ものがたり屋 参 蜉 その 2
うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。
気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。
蜉 その 2
虚ろい漂う。
その揺らめきは夢現の硲を彷徨う。
その揺らめきはだれを誘う?
揺らめくその境目の向こう側は?
それこそ漂う虚ろい。
まるで季節を勘違いしたような暖かさだった。
春に街全体が様変わりする前のほんの一瞬だけど、慌てん坊の神様が季節のスイッチを入れ間違えたんじゃないかと思ってしまうほど、その日の午後は陽射しが強かった。
買い物帰りになんの気なしに麻美は田越川沿いを歩いて帰ることにした。
清水橋から川沿いをゆっくりと歩いて帰る。
「ほら、あっちだ」
川から声がきこえた。
麻美は気になって川を覗いてみると、その暖かさを待ち望んでいたかのように子どもが三人ほど河原にいた。手にはタモやバケツを持ち、Tシャツ姿にサンダル穿きで川の中を歩き回っている。
どこから河原に降りたのか、はっきりと判らないけど、子どもたちの突飛な思いつきには叶わない。川に下りたいと思えば、どんな方法だって可能だ。
「そういえば河原に降りる階段があったなぁ。ちょっと離れているけど」
麻美は河原を勝手気ままに歩き回る子どもたちを見て、つい頬を緩めた。
しばらく河原を動き回る子どもたちを見ていた麻美はやがて歩きはじめた。川沿いの桜の蕾は綻びはじめていた。薄らと桃色をした蕾や、緑色の蕾たち。花になったり葉になったりするんだろう。
「なに?」
そのときスカートの裾を引っ張られて麻美は思わず振り返った。
そこにいたのは子どもだった。まだ幼い。背丈は麻美の腰に届くかどうか。着物を着た子どもがまっすぐな眼で麻美をじっと見つめていた。
「どうかした?」
麻美は思わず首を傾げてその子の顔を見つめ直した。
「こっちだよ」
また河原から声が聞こえた。その声を追って川の方を見やってから向き直ると、その子の姿は消えていた。
──いたはずだよね、子どもが……。
麻美を見つめていたまっすぐな視線が脳裏に焼き付いている。
「か・ず・き」
川から子どもの大声が聞こえてきた。
「一輝、一輝」
さかんに名前を叫んでいる。
河原を覗きこんでみると、ついさっき見かけた子たちが名前を呼びながらあたりを歩き回っていた。
「どうしたの?」
麻美は心配になって声をかけると、タモを手に持った子が泣きそうな顔で麻美を見つめた。
「一輝が、一輝がいなくなっちゃった……」
「だって、さっきまで一緒だったんでしょ?」
タモを持った子が大きく頷く。
「カエルのたまご見つけたって、あっちにいったはずなのに」
そういってタモで清水橋の方を指した。
「いないの?」
「どこにも……」
タモを持った子とバケツを持った子は寄り添うようにして、ただ泣きそうな顔で麻美を見上げた。
「早く見つかるといいんだけど……」
麻美はひとりごちるようにいった。
「その子、小学生だって?」
結人は一ノ倉の暗がりの中で、和綴じの古書の頁を繰りながらいった。
天井からぶら下がっている裸電球が揺れるたびに、影が動く。湿っぽく埃に満ちた蔵の中。どこか現実離れしたこの場所にいる結人を見ていると、麻美はなぜか落ち着いていく自分を感じていた。
「五年生だって。滝元一輝くん」
しきりに頁を繰っている結人の横顔を見ながら麻美は頷いた。
「すぐに知らせたんだ?」
「ほら清水橋なら近くに交番があるでしょ。だからすぐに。でも、やっぱり見つからなくて……」
麻美は力なく俯いた。
「きっと見つかるよ」
結人は顔を上げると、麻美を見た。
「そうだよね」
自分を納得させようと麻美は頷いた。
結人はそんな麻美の様子を見て、また手にしている古書に眼を落とした。
「ねぇ、なに読んでるの?」
「吾妻鏡とか、あとは武蔵国異聞拾遺集とかね」
「おかしな話だよね、大学で量子力学を勉強している結人が、そうやって古書をさらっと読めるなんて。わたしなんか文学部のくせに吾妻鏡をきちんと読み下させないっていうのに」
麻美は感心したように頷いた。
「子どものころから読んでるから、なんとなくかな」
「でも、なぜ吾妻鏡?」
「ほら、前にこの実に逗子のことをあれこれ聞かれただろう。それでちょっと気になることがあってね」
麻美は結人の顔をじっと見つめて首を傾げた。
「気になるって、なに?」
「田越川についてなにかないかと思ってさ」
「田越川か……。ねぇ、どうして川って街のそばにあるんだろう?」
麻美は胸の前で腕を組んだ。
「人には水が欠かせない。飲料としてはもちろんだけど、農耕にも必要だし、魚という食料だってそこにある。ものを運ぶこともできるしね。だから人が集まって、集落ができる」
「確かにそうだけど」
「ときに川は氾濫したりするだろう。川って恵みでもあり、禍でもあるんだ。そういう意味では一番身近にあって欠かせない存在なのに御することが難しい存在でもあるんだ」
麻美は結人の言葉にじっと耳を傾けた。
「だから日本人は、その川の存在になにかを感じたに違いないんだ」
「なにかって、なに?」
麻美は身を乗り出すようにして訊いた。
「神聖なものっていっちゃえばいいのかな。日本人は自然そのものに神を感じるだろう? だから川の存在はもちろんだけど、その流れにもさまざまな想いを持つようになった」
