ものがたり屋 参 現 その 1
うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。
気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。
現 その 1
すべては幻、そして虚ろい。
すべては儚きもの。
その心に触れるものは、なに?
その瞳に映るものは、なに?
六時五〇分。
枕元に置いたスマホのアラームが鳴る。
手を延ばしてアラームを切ると、あなたはぼんやりと眼を醒ます。
それまで揺蕩っていた夢の中からまるで引き摺り出されるように、ゆっくりと意識がピントを合わせていく。
すぐ横の窓にかかっているカーテンをそっと開ける。意外なほどくっきりとした陽射しが飛び込んできて、あなたはやっぱり朝が来てしまったことを自覚する。
──眠い……。
いつも起きる時間は同じなのに、どうしてもつい夜更かししてしまう。
あなたは毎朝、アラームの音を聞きながらそのことを軽く後悔する。けれどしかし、だから早く眠ろうとしないことも、またいつものことだ。
あなたはベッドから出ると軽く伸びをする。そしてひとつ大きく息を吐く。
なぜだろう、この瞬間あなたはいつもの朝のはずなのにこのところ、どこかなにかが違うような気になってしまう。
あなたはまるで絡繰り人形のようにバスルームにある洗面台に向かい、歯ブラシに歯磨きをほんのすこしだけ乗せると歯を磨きはじめる。
洗面台の鏡にはどこかまだ寝ぼけたままのあなたの顔が映っている。あなた自身の眼を、鼻を、唇を、そしておでこから顎までをじっくりと見ていく。その寝ぼけ顔にぼさぼさの髪がまるでウイッグのように乗っかって見える。
あなたは歯を磨きながらもう片方の手で髪をクシャクシャにしてみる。
──やっぱり、いつものわたしだわ。
あなたは口を濯ぐと湯を出してゆっくりと何度も納得のいくまで顔を洗う。手を延ばしてタオルを取ると、顔をていねいに拭う。
あなたはやっと眼が醒めたような気分になる。改めて鏡に映っているあなたの顔をじっと見つめて、そして口を開く。
「おはよう」
いつからだろう、あなたは毎朝こうやって自分に話しかけるようになっている。独りだということをどことなく感じてしまうからだろうか。
それからあなたはトーストとプチトマトをメインしたサラダの朝食を摂る。
使い終わった食器を洗う。
あなたはスマホで時間を確認してから、化粧をはじめる。今日は比較的時間の余裕がありそうだ。リビングテーブルに鏡を置くといつもよりすこしだけていねいに化粧をしていく。最後にリップの色を確認して鏡に映っている自分自身に頷きかける。
白のTシャツにオレンジのリネンシャツを重ねる。ボトムはデニムのミニスカートにしてみる。
姿見に映っているあなたを観て、何度も確認してから、バッグを背負って家を出る。
いつもと同じような時間の電車。通勤に向かう人たちも多いからか、混んだ車内。それでも大学のある駅の手前ではようやく空きはじめる。それもいつものことだ。
空いた席を見つけるとあなたはそこに腰を下ろす。
ぼんやりと向かい側の窓から外の景色を見る。家々が建ち並ぶ風景。いつもこの時間だと朝陽を浴びて輝いていて見える。
そんな景色を見ているうちに頭はぼんやりと別のことを考えはじめる。大学での講義のことや、友だちとの会話はもちろん、前の日のなにげないできごとだったり。そんなとりとめのない思いが浮かんでは消えていく。
──ごめんなさい。
電車が揺れたその反動で通路を歩いていた幼稚園生があなたのところに倒れかかってきた……。
あなたは思わずはっとして周りを見てみる。けれどどこにもそんな子はいなかった。
なんだかとてもリアルな感覚だった。倒れかかってきた子どもの体重をあなたは感じたはずだった。あの子のすまなさそうなしかしどこか屈託のない顔。あの子が着ていた幼稚園の制服。
