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ものがたり屋 参 某 その 1

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

某 その 1

 線と線が繋がり、そこに形が生まれる。
 色と色が重なり、そこに像ができる。
 光と影が描かれて、そこに貌が見えてくる。
 そのすべてが混ざり合い、創られるものはなに?

「遅いなぁ、まったく」
 本城麻美はスマホで時間を確認すると苦笑した。
 海を渡ってきた風が、その長い髪を揺らす。その風にはもう夏の暑さは残っていなかった。蒼空を輝かせている陽もどこか秋の色が差しているような気がする。
 鎌倉へと向かう国道百三十四号線のトンネルの手前に、海に突き出たところがある。そこに建つ一軒家のカフェ『オフショア』。ウッドデッキの一番海側の席で、麻美はひとりまだ来ない友だちを待っていた。
 すっかり氷の溶けてしまったアイスティのグラスに手を伸ばす。右側には大崎のサーフポイント、左の奥には逗子湾を見渡すことができる。正面には森戸から一色海岸を望むことができる。
 すっきりと晴れ渡った空の蒼さを受けて、眼の前に広がる海も碧く輝いていた。まさに絶景だった。
 ──ねぇ、そのカフェでお昼しようよ。
 麻美を誘ったのは大学の友だち、草加部紗亜羅だった。その肝心の彼女がまだその姿を現していない。
「紗亜羅ったら、けっこうアバウトなんだから」
 溜息混じりにひとりごちた。椅子の背凭れに身体を預けるように座り直すと、麻美は胸の前で腕組みした。
「ちょっと、いいかしら?」
 テーブルの傍らに女性が立っていた。三十代後半だろうか、淡いすみれ色の柄をあしらったワンピースを纏い、にこやかな笑顔で麻美を見ていた。長い髪を後ろできちんとまとめている。透き通った瞳、すっきりとした鼻筋にやや薄目の唇。どこかの雑誌に載っていても不思議ではない容姿だった。
「なにか?」
 麻美は首を傾げた。
「いきなりごめんなさい。ちょっとせっかちなところがあって、どうしても話がしたくなっちゃって」
 女性はそういうと椅子を引き、麻美と向かい合うように座った。
「自己紹介が礼儀よね。わたしは小野原円。絵を描いているの」
 にっこりと微笑んだその笑顔は陽射しを受けて輝いて見えた。
「あっ、本城麻美です。その、なんでしょうか?」
「どういっていいのかしら。さっきからあなたを見ていたら、どうしても描きたくなってしまって」
「というと?」
「あなたのその姿をカンバスに描きたくなっちゃったの。ごめんなさい、こんなことって滅多になくて、なんて説明したらいいのかしら。自分から話しかけておいて、こんなの説明になってないわよね」
 麻美は答えようがなくて、ただ頷いた。
 小野原は手にしていたバッグから名刺を取り出すと、麻美の前に置いた。
「そんなに時間は取らせないから、一度、わたしのアトリエに来てもらえないかしら」
 小野原はそういって、じっと麻美の眼を見つめた。
 その視線に麻美は戸惑いながら、つい首を縦に振ってしまった。
「まず、電話してちょうだい。待ってるから」
「先生、お料理が来ましたよ」
 離れた場所のテーブルを占領している女性たちから呼ぶ声がした。
「絵の教室やっていて、今日は生徒さんたちとのランチ会なの」
 小野原はそういうとテーブルの上にあった麻美の手をそっと握って、改めて麻美の眼を見つめた。
「待ってるからね」
 念を押すようにいうと小野原は席を立ち、女性たちが集まっているテーブルへと戻っていった。
「ごめん、遅くなった」
 入れ替わるように紗亜羅がやってきた。軽くウエーブのかかった髪が揺れている。急いで来たんだろう、まだ息が弾んでいた。鮮やかなオレンジ色のシャツを纏った豊かな胸が大きく上下している。オフホワイトのミニスカートにヒールのあるミュールを履いていた。
「ねぇ、だれ?」
 席に着くなり、さっきまでそこに座っていた小野原の後ろ姿を見ながら訊いてきた。
「小野原さんだって」
「知り合いの人?」
「ぜんぜん」
 麻美は首を横に振った。
「それが?」
 紗亜羅は興味深げに身を乗り出すと麻美の眼を見た。
「画家だって。モデルになってくれないかって」
 麻美は手にしていた名刺を紗亜羅に見せた。
「へぇ、画家か。そんな人はじめて」
「わたしも」
「それが麻美に?」
「なんだってわたしなんだろう?」
 麻美は不思議そうに首を傾げた。
「ねぇ、麻美。この際だからはっきりいっておくけど、あなたもっと美人の自覚を持った方がいいわよ」
「え?」
「もう、鏡見たことあるの?」
「そりゃ毎朝見てるけど」
「ときどき、わたしも嫉妬しちゃうぐらいの美人なんだから。もっと自覚しなさい。だから結人と……」
「なに?」
 麻美は眉をしかめると紗亜羅の顔を見た。
「気にしない、気にしない。ねぇ、まだ料理頼んでないわよね。なんにしようかな」
 紗亜羅はメニューに視線を落とした。
 ──紗亜羅ったら、もう……。
「ねぇ、モデルってヌードかな」
 紗亜羅はメニューから視線を上げると、いたずらっぽく微笑んだ。
 
