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ものがたり屋 参 蜉 その 1

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

蜉 その 1

 虚ろい漂う。
 その揺らめきは夢現の硲を彷徨う。
 こちらとあちら。その境目はどこにあるの?
 それこそ漂う虚ろい。

 川沿いに立つ桜の木にやっと蕾が見てとれるようになった。やがて訪れる春を想わせるこの蕾を見ながら川沿いを散歩するのは、本城麻美にとっては、朝の散歩とともに春を待つまでの楽しみのひとつだった。
 田越川沿いに立ち並ぶ桜の花が開きはじめると春本番になる。
 それまであとどれぐらいだろう? まだ陽が昇りはじめる前の早朝、めずらしく早起きしてしまった麻美は、ひとり川沿いを歩いていた。
 長い髪を垂らしたまま、麻美はジーンズにダウンを着込んでいた。両手を顔の前で合わせるようにして息を吐きかけた。息の白さが春を待つ前の寒さを教えてくれる。
 ふと川面に眼をやると静かに流れる川の上を朝靄が漂っていた。薄らとしたその靄をじっと見つめていると、いまいるここが現世なのか、それとも夢の中なのか一瞬解らなくなる。
 朱色に塗られた仲町橋のたもとまで来ると川面を漂う朝靄をあらためて見た。そのとき朝靄が大きく揺れた。その靄に紛れるように人の影が見えた。
 ──まさか、川に人がいるはずはないよね。
 このあたり田越川は潮の加減もあるが浅い。しかし川の中に人が立つ場所などあろうはずもない。
 麻美は眼を凝らしてみた。ときおり揺れる朝靄だったが、やはり人の気配はなかった。
 ──けれど……。
 なぜか麻美の心には人影のイメージがそのまま焼き付いていた。見えることなどなかったはずの人影……。
 白装束の女性の姿が残像のように麻美の心に残っていた。その姿を辿ろうとすると、その表情までも見て取れるようだった。もちろん実際にそんな姿など見えたはずはないのに……。
「散歩かい?」
 ふいに声をかけられ麻美は振り返った。
 腰の曲がった老婆が右手に杖を突いて立っていた。どこが眼でどこが口か判らないほど見事なまでに皺で覆われた顔。かなり薄くなった白髪を結い上げ、分厚い褞袍を纏っている。半ば擦り切れたような褞袍の足下は足袋に草履を履いていた。
「はい」
 麻美は思わず頷いた。
「陽の出る前からご苦労さんだね」
 そういって老婆は微笑んだ。皺くちゃの顔がさらに皺でまみれる。
「なんだか眼が醒めてしまって」
「朝は気持ちええだろ?」
「冷たい空気が身を引き締めてくれるみたい」
「そうだな」
 老婆は杖を両手で支えるように持つと麻美に並ぶように立ち、そこから田越川を見つめた。
「ずっと逗子なんですか?」
 麻美の胸の高さよりも下にある老婆の眼を見た。
「もうずいぶん長いことになるな……」
 老婆はひとりごちるようにいった。
「それじゃ、このあたりの景色もすっかり変わったんでしょうねぇ」
「変わったなんてもんじゃない。まったく様変わりしちまったかな」
 老婆はどこか遠くを見るような眼つきになっていた。
「家はどこかね?」
「わたしは逗子六丁目です」
「どのあたりかな?」
「幼稚園とか小学校のあるあたりです。つきあたりを左にいけば東郷橋があって、そのまま海までいけます」
「東郷橋……。あのあたりもすっかり変わったからね。お屋敷らしいお屋敷は、いつのまにか住宅地になっちまった」
 老婆はそういうとじっと眼を瞑った。
「さてと、そろそろお暇するかね」
 老婆は右手に杖を持ち替えるとじゃりじゃりと草履を引き摺る音とともに仲町橋を渡っていった。
 その後ろ姿がやがて見えなくなると麻美はあらためて田越川に視線を移した。いつのまにか立ちこめていたはずの朝靄が綺麗に消えていた。