なにもかもとてもリアルだったのに、しかしそれはあなたがぼんやりと考えごとしていた中でのただの幻影だったのか……。
気づくとあなたが降りるはずの駅に電車は停まっていた。あなたは周りをもう一度見回してから電車を降りる。
──あの子って、いったい……。
あたなはまださっきの幻影を思い返している。
あの子の顔がくっきりとあなたの脳裏に刻み込まれたままだから。
「ねぇ、そんなことってある?」
あなたは大学内のカフェエリアでランチタイムを過ごしている。
あなたの向かい側には大学に入ってから親しくなった友だちが同じようにランチを摂っている。本城麻美。同じ学部で取っている講義もほとんど同じ。そのために大学ではよく顔を合わせる友だちのひとりだ。
「だって、とってもリアルだったのよ」
あなたは麻美に、今朝電車の中での幻影について話している。
もちろんあなたにはほかにも友だちはいる。けれどあなたが知る限り、この手の話をなんの勘ぐりもせずそのまま聞いてくれる友だちはいなかった。
「でも、そんな子はいなかったのね」
麻美は食事の手を止めてあなたの顔を見る。
「なんだか変な話でしょ」
あなたはそういって同意を求める。
「変な話なら……」
麻美は周りをそっと見回してから、小声になって続けた。
「わたしはいろいろな眼に遭ってるから」
「え、そうなの?」
あなたはつい身を乗り出すようにして訊いた。
「まあね、知り合いが知り合いだから、もういろいろとね」
麻美はそういってすこしだけ呆れるように笑みを浮かべた。
「それって、たとえばどんなこと?」
あなたはつい眼を輝かせてしまう。
「もうね、いろいろありすぎてとてもじゃないけど話しきれないかも。きっと、ひと晩じゃ足りないかもね」
「ねぇ、今度うちにおいでよ。そこで話し聞かせて」
あなたはちょっと真顔になって麻美を伺う。
「いいよ、でも、それならあいつも呼ばなきゃ」
「あいつて?」
「ほら、前に一緒にいったでしょ。綱神社。あいつの家なんだよ、あの神社」
「ああ、久能ね、久能結人」
何日か前、逗子に遊びにいったときに麻美に連れられていったことを、あなたは思い出して頷く。
「そう、だいたいあいつが原因なのよ。その、いろいろな眼ってやつが」
「そうなんだ」
あなたは妙に納得した気になって、もう一度頷いた。
──久能結人。
あなたは神社で会った麻美の友人、久能結人を思い浮かべる。少し長目の髪がくせ毛のせいで巻き毛になっているその横顔を。
夜、食事を終えて、しばらくスマホを手にひとしきり時間を潰したあなたは、風呂の湯を満たしはじめる。湯が溜まりはじめたことを確かめると、洗面台にも湯を溜める。
それから全裸になって洗面台に向かう。鏡に映る裸の自分をそれとなく見てからクレンジングするのがいつもの習慣だ。
右を向いたり、左を向いたり、いろいろな角度で自分の顔を鏡に映してみる。鏡に映るいろいろな表情を見ながらなんとなく今日のことを思い出す。
朝の様子。電車の中でのできごと。それから受けた講義。麻美といっしょのランチ。
──そういえばあの神社にいったこと忘れてたな。
両手で洗面台に溜まった湯を掬おうとしたとき。
──!
なぜかふいにあなたは人の気配を感じる。思わずその腕で裸の胸と下半身を庇う。
そして振り返る。
あたり前だけどそこには誰もいない。そのはずだ。ここはあなたの家だ。ひとり住まいだからだれかがそこにいるはずはない。
──なのに、なぜ?
ほっと息を吐いて、また洗面台に溜まった水を掬おうとして、今度は視線を感じて思わず顔を上げる。その刹那、眼の前の鏡にだれかの影が映った。
今度は鏡に映る自分を覆い隠すように手を延ばした。
そして恐る恐るその手をどける。もちろん洗面台の鏡にはあなたしか映っていない。
──いったい、なに?
