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ものがたり屋 参 新 その 1

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

新 その 1

 それは光からはじまった。
 それは闇からはじまった。
 それは思うことからはじまった。
 それは、終わりからはじまった。

 吹く風が冷たい。
 ピンと張り詰めたようなその風が、草加部紗亜羅の軽くカールした髪を揺らした。歩道の脇の枯れ葉たちがその風を受けてカサカサと音を立てる。
 今年もカレンダーはあと一枚。街はクリスマスへと追い立てるように赤と緑色で溢れていた。
 懐へそっと忍び込もうとする冷たさを拒むように、紗亜羅はフェイクファーのジャケットの襟元を掻きあわせた。ベージュのジャケットにブラウンのミニスカート。そして焦げ茶のロングブーツ。淡いブラウンのトートバッグを肩からかけて、紗亜羅は大学から駅へと向かっていた。
 毎日のように歩いている街並みなのに、なぜかこのときはちょっとだけよそよそしさを感じる。めずらしくひとりだからだろうか。風の冷たさを避けるようにその歩みもいつもより早いものになっていた。
「だから、いやだって」
「いいから車に乗れよ」
 歩道を遮るようにして男女が揉めていた。
「やめてよ」
 真っ赤なコートを纏った女性が袖を掴もうとする男の手を振り払った。白のざっくりとしたタートルネックセーターに黒デニムのジーンズ。大学で何度か見かけた娘だった。
「とにかくこいよ」
「黙っていうこと聞けばいいんだって」
 その娘を左右から挟むようにふたりの男が強引に車に乗せようとしていた。ひとりはサイドを刈りあげたツーブロックで髪を結んでいる。なんとかその娘の腕を掴もうとしていた。もうひとりはソフトモヒカンで両サイドにスキンフェードを入れている。ふたりとも揃って黒の革ジャンを着ていた。
「塩っぱいこと止めなよ」
 紗亜羅は気づいたら割り込むような形でふたりの男と向かい合っていた。
「お前なんだよ」
 ツーブロックの男が凄んでみせた。
「関係ないんだから引っ込んでろよ」
 ソフトモヒカンの男も睨みつけた。
「嫌がってる娘を無理矢理って最低じゃん」
 紗亜羅は一歩も引かなかった。
 真っ赤なコートを着た娘は、紗亜羅の背後に隠れるように身を縮こまらせている。
「それじゃ、代わりにお前でいいや」
 ツーブロックの男は紗亜羅の全身を舐めるように見た。
「いいねぇ、それでいこう」
 ソフトモヒカンの男が紗亜羅にその手を伸ばした。
「最低なヤツと付き合う気なんて、これっぽっちもないんだから」
 紗亜羅はその手をトートバッグで振り払った。
「痛えなぁ」
 ソフトモヒカンの男は表情を硬くすると紗亜羅を睨みつけた。
「黙っていうこと聞けばいいんだよ」
 ツーブロックの男が紗亜羅の肩に手を伸ばした。
「黙っていうことを聞くのは男性の役割だろ」
 紗亜羅の背後から声が聞こえた。振り返ると濃紺のダウンジャケットを纏った男が立っていた。痩せぎすだけど背が高かった。長い髪を後ろでざっくりと縛っている。
 絡んできたふたりの男は見上げる形になった。
「なんだって?」
 ツーブロック男が口を尖らせた。
「その娘のいうとおり。嫌がるのを無理矢理ってのは古今東西最低の男がすることと相場は決まっている」
 その口調には断固としたものがあった。
 ふたりはしばらく黙って見上げていたが、やがて吐き捨てるように口を開いた。
「白けちまったぜ」
「琴音、次は付き合ってもらうからな」
 ツーブロックの男は紗亜羅の後ろにいた娘に向かって一瞥をくれるとそのまま車に戻っていった。
「あんたたちみたいな最低野郎には、次なんて金輪際ないのよ」
 走り去ろうとする車に向かって舌を突き出すと紗亜羅は毒づいた。
「ありがとう。助かったわ。あいつらしつこくて」
 琴音と呼ばれた娘は頭を下げた。
「いいのよ。でも、マジであんな奴らとはきちんと別れることね」
「ああいう奴らは一発噛ませば黙っちゃう。やるときは毅然としてやっちゃうことだ」
 長身の男は笑みを浮かべて頷いた。