結人は手にしていた古書を閉じた。
「それじゃ河原で処刑するのはどうして?」
麻美は首を傾げた。長い髪が揺れる。
「鴨川の川原に最初の晒された首は平将門だね。確か七条河原だったかな。届けられた首が晒されたんだ。それは見せしめだよね」
「だから河原なの?」
「人通りがあって、多くの人たちが見られるからといわれている。でも」
「でも?」
結人は静かに頷いた。
「それだけじゃないと思うよ。その当時、なによりも忌み嫌われていたものが血の穢れだった」
「穢れ?」
「そう穢れだよ。だから朝廷や公家たちは決して自ら刀を持つことはしない。血の穢れ、死穢とは関わらないようにしていたんだ。日本人の心の奥底にある感覚だよ。それはいまのぼくたちにもいえることだ」
「死を恐れるということ?」
「そうだね。死に触れると穢れるだけではなく、それは伝染すると恐れていたんだよ」
「もし触れてしまったらどうするの?」
「禊ぎをするんだ」
「禊ぎ?」
麻美は不思議そうな顔をした。
「簡単にいうと清い水で洗い流すんだよ。祓うために清める。ほら、いまでも葬儀のあとに塩を振るだろ。あれもそのひとつだ。塩は海を象徴するもので、だから清い存在なんだよ」
「海の水の代わりなんだ」
「だから川の流れにもやはり同じ意味はある」
「川は禊ぎをする場所でもあるということね」
結人は大きく頷いた。
「それと、もうひとつ。川はこの世とあの世の境でもある」
「どういうこと?」
「三途の川っていうだろ。それだよ」
その翌日。
麻美はまた朝早く眼醒めて、まるで誘われるように田越川へと向かった。
季節が逆戻りしたような寒い夜明け前だった。風の芯に氷雨が混ざっているんじゃないかと思うほど冷たかった。
朝靄が濃い。川の両岸は判るのに、その流れは見えず、その代わりに朝靄が揺蕩っている。川沿いの桜の蕾はかなり大きくなっていた。中には緑色の葉や桜色の花びらが綻びはじめているものもあった。
桜の樹が建ち並ぶ川沿いを歩いていくと、朱色の仲町橋が見えてきた。朝靄の中にまるで浮いているように見えた。
冷たい春風がその朝靄を大きく揺らす。
麻美は着ていたダウンジャケットの前で腕を組んだ。その寒さに思わず立ち竦んでしまう。長い髪の芯まで凍ってしまいそうだった。
じゃりじゃり。
草履を引き摺るような音が聞こえて振り返ると、そこに老婆がいた。右手に杖を持ち、一歩一歩、なにかを確かめるように歩いてくる。いつもと同じ分厚い褞袍の足下はやはり足袋に草履だった。
「これはまた早いのう」
老婆の皺だらけの顔がさらに皺でまみれる。
「おはようございます」
麻美は思わず頭を下げた。
「まだ陽が出るまでは、間があるかな」
老婆は立ち止まると杖を両手で持ち直した。
「今日はなぜか朝靄が濃いですね」
麻美の言葉に老婆はただ首を傾げた。
「まだ刻が合ってはおらぬかな」
「刻が合う?」
「なに、世迷いごとじゃ」
麻美は軽く頷くとそっと溜息をついた。
「なにか心配でもあるか?」
老婆は皺で刻まれた眼で麻美をじっと見つめた。
「ご存じないですか、子どもが行方不明になっていて」
「この川でか?」
「ええ、そうです。川で遊んでた小学生の子なんですけど」
「小学生?」
「小学五年っていってたから、たぶん十歳ぐらいかな」
「なるほど。まだ幼いわな」
老婆は両手で杖に凭れるようにして川の方を見やった。
黙ったままじっと川を見つめる。東の空が黄色くなりはじめ、それにつれてすこしずつだけど朝靄が薄れていく。相変わらず風は冷たい。その風が朝靄を揺らす。
それまで朝靄が隠していた川面がそれとなく判るようになってきた。
そのときだった。河原に白く濃い影が見えたのは。
まるで河原を走り回っているような白く濃い影。
「あ……」
麻美は思わず声を上げた。
「どうかしたかね?」
老婆がのんびりとした声で聞く。
「いま、子どもの影が……」
麻美は仲町橋のたもとまで歩み寄った。あらためて川をじっと見つめる。まだあたりを漂っている朝靄のおかけで川の流れまでは見えなかった。
「なんでもない」
老婆がゆっくりと麻美の傍らに歩み寄ってきた。
「なんでもないって?」
麻美は老婆の顔を窺うように見た。
「ああ、なんでもない」
老婆は皺だけの顔で頷いた。
──か ず き……。
どこか遠くから声が朝靄に紛れるように谺してくる。
「え?」
麻美はあらためて川面を見つめた。
──か ず き……。
ゆっくりと朝靄が薄れていく。それまで浮かんでいるように見えた朱色の仲町橋の向こう側が見えるようになってきた。
「でも、いま声が。声が聞こえませんでした?」
「はて、これでも耳はいい方だがね」
老婆はまるでなにかはぐらかすように笑った。皺だらけの顔がさらに皺で歪んだ。
「心配せんでもいい。そんなに簡単に渡れるものではないわ」
老婆は麻美の顔を見つめたまま、ただ頷いた。
「どういうことです?」
「なに、お務めだわ」
老婆の皺で刻まれた眼が、じっと麻美を見つめる。
東の空からひと筋の光が零れてきた。その陽射しがまるで合図だったように朝靄がさらに薄れていく。
「さてと」
老婆は杖を右手に持つと、薄れていく朝靄に紛れるようにして仲町橋を渡っていく。
気がつくと朝靄は消えていた。その後ろ姿を追っていたはずの麻美の眼に残ったのは、朱色の仲町橋だけだった。
はじめから つづく
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