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ものがたり屋 参 蜉 その 3

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

蜉 その 3

 虚ろい漂う。
 その揺らめきは夢現の硲を彷徨う。
 その揺らめきはなにを隠す?
 その揺らめきはだれを誘う?
 そしてその揺らめきの向こうへ。

 寒さと暖かさが交互に顔を出し、そしてふと気づくと春がそこまでやってきているようだった。ときおり吹く風にはまだ冷たさが残っていた。けれど陽射しには温もり以上に強さが感じられるようになっていた。
「どう思う? さっきの家」
 バス通りを歩きながらこの実が訊いてきた。
「どうって、この実はどうなの?」
 引っ越し先の候補を一緒に観てほしいといわれて、この実につきあった麻美だった。この実が見つけてきた候補の家は富士見橋のたもとから蘆花公園へと向かう途中にあった。
「正直いうとね、いまいちだったかな」
 この実は溜息交じりに答えた。
「そうなんだ」
「ねぇ、麻美はどう思った?」
「え、どうして?」
「だって、もしかしたら麻美も一緒に住むかもしれないでしょ」
 この実はそういって上目遣いで麻美の眼を見た。
「ショアハウスはいいと思うけど、わたしは無理だって」
 麻美は顔を横に振った。
「やっぱり、そっか」
 この実は俯いた。
「一緒に住む人も募集中なんだ」
 この実はつまらなさそうに歩きながら、麻美の言葉にただ頷いた。
 大きく右にカーブしている道をバスが窮屈そうにすれ違っていく。すぐに左側に田越川が見えてきた。
「あそこにある碑はなに?」
 バス通りの右奥に立っている碑を見ながらこの実が訊いた。
「あの奥にね、お墓があるの。六代御前の」
「六代御前?」
「そう、平清盛の曾孫の平高清だったかな」
「平家って壇ノ浦で滅んだんじゃないの?」
「そのときに京で捕まって、しばらくは仏門に入ってたんだって。それが……」
「それが?」
 この実は首を傾げた。
「頼朝が亡くなったあとになって処刑されたんだって」
「この前、聞いた話のこと?」
「そうよ。ちょっと話したよね」
「河原で処刑されたって」
「そう伝えられている」
「この川の河原でなのね」
 この実はそういうと傍らを流れる田越川をじっと見つめた。
 やがて田越橋が見えてきた。
「駅に戻るんだよね。どうする?」
 田越橋の交差点で立ち止まると麻美が訊いた。
「どうするって?」
「このまま川沿いにいくこともできるし、バスが通ってる道でもいけるし」
 この実は眼の前を通る車を首を左右に振って見てから口を開いた。
「せっかくだから川沿いにしよう」
 麻美は笑顔で頷くとそのまま田越橋を通り過ぎた。すぐに川に跨がるちいさな歩道を渡る。今度は右側を田越川が流れる。
「このままいけるの?」
「そうだよ、京急の駅までいけるんだ」
 細い道が川に沿って緩やかに左へとカーブしていく。しばらく歩くと川沿いに立つ桜の樹がその眼に飛び込んできた。
「あ、桜」
 この実が嬉しそうな声を上げた。
 川沿いに桜の木が立ち並ぶ。いくつかの蕾は開いて桜色の花をつけている。
「満開になったら綺麗だろうねぇ」
 この実は眩しそうに川沿いの桜を見つめた。
「そりゃね」
 麻美がまんざらでもなさそうに頷いた。
「ねぇ、あの朱色の橋は?」
 咲きはじめた桜の花の向こうに朱色の橋が見えた。
「仲町橋」
「桜に朱色の橋か。なんだかとっても似合ってる感じ」
 朱色の仲町橋を過ぎたところで河原に人だかりができているのが見えた。清水橋にはパトカーも駐まっている。回転している赤灯が不吉な色に思える。
 麻美は川を覗きこんでいる中年の女性に声をかけてみた。
「どうかしたんですか?」
「またよ。子どもが行方不明になったって……」
 その女性は麻美の顔を険しい顔で見返した。
 河原には制服を着た警察官と何人かの大人がいて、あたりを探していた。
「ねぇ、どうしたの?」
 この実が不安げな顔で訊いた。
「ちょっと前にこの河原で遊んでいた小学生が行方不明になったことがあったの」
「え、行方不明? だってこんな街中で?」
「そうなのよ。どこからでもちゃんと見通すことができるはずなのに。それがまた行方不明になったみたい」
「そんな……」
 この実は二の句が継げずに押し黙ってしまった。
 麻美はあたりを探し回っている様子を、ただ黙って見ていることしかできないもどかしさに苛立ちを覚えていた。
 傾きはじめた陽射しが麻美の眼にはなぜか妙によそよそしく感じられた。