 麻美がやっと小野原に連絡をしたのは三日後のことだった。
 彼女の申し出をどう受け取っていいのか判らず、またモデルになるということに戸惑いがあった。なにしろはじめてのことだから。
 それでもスマホに手を伸ばして電話をしてしまった。好奇心が勝ったということもある。そしてまた、自分のことを特別に見てくれているという意識がどこかにあったことも確かだった。
 小野原のアトリエは田越川の近くにあった。
 海から逗子駅へと向かうバスが田越橋で左折する。その道をそのまままっすぐ進むと住宅街へといくことができる。その道沿いの左側、田越川の近くだった。
 入り口にちいさな看板があって、『円の絵画教室』と書かれていた。
 呼び鈴を鳴らすと、しばらくして小野原が姿を現した。ざっくりとした七分袖のスモックを纏っている。きっと元々は白だったのだろう。あちこちに絵の具が散らばり、お世辞にも綺麗とはいい難かった。髪はぼさぼさのまま後ろでまとめていた。はじめて会ったときとはずいぶん印象が違った。
「すぐにわかった?」
 小野原はにこやかな笑顔で麻美の姿を見た。
 麻美はグレーのトレーナーにジーンズ姿だった。
「さぁ、あがって」
 いわれるまま麻美はスニーカーを脱ぐとスリッパに履き替えて、小野原のあとに従った。
「お家はどこなの?」
 長い廊下を歩きながら小野原が訊いた。
「東郷橋の近くです」
 麻美はちょっと考えてから答えた。
「あら、ご近所さんなのね」
 長い廊下の突き当たりがアトリエになっていた。かなり広めの部屋だったが、イーゼルや丸椅子、ちいさなテーブルなどがあちこちに置かれ雑然としていた。それでも大きな窓に囲まれ、光が降り注いでいるからか開放感があった。奥の窓からは田越川が見えた。
「ごめんなさい、散らかっているでしょ。教室やっていていろいろな生徒さんが来るから片付けている暇がなくて」
 雑然とした部屋、微かに鼻をつく匂い。なにもかもがはじめてで麻美はただ気圧されたように立っていた。
「なにか飲む?」
 そんな麻美に気遣うように小野原が訊いた。
「あっ、それじゃ紅茶を」
「ホットでいいかしら」
 小野原は笑顔でいった。
「はい。ストレートで結構です」
「落ち着かないかもしれないけど、そこに座ってて」
 小野原は頷くと、田越川が見える窓近くの丸椅子を勧めた。
 麻美は肩に斜めがけしていたミニショルダーバッグを手に、その丸椅子に座った。その木製の丸椅子は回転するようになっていた。麻美は座ったまま椅子を回して田越川を見た。
 庭木の向こうに田越川があった。座ったままだと川面は無理だったけど、向こう岸の樹木はくっきりと見えた。どこからか小鳥の囀りが聞こえてくる。
「ここに置いておくわね」
 傍らのちいさなテーブルに紅茶のカップセットを置くと、向かい合うような場所にあった丸椅子に小野原は腰を下ろした。その手にもカップとソーサーがあった。
「緊張してるのかしら?」
 カップに口をつけてひと口啜ってから小野原は訊いた。
「ええ、すこし」
 麻美はカップに手を伸ばそうか考えながら口を開いた。
 小野原は笑顔で頷くと、上目遣いになって麻美をじっと見つめた。
「あのお店にはよくいくの?」
「たまにです。友だちに誘われたときとか」
 麻美はやっと手を伸ばしたカップにそっと口をつけた。紅茶の香りが鼻をくすぐる。とても心地いい香りだった。
「絶景のカフェよね。わたしは晴れた日になるとあの店にいきたくなっちゃうの。教室やっているからそんなに頻繁にいけるわけじゃないけど、絵筆が進まないときとか、ちょっと気落ちしているときとか」
「なんとなくその気持ち、判ります」
「あのときのお友だちは?」
「彼女、大学の友だちです」
「そう。あの娘はちょっと派手目な美人よね。きっとモテるんでしょうねぇ」
「確かに、いつも彼女の周りは賑やかですね」
 麻美はくすりと笑いながら頷いた。
「あなた、彼氏はいるの? 付き合っている人とか」
「いえ、いません」
 麻美はつい力を入れて首を横に振った。
「それでも友だちとか知り合いはいるんでしょ、男性の」
 小野原は探るような目付きで麻美を見た。
「知り合いというか、幼なじみはいますけど……」
 麻美はつい口籠もりそうになった。
「ちょっとそのまま待っててね」
 小野原は立ち上がると、部屋の奥の棚からスケッチブックと鉛筆立てを手に戻ってきた。眼の前のイーゼルにスケッチブックを広げる。紅茶のカップの横に鉛筆立てを置いた。
 麻美は途端に落ち着かなくなり、その場に座り直すと、膝の上に置いた両手を握り締めた。
「ねぇ、なにも取って食べようってわけじゃないから、そのままでいいのよ」
「でも……」
 麻美は改めて小野原を見直した。
 鉛筆立てから一本抜き出すとスケッチブック越しに麻美をじっと見つめた。
 麻美は膝の上の両手を改めて握り直してしまった。
「幼なじみって、いつのころから?」
 小野原は笑顔のままで首を傾げた。話しながらその右手は動いていた。
「え? ええっと、あいつとは幼稚園のころから」
「まぁ、ずいぶん長いのね。それで、いまだに幼なじみのままなのかしら?」
「そうです。ただの幼なじみのままです」
 小野原はくすりと笑うと、改めて鉛筆立てに手を伸ばして、何本もの鉛筆を手にした。
「そんなに鉛筆の種類が必要なんですか?」
 鉛筆を両手に持った小野原を見て麻美はつい訊いた。
「鉛筆って、硬さの違いで二十二種類もあるのよ」
「え、そんなに?」
「描きたい線によってその硬さを選ぶわけ」
 小野原はやさしく微笑んだ。
「でも、なにを描くんです? その、わたしなんかの」
 小野原はすぐには答えず手の中から鉛筆を選ぶと、それ以外を鉛筆立てに戻した。
「描くのはそれぞれ人によって意味が違うわ。でも、わたしは美をこの手で描きたいと思っているの」
「美って、わたしなんか……」
「あなた、麻美さんだっけ、どこから見ても美人じゃない」
 小野原はまじまじと麻美の眼を見つめた。
 麻美は戸惑いながら視線を落とした。
「でもね、美人だから美しいわけではないのよ、わたしにとってはね」
「どういうことです?」
「わたしが描きたい美というのは、わたしがその対象物から見つけたものでなければいけないの」
 麻美は顔を上げて改めて小野原の顔を見た。
「たとえば海の話をしましょうか。ほら、あのカフェのウッドデッキから眼の前に広がる大海原を見ると、思わず綺麗ってみんな呟くでしょ」
 小野原はその右手を止めることなく、麻美の眼を見つめた。
「ええ。あそこはほんとうに絶景ですから」
「それはあの景色が綺麗なわけではなくて、それを見た人の心の中に綺麗という気持ちが湧きあがるから綺麗なの。見る人がいなければ、どんなに絶景であってもそこはただの海でしかないわけ。解るかしら?」
「見ている人の心に?」
「そうよ、心の中で感じるものなのよ。わたしはわたしの心が感じる美を表現したくて絵を描いているの。あなたのお友だちだって美人だけど、わたしが描きたいのは麻美さん、あなたなの」
「でも……」
「勝手にわたしがそうしたいだけだから、あなたはなにも気にしなくていいのよ。そこにいてくれるだけで」
 麻美はどうしていいか判らず、ただ改めて膝の上の両手を握り締めていた。
「わたしの心が美しいと感じた線をわたしが描く。わたしが美しいと感じる線で描く。それがわたしの絵なの」
 結局、麻美は小一時間ほど小野原のアトリエにいた。翌日の同じ時間にまた来て欲しいといわれて、そのまま自宅へと戻った。

