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ものがたり屋 参 濤 その 1

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

濤 その 1

 寄せては返し、返しては寄せる。
 揺蕩う海原のその中には瑠璃色の世界がある。
 射しこむのは揺らめく光。
 響いてくるのは海中を舞う泡たち。
 そこには輝く命たちがいる。

「なぁに?」
 彼女を抱きながらぼんやりとその横顔を見ていると、ふいにその顔を上げ、声を出さないようにして訊いてきた。
「なんでもないよ」
 ぼくは小声で答えると、彼女の胸に顔を埋めるようにして抱き直した。
 窓からまるで微睡むような陽射しが零れてきていた。緩やかな風が吹き込んでいる。
 汗ばんだ身体にその風が気持ちいい。
 ぼくはこうして裸で抱き合っているこの時間が好きだった。日焼けしたその彼女の身体はどこかつるりとしていて、その背中を撫でているだけで、まるで海に抱かれ揺蕩っているような静けさを感じる。
 彼女もぼくの頭を抱えるようにして抱きしめてくれた。
 彼女の鼓動が素肌を通して聞こえてくるようだった。
「なぜかな」
 ぼくは顔を埋めたまま口を開いた。
「なにが?」
 彼女はぼくの頭をやさしく撫でながら訊き返した。
「キミを抱いていると、なんだが海の音が聞こえる」
 ぼくは彼女の横顔を見つめていった。
「なぜ、海なの?」
「さぁ、なんだかいつも聞こえてくる気がする」
「あのときも?」
「ああ、キミの中に挿れているあのときも」
「変なの」
 彼女はそういってくすりと笑った。
 確かに変な話だ。でもなぜだろう。彼女を抱いていると、不思議に彼女の鼓動とぼくの鼓動がまるで共鳴するように聞こえてくる。
 だからかな。まるでそれが海が呼吸しているように聞こえるのかもしれない。

 彼女、汐見菜々海と出逢ったのはつい一ヶ月ほど前、夏真っ盛りのころだった。
 ちょっとしたきっかけで、ぼくは梅雨が明ける前に逗子に引っ越した。
 海のある街、逗子。
 夏になるとぼくの足は自然に海へと向かっていた。
 夏の海。子どものころに家族でいって以来、とても久しぶりの海だった。なぜだろう、海をまったく意識せずに毎日を送っていたのに、海のある街に引っ越したのは。
 でも賑わう海の家や、人の歓声に満ちたビーチを見ているとなぜだかぼくも嬉しくなってきた。
 空は蒼く輝き、海は碧く煌めいている。空高くから照りつける陽射しは強烈だ。ぼくは海から吹いてくる潮風を受けとめているうちに、なぜだろう、この海で泳ぎたくなった。プールで泳ぐことはあっても海で泳ぐのははじめてなのに。
 その翌日のことだ。ぼくはゴーグルをつけてスイミング用のパンツを穿き、海で泳いだ。
 プールで泳ぐのとはまるで感覚が違った。海中に身を沈めるとぼくの身体を海の水が支えてくれているようだった。寄せる波に身体が揺蕩う。ぼくはそのうねりのリズムに合わせるように、ゆったりと泳ぎだした。ストロークはやさしくまるで海水を掴むようにして、ビートも緩やかに流れに逆らうことなく漂わせるようにした。
 ときおり顔を上げて前を見ながらどれほど泳いだだろう。気がつくと、エリアロープで区切られた遊泳区域の端から端までを海岸に平行に泳いでいた。
 泳ぎ終わって砂浜の戻ろうとしたところで声をかけられた。菜々海だった。
「とても気持ちよさそうに泳ぐのね」
 亜麻色の長い髪。瑠璃色のビキニを纏った身体は綺麗に日焼けしていた。
「逗子に越してきて、はじめての海なんだ」
 ぼくは彼女を眩しそうに見ながら答えた。零れるような笑顔がとても綺麗だった。
「ひとりなの?」
「そうだよ。キミは?」
 菜々海はまわりをぐるりと見回してから首を傾げて答えた。
「どうやら友だちとはぐれちゃったみたいね。だからひとりかな」
 この日、ぼくたちは彼女の友だちが現れるまで、砂浜に腰を下ろしていろいろな話をした。
 どうやらぼくは彼女の笑顔を見た瞬間、恋に墜ちていた。そう、恋の機会は突然訪れる。そして墜ちてしまうともはや逃れようがない。
 スマホの番号を交換したぼくは、それから頻繁に彼女に連絡するようになっていた。電話したり、メールをしたり。
 何度か海で逢ったし、海水浴の期間が終わると街中で逢うようになっていた。何度目かのデートのあと、ぼくは彼女を夜の海へ誘った。もちろん逗子の海だ。
 静かに寄せる波。そして吹いてくる潮風。秋はいつはじまるのか見当もつかないほど、まだ暑い夜だった。
 黒く緩やかにうねる海。その海の向こうで月が輝いていた。漣が寄せる水面がその月光を受けて揺らめく。
 ぼくたちはただ黙って海を見ていた。ときおり吹いてくる風が彼女の長い髪を弄ぶ。
 ふいにぼくは彼女の腕を掴むと、その身体を抱き寄せた。
 ぼくの腕の中でしかし彼女はただ静かにぼくの眼を見つめていた。その彼女の瞳は水面と同じように月の光を受けて揺らめいている。その瞳を見つめ返しているうちに、ぼくはまるでなにかに吸い寄せられるように腰に回した手に力を入れた。
 そっと顔を寄せる。彼女はやさしく微笑むと眼を閉じた。彼女の目蓋で睫毛がまるで踊っているように揺れていた。
 唇を重ねた。
 どれぐらい重ねていただろう。彼女の唇はしっとりと濡れて温かく、そして不思議なことに潮の香りがした。
 そしてぼくたちはそのまま共に朝を迎えた。ぼくの家で。