「それで、どうしたの?」
 昼どきの大学のカフェエリアは相変わらず喧噪に満ちていた。キャンパスで寛ぐには寒すぎるということもあるのだろう。昼食と暖を求める学生たちで溢れかえっていた。
 確かに壁一面のガラス窓から射しこむ陽射しには格別のものがあった。暖かさはもちろんだけど、満ちあふれる光がどこか安心感を与えてくれるようでもあった。
 翌日、紗亜羅は同じ学科の友だち南村この実と窓際のテーブルを挟んでランチを摂っていた。
「どうしたって、それで終わり」
 紗亜羅はあっさりと頷くとスプーンでカレーを口へ運んだ。
「なんだから紗亜羅らしくないな」
 この実はその流れるような長い髪をかき上げるようにして耳にかけると、パスタにフォークを伸ばした。
「どういう意味?」
「名前ぐらいは聞いたんじゃないの? そもそもその人ってここの学生なの?」
 この実は紗亜羅の眼をじっと見つめると首を傾げた。
「そうみたい」
 紗亜羅はすまして答えた。
「いけてるんだ?」
「なんかね背が高いのよ。痩せぎすですらっとしているの」
「それで?」
「髪は長かった。こう後ろで縛ってるんだけど、なんとなくラフな感じなんだよね。ちょっと彫りが深くってさ、どこかワイルドな雰囲気」
 紗亜羅はさらにカレーを頬張った。
「好み?」
「そんなんじゃないわよ」
 紗亜羅は首を横に振りながらもまんざらではなさそうな笑みを浮かべた。
「紗亜羅のことだから、きちんとチェックしてるんでしょ」
「真神亮。英米文学科だって」
「やっぱりね」
 この実は納得したように頷いた。
「痩せぎすなの」
 紗亜羅は呟くようにいうと、スプーンの手を止めてカフェエリアの入り口をじっと見つめた。
「どうしたの?」
 いきなり黙ってしまった紗亜羅をこの実はじっと見つめた。
「だから、背が高いのよ」
 紗亜羅はひとりごちると呆然と立ち上がった。その視線の先にはカフェエリアにやってきた真神亮の姿があった。

 夢中になると、それ以外なにも眼に映らない。
 紗亜羅はまさにそんなタイプだった。講義の間も気もそぞろで、大学に着くとまずはキャンパス内に亮の姿がないか、つい眼を皿のようにしてしまうのだった。
 同じ学科でほぼ同じ行動を取るこの実はそんな紗亜羅の様子を半ば呆れながら、そして半ば微笑ましく見守るのだった。
「もうそれ以外なにも眼に入らないみたいなのよ」
 何日か経った昼どき、この実はやはり共通の友だち、本城麻美と久能結人とカフェエリアにいた。この実と麻美は高校からの友だちだった。流れるように艶やかな長い髪、透きとおった瞳。穏やかな性格がそのままその横顔から見て取れる。
「紗亜羅らしいじゃない」
 麻美はミルクティのカップに手を伸ばした。
「確かにね、紗亜羅らしいっていえばそれまでだけど、なんだかあの娘、危なっかしくて」
 この実は困ったような笑顔を浮かべた。
「なんて名前の人だっけ?」
 久能結人もこの実とは高校からの知り合いだった。長めの髪が軽くカールしていて巻き毛のようになっている。整った横顔でこの実から見ると麻美と結人はお似合いのカップルなのだが、ふたりが実際にどう思っているのかは判らなかった。幼なじみだということも、その関係に影響しているのかもしれなかった。ふだんから一緒にいるのに、そういう親密さをいまのところこのふたりから感じることはなかった。
「確かね、真神っていったかな。そうそう真神亮だった」
 この実もテーブルにあったカフェラテのカップに手を伸ばした。
「真神か……」
 結人はじっと手元を見つめた。
「なに、どうかしたの?」
 麻美がそんな結人の顔を見て、首を傾げた。
「いや、あまり聞かない名字だからちょっと気になってね」
 結人は曖昧な笑顔で頷いた。