 その日の午後。麻美は幼なじみでもある久能結人と渚橋近くのカフェにいた。
「ごめん、待った?」
 大学の友だち、南村この実がふたりの姿を見つけると、足早にやってきた。長い髪を揺らしながら、ふたりと向かい合うように座った。
 真っ白なダウンコートを脱ぐ。濃いブラウンのタートルネックにジーンズといたってラフな恰好だった。
「ここから海が見えるんだね」
 ガラス窓の向こうには田越川を挟んで逗子湾が見える。この実はまるで遠足に出かけた子どものようにその景色を熱心に見つめた。
「テラス席はさすがにまだ寒いかなと思って」
 麻美はそんなこの実の横顔を見ながらいった。
「いいなぁ。やっぱり海が近くにあるっていいよね」
 この実は呟きながら頷いた。
「それで聞きたいことって?」
「うん、前からいってたと思うけど、引っ越し先探してるんだ。できたらシェアハウスがいいかなって」
 この実はふたりに向き合うといった。
「シェアハウス?」
「できたらね」
「それでどこか見つかったの?」
 運ばれてきたホットチョコレートをスプーンで掻き混ぜながら、この実は麻美の顔を見て頷いた。
「できたら逗子がいいと思って、探しているところなの。まだ決まりって感じじゃないんだけど、なんとなくいいなぁってのがあってね」
「それで?」
 麻美は軽く首を傾げた。麻美の長い髪が揺れる。
「逗子のこと、いろいろ聞きたくて」
「それはいいけど、結人は?」
「だって由緒正しい神社の家で育ったんだから、もう逗子のことはバッチリじゃない?」
「由緒はともかく、確かに家は古くからあるね」
 結人は微笑んだ。すこし伸びた髪がくせ毛のせいで巻き毛になっている。
「ずばり、逗子ってどんな街なの?」
 この実は身を乗り出すようにしてふたりの顔を交互に見た。
「海のある、夏を想わせる街かな」
 結人の答えに、麻美もただ頷いた。
「東郷平八郎の別荘があったり、ほら徳冨蘆花だっけ、住んでたんでしょ」
「なんだ知ってるじゃない」
 麻美が頷いた。
「でもさ、結人の神社って、いつだっけ、鎌倉の終わりごろとかいってなかった?」
 この実は結人の眼を見た。
「古いといえば古墳だってあるよ、逗子には」
「古墳?」
 この実は驚いたような顔に変わった。
「県内最大の前方後円墳」
 結人は笑顔で頷いた。
「奈良時代からの寺もあるしね」
「そうなんだ」
 この実は軽く溜息をついた。
「でも、となりの鎌倉は鎌倉時代の、そんていえばいいの、首都みたいなものだったんでしょ?」
「鎌倉時代か……」
 麻美は頬杖をついて窓から海を眺めた。
「そういういい方をしてよければ、このあたりも鎌倉武士たちが馬に乗って駆け回ってたんだよ」
「え? そうなの?」
「そうそう、逗子の浜で流鏑馬したり、この先の鐙摺には頼朝の愛妾が住んでたりね」
 麻美は真顔で頷いた。
「こんなところに?」
「奥さんの政子に見つからないようにだって。鎌倉の近くにいたときには見つかって大変だったらしいから」
「そうなんだ。意外」
「この川、田越川っていうんだけど、平清盛の曾孫の平高清がこの河原で処刑されている」
 結人は真顔でいった。
「処刑って……」
 この実は顔を曇らせた。
「承久の乱のあとにも、三浦胤義の子どもが四人やっぱり処刑されている」
「河原で処刑って……、そんな時代もあったのね……」
 この実は溜息をついた。それはすこし重かった。
「でも、逗子は海のある街」
 麻美は明るくいってみせた。

 川面を朝靄が漂う。
 くっきりとした白い霧ではなく、ぼんやりとした靄。川面の流れが見えそうで、それでいてはっきりと見ることはできない。
 まるで現世の境をまるで暈かそうとするように朝靄が漂っている。
 そっと耳を澄ましてみても田越川の流れは聞こえてこない。けれど漂う朝靄が川の流れをそれとなく知らせてくれる。
 ときおりその朝靄が揺れる。まるで風に吹かれたように揺れる。
 そこに白い影が見えそうで、しかし見て取ることはできない。
 結人とこの実と会ったのは一週間ほど前のことだった。この日も麻美はまた朝早くに眼が醒めてしまった。そしてまたこうして田越川にそってその歩を進めていた。
 風の芯がまだ凍えそうなほど冷えている。陽射しがすこしずつ強くなってきているはずなのに、まだその陽はその姿を現していなかった。
「また散歩かい」
 振り返るとそこにこの前話しかけてきた老婆がいた。皺だらけの顔でじっと舐めるように麻美の顔を見つめている。
「ええ。おばあさんも?」
 麻美は軽く微笑んだ。
「わたしはお務めだからね」
 老婆はそういうと杖を突きながら歩き出した。分厚い褞袍の足下はやはり足袋に草履だった。ゆっくりと仲町橋へと向かっていく。
 麻美もそれとなくついていく。
「お務めって、なんです?」
 ゆっくりと歩く老婆の後ろから麻美は声をかけた。
「いろいろだね」
 老婆の答えは素っ気なかった。
「朝早くから?」
「朝も晩もないわね」
 老婆はそういいながら傍らの桜の木に眼をやった。
「蕾がすこしずつ」
 麻美の言葉に老婆はただ頷いた。
「あとひと月はかからんかね、満開までは」
 枝から顔を覗かせはじめた蕾をひとつずつていねいに観ていく。
「お山の桜も蕾が出てるかね」
 老婆は田越川の向こうに眼をやった。
「桜山ですか?」
 田越川の南東側にある桜山には、その名の通り桜の樹が多く、満開になるとあたりは桜色に染まる。
「知ってるかね?」
 老婆は振り返ると麻美の顔をじっと見つめた。
「なにをです?」
「桜は骸を抱いて咲くんだわ」
「え?」
「だれに教えられたか、いやなにかで読んだか。桜は骸を抱いて咲く」
「そんな……」
「骸たちの想いを花にする。それが桜なんだわ」
 それだけいうと老婆は朱色の仲町橋をじゃりじゃりと草履を引き摺る音とともに渡っていった。
 立ちこめた川面の朝靄がその後ろ姿を消していく。
 麻美はいま夢現を彷徨っているような、そんな気になり、ただ立ち尽くことしかできなかった。
つづく

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