「きゃっ」
あなたの背中に水が滴り落ちてきた。その冷たさではなく、なにかがあなたの背中に触れる感触にあなたは驚いてしまった。
その場に思わずしゃがみ込んで、あなたはゆっくりと周りを見る。もちろんそこにだれかがいるはずなどない。けれど、なぜだかなにかを感じる。
両手で胸を抱いたまま、いつまでそうしていただろう。気がつくと浴槽は湯で満たされていて、その縁から零れはじめていた。
あなたは蛇口を閉めて湯を止めると、そろそろと起き上がって、まるでなにかから身を守るように身体に腕を回したまま、その湯に浸かる。
ざざざっ。
思いの外、湯が零れていく。立ち上るうっすらとした湯気がバスルームに広がる。
その様子を見ながら湯に浸かり、またあたりを見回す。
どこからか風が流れてくるのかその湯気が揺らぐ。そしてまるでそこをだれかが通っていったように大きく震えた。
とてもじゃないけどゆっくりと湯に浸かっている気になれず、あなたは早々に浴槽を出る。
バスルームを出るとまずバスタオルで身体を拭き、すぐに服を着る。ショーツを穿き、いつもパジャマとして使っている長めのTシャツを頭からすっぽりと被るようにして着て、あなたはやっと落ち着きを取り戻す。
まだ化粧をおとしていないことに気がついて、あなたはまた洗面台に向かう。今度はなぜだかじっくりと自分の顔を見る気になれない。
いつそこになにかが映ってしまうか不安だったからだ。
あなたはいったんバスルームを出ると、それまで消していた部屋中の灯りという灯りのすべてを点けてからバスルームに戻った。
なるべく鏡を見ないようにしてあなたは化粧を落とす。温めのお湯を両手で掬ってていねいに顔を洗う。
いつもならそれから念入りに化粧水を使うけれど、手早く済ませると、すぐその場を離れた。
心が波立っているのをあなたは感じる。
ベッドに横になる前に部屋の電気をどうしたらいいのか、迷ってしまったあなた。結局はいつものようにすべての灯りを消すことにした。
横たわってしっかりと眼を閉じる。
いつもならすぐに眠りに墜ちるはずなのに、なぜか心の中に起こったさざ波があなたの意識を引き留める。
何度も寝返りをうつ。そして溜息。
瞑っていた眼をそっと開ける。
あたり前だけど、部屋の中は暗い。けれど、それはただ光がないということではなく、闇がまるで霧のようなどこからか入り込み、いつの間にか家の中を満たしているようでもあった。
じっと天井を見上げる。いままで気がつかなかったけど、細かな穴がところどころ空いている。暗闇の中でそれを見ているうちに、なぜかそれがまるで模様のように見えてくる。
ぐにゃり。
見つめすぎたせいか、その模様がゆっくりと動きはじめる。
闇の中を蠢くなにか。
ぐにゃり。
やがてその模様が人の顔のように見えてきて。そしてあなたはいつしか眠りに墜ちていく……。
ふいに肩を叩かれてあなたは振り返る。そこにはなぜか見知らぬ人がいて、あなたに笑いかけている。大きく口を開けて、しきり話しかけてくる。けれど、あなたの耳にその声は届かない。
まるで無声映画だ。
気がつくとあなたの周りには人だかりができていて、そのひとりひとりがしきりにあなたに話しかけてくる。けれど、やはりだれひとりとしてその声が聞こえることはない。
いや、違う。
あなたが心を閉じているからだ。
それに気がついた瞬間、ありとあらゆる方向から声が飛び込んできた。あまりにも多くの人の声が重なっているから、いったいなにを話しかけられているのか聞き分けることができない。
あなたはいたたまれなくなり、両手で耳を塞ぐ。
それでもその声がまるで圧力のようになってあなたを締め上げていくはじめる。
──苦しい……。
その圧力に息苦しさを感じはじめ、あなたはその場にしゃがみ込んでしまう。
「やめて!」
あなたは叫ぶ。
いや、叫んだつもりだったけど、しかしそれは言葉にはならず、どこへも伝わることがない……。
あなたはしゃがみ込んで両手で耳を塞いだまま、ただ叫び続ける。
けっして言葉にならない声を上げ続ける。
「おねえちゃん、こっち」
そのときふいにその手を掴まれた。
見ると電車の中で見たあの子だった。幼稚園の制服を着た子。
あなたの眼をじっと見つめている。
あたながなにかを話すために口を開けようとすると、掴んでいるその子の手に力が入る。
ぐいっ。
もの凄い力で引っ張られた。
「痛い!」
あまりの痛さに耐えかねてそう叫んだ瞬間、眼を醒ました。
夢を……、夢を見ていたのだ。
あまりにも具体的だったけど、しかしどこか現実離れした夢。ただあの子だけがその中でとてもリアルに存在しているような不思議な感じ。
頭がぼんやりとしている。
あなたは枕元のスマホで時間を確かめてみる。
四時半だった。
つい、いつもの癖でカーテンを開けた。昇りはじめた朝陽が飛び込んできた。その朝の光が家中に満ちていたはずの薄い闇の霧をさっと晴らしていくようだった。
そのときあなたはふいに手首に痛みを覚える。
──なぜ?
そう思いながらあなたは右手首を見る。するとそこにはだれかに強く握られた手の痕が残っていた。
しかも、その痕はとてもちいさかった。まるで、子どもに掴まれたように……。
つづく
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よろしくお願いいたします。
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