 その日、ようやく陽が傾きかけたころ、菜々海は帰り支度をはじめた。明日は朝から大学へいかなきゃいけないという。
 ぼくは彼女と一緒に駅まで出かけることにした。
 なぜかそのまま駅で別れる気になれず、ぼくは菜々海にちょっとつきあってほしいと頼んだ。
「なに?」
「軽く呑まないか?」
「どうしようかな?」
 彼女は笑顔でしかし首を傾げた。
「一杯だけ」
「一杯だけ?」
「うん、一杯だけ」
 ぼくは菜々海といっしょに駅前の立ち呑み屋に入った。
「よく来るの?」
 頼んだ生ビールのグラスに両手を延ばしながら、菜々海が訊いてきた。
「たまにね、なんとなくそのまま帰るのがもったいないときってあるだろう。そんなときはここで一杯呑んで帰るんだ」
 ぼくはグラスに口をつけていった。
「それにね」
「それに?」
 ぼくの顔を覗きこむようにして菜々海は訊いた。
「こうやって夕暮れの駅前って、なんとなくおもしろくない?」
「なにが?」
「いろいろな人がそれぞれいろいろな表情で歩いているだろう。家に帰る人もいるし、逗子からどこかへいく人もいる。急いでいる人、のんびりと歩いている人。いったいなにを考えて歩いているんだろうって、つい想像しちゃうんだ」
 日暮れが迫りだしたこの時間帯。街をそれまで照らしていた陽射しがいつの間にかオレンジ色に変わりはじめ、行き交う人たちを紅く染めていた
 しばらく道いく人たちを見つめていた菜々海がふいに口を開いた。
「ほんとだね。いろいろな人たちがいる」
 ぼくは軽く頷くとビールをひと口呑んでから、改めて駅前の様子を眺めた。
 交錯する人たち。バス停へと急ぐ人がいるかと思えば、制服の集団がぞろぞろと駅の改札へと向かっている。
「?」
 そんな人たちでごった返している駅前なのに、ひとりただじっと立っている男がいた。
 黒のシャツに黒のズボン。ご丁寧にも黒の帽子を被っている。
 なんだろうと思ってよく見てみると、ちらちらとこっちを見ていた。ぼくとそれから菜々海の方を、まるで見張っているように。
「ねぇ、菜々海。あの男ってなんだか怪しくない?」
 ぼくは菜々海の脇を突くようにしていった。
「どの人?」
「ほら、ロータリーのところに立っている黒ずくめの男。ぼくたちをチラチラ見ているようなんだ」
 グラスに口をつけたまま菜々海が男を見た。
 その視線に気づいたのか、男は帽子をさらに目深に被りなおすとそのまま改札へと向かっていった。
「気のせいじゃない?」
 