 その翌日。
 麻美は複雑な思いを抱きながら、それでも小野原の元を訪れた。小野原は昨日と同じように笑顔で麻美を迎えてくれた。そのまま廊下の一番奥のアトリエへと向かった。
 小野原が麻美を描いた同じ場所にスケッチブックがそのまま開かれていた。
 麻美は確かめるように小野原の顔を見た。
「どうぞ」
 小野原はただ笑顔で頷いた。
 麻美はおずおずとスケッチブックを覗きこんだ。そして思わず息を飲んでしまった。
 スケッチブックにはとても鉛筆だけで描いたとは思えないような麻美の顔があった。
 流れるように艶やかな長い髪。ほどよい広さの額。そしてつぶらな瞳。すっきりと通った鼻筋。頬の柔らかな膨らみと瑞々しい唇。
 毎日のように鏡で見ている筈なのに、それとはまったく違った麻美の顔が見事にそこに描かれていた。
「これが、わたし……」
 思わず言葉が漏れた。
「わたしの観たあなた。麻美さんよ。どう?」
 活き活きとしかも美しく描かれた麻美の顔。いまにもその瞳が動き、唇から言葉が零れてきそうだった。
「あなたの中にある美を、わたしなりにそのまま描いてみたの」
 麻美はまるではじめて会った人の顔を見るように、いつまでもその絵を見つめ続けた。
つづく

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「Zushi Beach Books」では、逗子を舞台にした小説はもちろんのこと、逗子という場所から発信していくことで、たとえば打ち寄せるさざ波の囁きや、吹き渡る潮風の香り、山々の樹木のさざめき、そんな逗子らしさを感じることができる作品たちをお届けしています。

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