 紗亜羅は車中の人となっていた。
 講義を終えていつものようにこの実たちとカフェエリアでランチのつもりでいた。けれどカフェエリアに向かう途中で校門を出ていく亮を見かけたのだった。
 ──どこへいくんだろう? 
 軽い気持ちで気づいたらその後をつけていた。
 最寄りの駅で食事でもするのか、あるいはそのまま講義を終えて帰宅するんだろうか?
 もしチャンスがあったら一緒に食事したり、お茶するのもいいか、といった都合のいい思いがどこかにあったことは確かだった。
 亮はごくあたり前のように電車に乗った。
 もちろん紗亜羅も同じように電車に乗る。亮の姿を見失わないように気をつけながら、念のために隣の車輌を使った。
 ふた駅乗ったところで亮は電車を降りた。
 ──あれ? 彼っていつもは横浜まで乗っていくんじゃなかったっけ?
 紗亜羅も慌ててその後を追いかけた。亮は別の私鉄に乗り換える。紗亜羅もまた同じようにその電車に乗った。もちろん隣の車輌にだった。
 電車はごくあたり前のように西へと進んでいく。聞き慣れない駅で電車は止まった。そのたびに亮がどうするのか気になったけど、亮は慣れているようで、車窓から外をのんびりと眺めている。
 小一時間ほど乗ったところで亮は電車を降りた。ここまで来てしまったら紗亜羅もいまさら戻ることはまったく頭になかった。しっかりとその後を追う。
 亮は慣れた足取りで商店街をしばらくいくと、また別の路線の駅の改札を通っていった。紗亜羅もこっそりとついていった。
 電車が来るまですこし時間があった。紗亜羅は気づかれないように離れた場所のベンチに腰を下ろすと、改めて亮の様子を伺った。
 この前と同じ濃紺のダウンジャケットを纏っている。背中には大きめのリュックを背負っていた。ボトムはポリエステル地の厚手のパンツ。トレッキング用の靴だろうか、ソールが高めのシューズを履いている。
 ──まさか山にいくの?
 確かに近くに山が見えた。しかもかなり西の方まで来ていた。ここからさらに電車に乗るとなると御殿場へいくこともできる。
 紗亜羅はいつもの恰好だった。ただ救いはスカートではなくジーンズにスニーカーだったことだろうか。
 ほどなくやってきた電車に亮は乗った。紗亜羅も隣の車輌に乗った。
 まるで間延びした溜息のようにドアが閉まると、ガタッと音を立てて電車は走りはじめた。紗亜羅はいままでとは違ったリズムの揺れを感じながら車窓を眺めた。家々が見えるのはもちろんだったけど、それがいつの間にか疎らになっていた。流れる空気がそれまでと違ってすこしずつ濃度を増していくような気がして、紗亜羅は場違いなところへ来てしまったことを改めて知らされた。
 ──どこまでいくの?
 三つ目の駅で亮は電車を降りた。しばらく間があってドアが閉まりかけたところで紗亜羅も降りた。ここまで来るとさすがに乗降客は少ない。プラットホームを歩く人もほとんどいなかった。
 亮はまったく躊躇することなく改札へと向かっていた。
 空気が冷たかった。
 紗亜羅は我知らず襟元を掻きあわせていた。見上げると冬の真っ青な空が広がっていた。ただ、どこかすこしだけオレンジ色が滲みはじめている。あと一時間もすれば陽はすっかり落ちてしまう時間になっていた。
 紗亜羅はそれなりの距離をおいて亮の後を追っていく。亮は改札を出ると、橋を渡り、さらに高速道路の高架の下を潜って山へと向かいはじめた。
 ──まったく、なんだってこんなところなのよ。
 しっかりとした足取りの亮に比べて、紗亜羅はときおり蹌踉めくようにその後を追った。
 すこしずつ樹々が深くなっていく。
 気づくと西の空から零れていた陽射しが心許ないものになっていた。樹々の影が濃くなるに従って暗くなりはじめている。
 紗亜羅は押しつぶされそうな心細さに襲われ、しゃがみ込みたくなる恐怖を覚えた。しかし、ここまで来てこのままなにもせずに帰ることはできなかった。
 ──いまさら引き下がれないじゃない。
 唇を噛みしめて紗亜羅は亮の背中を見失わないようについていった。
 どれほど歩いただろう、辺りは深い森になっていた。見上げるといつの間には空は青から藍へとその色を変えていた。樹々の間から昇りはじめた月が見える。
 まん丸く満ちきった月が昇ろうとしていた。
 亮の歩みがそこで止まった。
 亮はあたりを見回してから背負っていたリュックを下ろした。
 大きく深呼吸をすると空を見上げる。
 紗亜羅からはきちんと見えなかったけど、どうやら昇りはじめた月を見つめているようだった。
 ふいにダウンジャケットに手を伸ばすと亮は静かに脱いだ。つぎに上着を脱ぎ、さらにボトムのパンツも脱ぎ去った。気づくと靴も脱いで亮は全裸になっていた。
 上っていく満月と向かい合うように立つと、亮はその輝きを受け止めるように両手を広げた。 

「真神……、そうか真神か」
 大学の門を出ようと麻美と一緒に歩いていた結人が、思い出したように口を開いた。
「なに?」
 麻美は突然立ち止まった結人を不思議そうに見つめた。
「ほら、彼の名前だよ。真神っていったよね」
「ええ」
 麻美は怪訝そうな表情で頷いた。
「真神ってじつは古くから伝えられている聖獣の名前なんだよ」
「聖獣ってどういうこと?」
「ずばり獣を神格化したものだよ」
「獣って、なに?」
 結人は麻美の眼をしっかりと見つめると、頷きながら答えた。
「狼。その名前は『大いなる神』も意味しているんだ」
「狼」

 亮の姿が見る見る変わっていく。満月の光を浴びてその姿は大きく変わっていった。全身が白とも銀色とも見える毛に覆われ、やがて鼻から口が尖りはじめ、四肢も変形して、そのまま四つん這いになっていた。
 紗亜羅はその変身を目の当たりにして、ただただ言葉を失っていた。
「うお〜ん」
 大きな鳴き声が樹々の間を谺していく。
 真神亮は人から狼の姿へと変わっていた。満々と満ちた月の光を浴びて神々しいまでの輝きに溢れている。
「うお~ん」
 自然の鼓動を震わせるようなひときわ大きな鳴き声が山全体に響き渡った。

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