「それがさ、なんだか様子がおかしいんだよ」
 翌日、ぼくは大学のカフェエリアで友だちの久能結人を捕まえると、昨日のことを話した。
 窓から射しこむ陽射しが眩しい。昼の時間帯のカフェエリアは昼食を摂る人たちで溢れかえっていた。
「だって、すぐに消えたんだろう?」
「すぐかどうか判らないよ。だいたい気がつく前から、もしかしたら観られていたかもしれないじゃないか」
 テーブルの上には食べ終えたランチのトレイが乗っていた。その端にあったカップに久能は手を延ばすとぼくの顔をじっと見つめた。
「それで、菜々海ってどんな娘なの?」
「だから、夏から付き合っていて……。いや、そんなことじゃなくて黒ずくめの男の話だって」
「その場にいなかったからなぁ、なんともいえない」
 そうなんだ、久能はそういうやつだ。憶測でものごとを判断するやつじゃない。確たるなにかがなければ考えることすらしない。だからもしかしたら量子情報工学なんて、ぼくにはまったく想像もつかないことを勉強しているんだろう。
 でもなにかあれば親身になってくれる頼れるやつでもあった。
「それでどんな男だったの?」
 久能はちょっと真剣な顔つきで訊いてきた。
「それが黒シャツに黒のズボン、それから黒の帽子を被ってた」
 ぼくは昨日、逗子駅前で見た男のことを思い出しながらいった。
「なんだか逆に眼立つような気がするけどね」
 久能そういって腕組みをした。
「いや、黒って溶け込みやすいんだよ。ありふれた色だからさ。景色の中でちょっと沈む感じになるかもしれないけど、眼を引くことはない」
 久能は答える代わりにじっとぼくの顔を見た。
「そうだ、周りをぐるりと見てみろよ」
 ぼくの言葉に頷くと、久能はカフェエリアをぐるりと見回した。
「ほら、いま眼に飛び込んできたのはどんな色だ?」
「赤やオレンジ、黄色に緑かな」
 久能はちょっと考えてから答えた
「な、発色のいい色ばかりだろ。黒のTシャツ着てるやつは何人いた?」
「え?」
 久能は予想外の問いに、言葉を詰まらせた。
「三人だよ。な、黒って意外に眼立たないだろ」
「確かに」
 久能は素直に頷いた。
 そのときぼくのスマホが鳴った。菜々海からだった。彼女は別の大学に通っている。きっと同じように昼の時間なんだろう。
「菜々海、どうかした?」
 ぼくはスマホを耳に当てると訊いた。
「それがね、いたのよ」
 菜々海はちょっと不安げな声でいった。
「どういうこと?」
「昨日のこと覚えてるでしょ。ほら駅前に黒ずくめの男がいるって。それが学校の門の前にもいたのよ」
 心なしか菜々海の声は震えているようだった。
「いつのこと?」
 ぼくの問いに菜々海は覚悟を決めたように答えた。
「今朝、学校の門のところで。それだけじゃなくて……」
「それだけじゃなくて?」
「昨日、わたしの家の近くにもいたかもしれない……」
 あの男がなにを目的にしているのか皆目見当がつかなかったけど、しかし決して座視できることではなかった。
 まるで得体のしれない波紋が広がりはじめ、やがてとてつもなく大きくなっていくような気がする……。
 心が妙にざわつくのを感じながら、ぼくはただ呆然とスマホの画面を見続けた。
つづく

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