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ものがたり屋 参 現 その 2

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

現 その 2

 すべては幻、そして虚ろい。
 すべては儚きもの。
 その手に触れるものは、なに?
 その瞳に映るものは、なに?
 そこにいるのは、いったい誰?

「ねぇ、いったいどうしてなんだと思う?」
 あなたは真剣な眼差しで向かい側に座っている麻美にいった。
「痕が残ってるの?」
 麻美はあなたを気遣うように訊いた。
 あなたはただ頷いて、右手のシャツをまくった。その右手首には包帯が巻かれている。起きたとき残っていた手の痕はまだうっすらとしたものだった。それがやがて濃く痣のようになり、あなたは包帯で覆い隠したのだ。
 お昼時の大学のカフェエリア。
 いつもまぶしい陽射しが飛び込み、学生たちで賑わっているはずなのに、なぜかこのときだけは違っていた。喧噪の中で、あなただけが別の空間に放り出されたような、そんな心細さを感じてしまう。
 あなたは周りの視線を気にして、そっとあたりを伺った。
 まるでそこにいるみんながそっぽを向いているようだった。きらめくような陽射しすら、逆にあなたをなにかから覆い隠しているような気さえする。
 じっと右手首の包帯を見つめるあなた。
「愛生、大丈夫?」
 麻美が俯いているあなたを覗きこむようにして訊いた。
「うん……」
 麻美の声がまるで水の底で聞くようにぼんやりと響いてきて、あなたはこくりと頷いた。
 包帯にそっと手を延ばして、ゆっくりと解きはじめる。
 ──お願い、消えていて……。
 願いを込めて解くあなた。しかし、右手首には手の痕がしっかりと残っていた。しかも痣のようになったままで。
「ほんとうだ……」
 麻美はあなたの手首を見つめたままぽつりといった。
「ねぇ、わたしどうかしちゃったのかな?」
 あなたは呟くようにいうと、麻美を縋るように見つめた。
「子どもの手みたいね」
 じっとあなたの右手首を見つめたまま麻美がいう。
「なんだか怖い……」
 ぼそっと呟いたあなたの言葉に麻美はただ黙って小さく頷いた。
「あいつに会ってみる?」
「あいつって……」
「だから結人。久能結人よ。この手の話はあいつしかまともに聞いてくれないと思うんだ」
「そうなの?」
 麻美のいうことをそのまま信じていいのか諮りかねて、あなたはつい首を傾げてしまう。
「いいんだよ、愛生が決めることだから」
 麻美はそういって優しい眼差しであなたを見つめた。