「また、だって?」
 結人は手にしていた古書を閉じた。
「そうなの。それで……」
 麻美は縋るような眼で結人をじっと見つめた。
「それでね、気になることがあって」
 結人は麻美の視線をしっかりと受けとめると頷いた。
「ここ半月ほどかな。じつは朝早くに眼が醒めちゃって何度か散歩したの」
「散歩?」
「なぜかな桜が気になったのかもしれない。川沿いをね、京急の駅の辺りまで。朝早いからなのか朝靄が川面を覆っていて、なんだかちょっと幻想的な感じだったかな」
「放射冷却で地表が冷えると霧が出やすくなるんだ」
「なんだか結人に説明されると幻想的じゃなくなっちゃう」
 麻美は苦笑した。
「ごめん、話の腰折っちゃった?」
 結人は頭を掻いた。
「そんなときに限って出会うおばあさんがいるの。そうよ、朝靄が出てる日にはいつも会ってるような気がする」
「どんなおばあさん?」
 結人は身を乗り出した。
「背はとっても低くて、皺くちゃの顔してたかな。いつも褞袍着てて、そうそう草履履いてたわ。それがね、杖ついて歩いてるんだけど、その草履がじゃりじゃりって音を立てて」
 麻美は腕組みしながら結人の顔を見た。
「それで?」
「べつにたいした話はしないんだけど、いつも話し終えるとそのまま橋渡っていっちゃうの。それで気がついたら朝靄も消えていて。だれだろうって、ちょっと不思議で……」
「気になっているんだ」
「なんとなくね。朝靄の朝に会うおばあさん。いつもお務めだからっていいながら橋渡っていくんだよね」
 麻美は思い出し思い出し頷きながら話した。
「どこの橋?」
「え? ええっと、そう、仲町橋。あの朱色がなんとなく眼に残るのよね、おばあさんが消えたあと」
 結人はじっと腕組みをすると、ひとりごちるようにいった。
「会ってみたいな、一度」

