう、彼女に合わせるようにぼくもちょっとだけ背伸びしたいのかな。
「この前はいろいろとありがとう」
この実はテーブルの上のカップ手を伸ばしていった。そのカップにはアイスティーが入っている。彼女はいつもアイスティーだ。冬はこれがミルクたっぷりの温かい紅茶になる。
「もういいの?」
玲奈が笑顔で訊いた。
ぼくはこの実のとなりの椅子に腰を下ろして、ふたりの顔を代わる代わる見た。
「心配かけたけど、もう大丈夫」
「ああ、もうなにも心配ないよ」
ぼくもふたりに頷いた。
そこへ久能結人が通りかがった。
「あっ、結人。この前は助かったわ、ありがとう」
立ち上がるとこの実は久能に話しかけた。
久能はこの実の友だち、本城麻美の彼だ。ふたりがどんな付き合いをしているのかぼくはきちんと知らないけど、でもこれはきっと間違いない。ふたりはデキている。
じつはこの前、この実はシェアハウスを借りていて、そこでのトラブルを彼と麻美に助けたもらったことがあったのだ。
詳しいことを彼女は話してくれなかったけど、いろいろとあったらしい。いずれその口からきちんとしたことを教えてもらえることになるだろう。
いまはこうやってみんなと一緒に話ができるだけでいい。いや、できたらもっと親密になりたいのは確かだけどね。
「もう大丈夫なの?」
久能はじっとこっちを見るとこの実に訊いた。
「いろいろあったけど、いま実家だし。まぁそういう意味ではちょっと不自由でもなんの心配もなし」
そういってこの実は笑った。
そうなんだ。彼女はあれから実家に戻ってしまった。
「なにかあったら遠慮しなくていいから、いつでも相談してね」
久能はぼくの方を見ながらこの実にいった。
なんだか失礼な感じだ。
「うん。でもあの研究室、なんだかいくの躊躇っちゃう」
この実は笑いながらいって、また椅子に座った。
「そうよ、あのエレベーターちょっと古めかしくて、どうしてもあそこにいく気になれない」
玲奈も同意するようにいって、ふたりは顔を見合わせて笑った。
すぐに次の講義がはじまる。ぼくたちは教室に向かった。
教室に入ると席を探した。この実のとなりに座ろうとしたら、横から草加部紗亜羅がやってきて、半ば強引にそこに座ってしまった。
ぼくは仕方なく教室の端の席についた。
この実を挟むように玲奈と紗亜羅が座って、三人で講義がはじまるまでお喋りをしている。こういう友だち関係も確かに大切なんだろう。
ぼくとの時間は、ふたりの時間として大切にしてくれればいい。ぼくはそう思うことにした。
「ねえねえ、なんだか警察の人が学校に来ているみたい」
紗亜羅が小声でふたりに話している。
──警察?
「え、なにかあったの?」
玲奈があたりを伺うようにして訊いた。
「よく知らないけど、なにかの事件なのかな」
「また、紗亜羅ったら、けっこういい加減なんだから」
この実が紗亜羅にいった。
「そんなことないって」
紗亜羅が口を尖らせている。
「だったらちょっと詳しく調べてみる」
紗亜羅はそういってノートを広げた。そういえば紗亜羅はやけに学内の噂話に詳しいところがあった。どんなグループにも情報通といった存在がいるけど、どうやら彼女は学内の放送局を自認したがっているようだ。
その情報が正しいのかどうかは、だからかなり怪しいところはあったけど。
つまらない講義だった。いや、どれもつまらないか。でも、この西洋経済史という講義はとくにつまらなかった。せっかく経済学部に入ったというのに、ぼくは去年の夏休みを境に興味をすっかり失ってしまった。
それはどうしてだろう?
──興味対象がほかにあったから?
だとしたら、それはなんだ?
玲奈と紗亜羅は午後の講義はないからとふたりは帰っていった。
この実は午後も講義があったので、ぼくたちはカフェエリアで昼食を摂ることにした。彼女はカレーを選んだ。
この実はめずらしく黙々とカレーを口に運んでいた。長い髪を耳にかけて、スプーンでていねいに口に運ぶ。ひと口ひと口とてもていねいに食べている。そんな彼女を見ているだけで、なんだかぼくの心は満たされていく。
それってなんだかおかしいかな?
ふたりでもっと会話を楽しんでもいいのかもしれない。でもこういう静かな時間もぼくは好きだ。
「あ、この実」
本城麻美だった。
確か、彼女は文学部だからこの実とは講義があまりタブっていない。だから一緒に講義を受けることは滅多にないけど、高校のころからの知り合いということもあって、とても親しい。
「麻美、今日はこれから?」
この実はスプーンを持つ手を止めると麻美に訊いた。
「今日は午前も午後もぎっしり。ここいい?」
そういってこの実のとなりに腰を下ろした。パスタの乗ったトレイをテーブルに置いた。
「ねぇ、麻美。知ってる? 警察の人が来てるんだって」
この実は麻美の顔をじっと見つめると小声でいった。
「そうだってね」
麻美はさもあたり前のようにただ頷いた。
「やだ、なにか知っているの?」
この実は前屈みになり、あたりを伺うようにして麻美に訊いた。
麻美はフォークでバスタを突きながら口を開いた。
「行方不明の娘がいるらしいの。それで調べてるみたい」
「え? それって大変じゃない。ねぇ、だれ?」
「わたしはよく知らないんだ」
麻美はそういってこの実の眼をじっと見た。
──それはぼくだって知りたい。
思わず聞き耳を立ててしまった。
「ねぇ、知ってるんでしょ?」
この実は小声でいった。
「同じ学部の娘らしいの。名前はなんていったかな?」
麻美はそういうとなにか思い出そうと首を傾げた。
「間瀬っていったかな……。研究室でちょっと名前聞いただけなんだけど」
──間瀬!
もしかして……。
「美咲だったかな。そう、間瀬美咲っていう娘みたい。なんでもゴールデンウィークの前かららしいよ」
「どういうこと?」
この実は探るように訊いた。
ぼくもつい前のめりになる。
「実家に帰省するはずだったのに、戻って来ないからということでご両親が届けたみたい」
──間瀬美咲。
なぜかその名前を聞いた瞬間に彼女の顔がぼくの頭の中に浮かび上がってきた。
ショートカットの髪が印象的なちょっと大人びた娘だ。
──なぜだ?
なぜ、ぼくは彼女の顔を?
どうしてなのかまったく心当たりはないのに、ぼくはその娘のことを知っているみたいだった……。
──どうして?
ぼくは呆然と立ち上がった。
小声で話をしているふたりをその場に、ぼくはそのままふらふらとキャンパスに向かって歩き出した。
──間瀬美咲……。
彼女の笑顔を思い浮かべながら、それでもぼくは混乱したまま歩く。
気がつくとぼくの心の裡で間瀬美咲は恐怖に怯えた顔へと変わっていった……。
つづく
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