 あなたは麻美に連れられて敷地のかなりはずれたところにポツンと建っている古ぼけた校舎に向かっている。
 降り注ぐ陽射しが場違いのように強烈だ。初夏のはずなのにまるで真夏を思わせる暑さ。それでもなぜかあなたはその暑さにも現実感を覚えることができない。額に浮かぶ汗すらも拭う気にならなかった。
 まるで海の底を歩いているようだった。
 取り散らかった廊下を歩いて奥のエレベーターへ向かう。入り口から射しこむ陽射しが舞い踊る埃に反射する。
 できたらマスクをしたいほどだったけど、ごくあたり前に歩いていく麻美を見て、あなたはただその後をついていく。
 がたがたと揺れるエレベーターで最上階の四階へといく。四階に着くと、廊下の奥の部屋へと向かった。そのドアには「量子情報工学研究室」と書かれた札があった。
「ここなの?」
 その研究室へ足を踏み入れようとしてあなたは麻美にそっと尋ねる。
「そう、ここがあいつの──結人のいる研究室」
 窓際にテーブルが置かれている。ときおり吹く風にカーテンが揺れ、陽射しが零れてくる。
 あなたはその窓を背にして麻美の隣に腰を下ろす。
 すぐに部屋の奥の扉が開いて久能が顔を出した。あなたが前に神社で会った学生だ。少し長目の髪がくせ毛のせいで巻き毛になっている。あのときのままだ。
 結人はあなたと向かい合うように腰を下ろすと、やさしくいった。
「それで?」
あなたは上目遣いで結人の顔をじっと見てからおずおずと口を開く。なにをどうやって話をしたらいいのか、やや戸惑いながら電車でのできごと、そして昨日の夜、自宅で起こったことを話す。
 話し終えると右手をテーブルの上に乗せて、そっと包帯を解いた。
「ねぇ、どういうことだと思う?」
 隣に座っていた麻美があなたに代わって結人に尋ねた。
「だから、なにが起こっても不思議じゃないんだ、この世界は」
 結人はそういってあなたの右手首をじっと見つめはじめた。
「キミの手をぼくの手に重ねてもらえるかな」
 しばらくして結人はあなたの前に右手を指しだした。
 あなたは軽く息を吐くと頷いて、差し出された結人の手に右手をそっと重ねる。
 結人はあなたの手を軽く握るとその眼を閉じた。まるでどこか遠くで響く微かな物音を聴き取ろうとするように。
 あなたは息を凝らして、眼を閉じたままの結人の顔をじっと見つめ続ける。結人の睫毛が微かに揺れている。
 隣に座っている麻美もあなたと同じように結人を見ていた。ただ、その視線は彼の左手に向けられていた。
 なぜなのか気になり、あなたは麻美の顔を見る。
 あなたの視線を受けて、麻美はただ頷くだけだった。
 やがてほっと大きく息をつくと結人はその眼を開けた。
「どうなの?」
 麻美が訊いた。
「どうって、なんていえばいいんだろう。いつもならすぐに判るんだよ。邪なものがあるのかどうかが。けれど……」
「違うの?」
 麻美がさらに結人に訊いた。
「まるで深い森の中を彷徨っているような感じなんだ。ただ、とても奥深くて、そこになにがあるのかは判らない……」
 あなたはふたりのやりとりをただ黙って聞くしかなかった。いったいなんの会話がされているのか、あなたの理解を超えていたからだ。
「あのね」
 麻美はそう切り出して、結人のことを話しはじめた。
 彼は邪な存在を感じるとそれを祓うことができるのだという。なにかの拍子に取り憑いた邪な存在。それをどう表現してもいいらしい。たとえば悪霊でも、悪魔でもいい。結人にいわせるとそれは「邪」な存在なんだという。
 麻美自身も祓ってもらったことがあったのだという。
「それじゃ、わたしにはそういったものが憑いてはいないと?」
 あなたは結人に問い糾すように訊いた。
「そうだね、祓うべきものは感じられなかった。ただ……」
「ただ?」
 あなたはさらに訊く。
「ぼくにできることは祓うことだけ。それでもなんていえばいいのかな、これははじめてのことなんだけど、キミの中にはなにかがあることだけは感じたんだ」
「それって、なに?」
 あなたは不安げに結人の顔を見つめる。
「それは……、ぼくには正直解らない。でも、なにかがある。まるで深い森といえばいいのかな。別のなにか。存在ではなくて、深淵な世界、まるでちょっとした宇宙があるような感じ。こんな表現しかできなくて申し訳ないけど」
 結人はそういってあなたに頷きかける。
「ねぇ、それは悪いことなの?」
 麻美が結人をじっと凝視して訊いた。
「いや、そういった類のものではないんだよ。さっきもいったけど邪だったり、正しいといったこととはかけ離れたなにかだと思う」