 翌朝、ふたりは田越橋で待ち合わせをした。
 例によって朝早く眼が醒めてしまった麻美が結人に連絡したのだった。
 東の空はまだ薄らと白んだまま。春がどこかで足踏みしているようなそんな寒さがあたりを支配していた。吹く風の芯にはまだ氷のような冷たさが残っている。吐く息も白くなってしまうほどだった。
 麻美と結人は田越橋を通り過ぎると、川に跨がるちいさな歩道を渡った。川に沿って緩やかに左へとカーブする細い道を肩を並べるようにして歩いていく。
 やがてふたりの眼に咲きはじめた桜の樹が見えてきた。
 川面を朝靄が覆っていた。冷たい風に吹かれるたびにその朝靄が揺蕩う。
「朝靄」
「だから放射冷却だって。春とは思えないほど今朝は冷えているだろ。だからね」
 麻美はただ黙って頷いた。改めて寒さが気になったようにダウンジャケットの前で腕を組んだ。
 結人も同じように厚めのジャケットの前で腕を組んだ。
 そのままふたりは川面を覆っている朝靄を見ながらゆっくりと歩いていく。微かに吹いてくる風に揺れる朝靄。まるで白いなにかがその風と一緒に踊っているようにも見える。
 そのときだった。朝靄の中に白い影が見えて、麻美は思わず結人の肘を掴んだ。
「見た?」
「なに?」
「だって朝靄の中で白い影が……」
 ──か ず き……。
「あ、声も聞こえる……」
 ──か ず き……。
 どこか遠くで子どもの声が谺している。
「ねぇ、聞こえるでしょ?」
 結人を掴んだ麻美の手に力が入る。
 結人はただじっと朝靄を見つめたまま、しかしその首を横に振った。
「聞こえないよ。白い影も見えない」
「ほら、そこ」
 麻美は川面に漂う朝靄を指さした。そのすぐ向こうにはぼんやりと朱色が見えた。
 じゃりじゃり。
 草履を引き摺るような音が聞こえた。その音に麻美と結人は振り返った。そこにはやはりあの老婆がいた。
「相変わらず早いのう。今日はふたりづれかね」
 皺だらけの顔が笑みで歪んだ。
 やはり分厚い褞袍を纏っている。その足下は足袋に草履を履いていた。両手で杖を持っている。よくその杖を見てみると、どこかの樹の枝をそのまま持ち歩いているようだった。手にしているところは瘤のように膨らんでいる。その先は捩れて歪んでいたが、しかし杖としては充分の太さがあった。
「おはようございます」
 麻美は軽く頭を下げた。
 結人はただ黙って老婆の顔をじっと見つめたままだった。
「なにか?」
 結人の視線を受けとめて老婆が首を傾げた。
 麻美は口を挟むことができず、ただふたりの顔を交互に見ることしかできなかった。
「ここで、なにをしているんです?」
 しばらくしてから結人がやっとその口を開いた。
「なにといって、とくにないわ。ただ歩いているだけじゃ」
 老婆は軽く笑った。皺だらけの顔がさらに皺にまみれる。
「ここで、なにを護っているんです?」
 結人は皺の奥にある老婆の眼をじっと見つめた。
「おまえこそ、なにものじゃ?」
 老婆は探るように訊いた。
「ただの大学生ですけど」
「そうではあるまい。なにを掩っておる?」
「掩うって、なにをです?」
 老婆はすぐには答えず、じっと結人の眼を見つめ返した。やがて皺で刻まれたその瞳を閉じた。
 やがてその眼を開けると、結人を見つめたまま静かに口を開いた。
「社はどこじゃ?」
「社ですか。それであれば綱神社です。ぼくは宮司のただの息子ですけどね」
「綱神社か」
 老婆はただ大きく頷いた。
「ご存知ですか?」
 麻美が老婆の顔を覗きこむようにして訊いた。
「あたりまえじゃ」
 老婆はなにをいまさらという眼つきで麻美を見返した。
「お務めですか?」
 結人の言葉に老婆の視線が厳しいものになった。皺で見えにくくなっている筈の瞳がこのときばかりは麻美にもしっかりと見て取れた。
「社に蔵があるじゃろ」
「ええ、あります」
 結人は老婆の眼を見つめたまま頷いた。
「あそこに、もうかなり昔にわしが落とした杖があるはずだわ」
 老婆はそういうと楽しそうに笑った。顔の皺がさらに深くなる。
「かなり昔って?」
 麻美は不思議そうに首を傾げた。
「昔は昔よ。もう覚えていないほどの昔のことだわ。そのころ、橋といえば田越橋しかなくてな」
「田越橋ですか?」
「いまのではないぞ。街道は海沿いじゃったからな。橋の真ん中で躓いてのう。つい杖を落としてしもうた」
「それって本当に昔のことですよね」
 結人が念を押すように訊いた。
「もちろんじゃ。まだ人は街道を歩いておったわ」
「橋が流されたのは?」
 結人が尋ねた。
「そのずいぶん後だわ。一時渡し舟で渡っておった。その代わりに橋ができてのう。それがいまの田越橋じゃ」
「それって、いつの話?」
 麻美はそっと結人に確かめるように訊いた。
「いまの富士見橋のあたりにあったんだよ、田越橋が。流されたのは明治の何年だったかなぁ」
「明治って、じゃ、おばあさんは何歳なの?」
「歳は関係ないわ」
 老婆は右手に杖を持ち直した。
 東の空がゆっくりと明るくなってきていた。やがて陽がその姿を現すだろう。
「お務めなんですね」
 結人の言葉に老婆は静かに頷いた。
「そろそろ刻が合うころじゃな。橋を渡らねばならんわ」
「教えてください、お務めってなんですか?」
 麻美がなおも訊いた。
「なんじゃ、解ってはおらんのか」
 老婆は溜息をつくと、麻美と結人の顔を交互に見てから首を横に振った。
「だから、お務めって?」
 麻美は老婆の皺だらけの顔を見つめた。
「川はな、境なんじゃ。だからそこを渡る手助けをしておるのよ。あちら側でな」
「脱衣婆、ですか?」
 結人が確かめるように口を開いた。
「そんなんじゃないわ。だれが服を剥ぎ取るものか」
 老婆はそういってからからと笑った。
「人の命は儚いものだわ。あるかなきかのその命は、さながら蜉蝣のごときかな。だからせめて渡るのを助けておるのよ」
「それをずっとお務めしているわけですね」
「ああ、そうじゃ」
 結人の言葉に老婆はただ頷いた。
「靄はのう、その硲を隠してくれているだけじゃ。そういえば影がみえたといっておったのう」
「ええ、声も聞こえました」
 麻美が心配そうな顔で老婆を見た。
「そうじゃった。あれは迷っているだけじゃ。この河原でその硲を越えられずに、どうしていいのか靄の中で迷っているだけじゃ。だから気にすることはない」
「気にする必要はない?」
「ああ、わしがきちんと見ているゆえ、渡れぬものは渡れぬし、渡すことなどさせはせん」
 老婆はやさしい眼で麻美を見た。
 そのとき東の空からひと筋の光が零れてきた。
「おお、刻が合ってしまうわ。わしが渡り損ねると、ちょっと大変なことになるのでな」
 老婆は改めて杖を右手で持つとゆっくりと歩きはじめた。
 じゃりじゃり。
 草履の音がやけに大きく麻美と結人の耳に響いた。
 老婆は振り向くこともせずに朱色に塗られた仲町橋を渡っていく。零れてくる陽射しがすこしずつ広がってきた。それにつれて朝靄もゆっくりと薄れていった。
 しかし不思議なことに老婆の歩いていく先だけは濃いままだった。
「おおそうだ。あのふたりな。ほれ行方知れずの坊たち。そろそろ帰るころじゃって」
 朝靄の向こうから老婆の言葉だけが谺してきた。
 やがて朝陽が昇り朝靄は綺麗に消えていった。そこにはただ朱色の仲町橋だけがあった。
 気がつくと麻美と結人の耳には田越川の流れの音が聞こえてきた。
はじめから

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