 ──つまり、わたしはどうなっちゃってるんだろう。
 電車に揺られながら、あなたは考えを巡らせる。
 大学から自宅への帰り道。オレンジ色が混じりはじめた陽を浴びた街並み。窓の外を流れる景色が眼には映ってはいても、なにも意味を持たない。まるで舞台の書き割りのようにただ流れていくだけだ。
 あなたは空いた席に座ったまま、右手首に視線を落とす。痣のようになった手の痕を覆い隠すために包帯が巻かれている。
 ──これってなんなの?
 あなたは昼過ぎのことを改めて思い出す。
「量子情報工学研究室」の札をかけられた研究室での会話。結人に握られた右手。そのときのことを、じっと思い返してみる。
 息を凝らしてあなたの手を握る結人の表情を見つめていたとき。あなたの中でなにかが動いたのを感じたはずだ。まるで霧が立ちこめるこころの奥底にぽつんと置かれた扉が、そっと開けられたようだった。
 そのさらに奥に広がる深くて暗い谷間に、まるで結人の意識が聞こえることのない声となって、谺していくようだった。あなたの中にそんな深い谷間があることをはじめて教えられた気がした。幾重にも重なっていく谺。しかしなにも聞こえはしないのに、谺していくことだけは判る。そして、その奥深い谷底にそれを聴くなにかがいることを……。
 ──あれって、なんだったんだろう?
 あなたはそのことを反芻しながら視線を上げる。
 夕方までまだ間がある時間の電車はいつも空いている。空いているはずなのに、なぜかこのときは多くの人がいるように思えて、こころがふいにざわめく。あなたは車内を改めてまじまじと見る。
 確かに人は少なかった。なのになぜだろう、その人とは別に人影を感じるのだった。
 そこにいる人の影ではなく、まったく別の影。実体はそこにないのに、影だけがそこに現れているような不思議な感覚。赤と青のセロハンでできた安っぽい3Dメガネで見ているようだった。
 ダブって見える。
 人とそれとは別の影。まるでふたつの世界がそこにあって、その両方を透過して見ているように。
 あなたは思わず頭を振ると、両目を擦り、あらためて見直す。
 いつもの空いた車内がそこにあった。
 電車の揺れがあなたのこころを揺さぶる。揺れるたびにこころの中でなにかが慄く。まるで扉の影に隠れたがるように。
 その扉の影から、しかしそのなにかはそっとあたりを伺っている。それはあなたのこころになにかを零していく存在だったのかもしれない。
 真っ白な布に垂らされたひと雫が、やがてはその布全体を染めていくように。あなたの中でなにかがゆっくりと浸透していくのを、あなたはざわめきとともにただ感じることしかできなかった。

 あなたは電車を降りると、いつものように改札へ向かう。
 改札を抜けようとしたとき、同じ改札を抜けようと向かってくる人とぶつかりそうになった。
 思わずその場に立ち止まってしまったあなた。しかし、向かってきた人はなにごともなかったように、あなたを通り過ぎていった。
 ──……。
 なにが起こったのかまったく理解できないあなた。向こうからやってきた人があなたの身体を通り過ぎてしまったのだ。
 あなたは首を捻りながら改札を抜けると、駅舎から出た。
 傾きはじめた陽が街をオレンジ色に染め上げている。改札から出たすぐ横にはコンビニがあり、人が出入りしている。その向かい側はバスターミナルになっている。バスがちょうどそこに停まり、降りた人たちが改札に向かってくる。
 いつもとは変わらないはずの駅前。なのにあなたには違って見える。
 電車の中と同じようになっている。あなたの眼の前に広がっている世界が、なぜだかダブって見える。
 歩く人、立ち話をしている人。さまざまな人が駅前を行き交う。その人たちとは別にやはり人影が見える。いや、それは正しいいい方ではない。それも人なのだ。ただその存在がなぜか薄く透けて見える。だからまるで人影だけが蠢いているように見えてしまう。
 そんな人たちがあなたを通り過ぎていく。ただ黙って下を向いたままそこを通っていく。あなただけではない。そこにある改札も素通りしていく。
 よく見るとその人たちはコンビニの入り口もバスも車もなにかもただ通り過ぎていく。まるで物体など無視するように、そこになにかがあることを意識せずに動いている。
 そもそも動いているのだろうか?
 あなたはじっと眼を凝らして見てみる。
 やはりふつうの人となぜか影が薄い人がいる。それはなぜなのか、あなたには理解できなかった。それでもあなたが見ている世界はいままでに見ていたはずの世界と微妙にずれていた。
 ──なぜ?
 あなたの頭はただ混乱していた。なにがどうなっているのか想像もつかず、なぜ見えている世界が変わってしまったのか、その訳が判らなかった。
 ふと気づくと痩せぎすの男があなたに向かって歩いてくる。やはり影が薄い。オレンジ色の陽射しを浴びているのになぜか燻んで見える。
 その男はあなたの眼の前で立ち止まった。
 その双眸があなたをじっと見つめる。その精気のない視線があなたを寒からしめる。
「なぜ、お前にはおれが見える?」
 男は唇を歪めていい放つと、そのままあなたを通り過ぎていった。
 その瞬間、その場にいたすべての影の薄い人たちが、あなたを見つめる。その冷たい視線たちがあなたを貫く。
 そのときあなたはなぜか理解する。
 その人たちすべてがどんな存在なのか。
 いや、違う。すべてが存在を止めた人たちだということを。
 あなたは突然恐怖に襲われ、その場にしゃがみ込むと、空を見上げて悲鳴を上げる。
 声にならないあなたの悲鳴がいつまでもそのダブった世界に響くのだった。
はじめから

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