ものがたり屋 参 朏 その 1
うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。
気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。
朏 その 1
聴こえる……。聴こえてくる……。遙か彼方の世界から。
それは時を超えて、空間を超えて、伝わってくる。
なにかを識らせようとしているんだろうか?
だれかの呟きなのか、それとも彼方の世界の囁きなのか。
聴こえる。聴こえてくる。
──Can you hear me?
──……。……。
──Can you hear me?
──……。……。……。
──Do you copy?
──……。……。……。……。
ざくっ、ざくっ。
砂浜に埋まりそうになりながら、一歩一歩ゆっくりと歩いていく。まるでひと足、ひと足、その足跡をしっかりと砂浜に残していくように。
逗子海岸の波打ち際をゆっくりと歩いているのに、星野月翔の想いは遠くにあった。
オンショアの風が長めの月翔の柔らかな髪を揺らす。落ち葉がそろそろ散りはじめるこの季節の風には冷たさが混じりはじめていた。月翔はシャツの上に羽織ったジャケットの前をしっかりと両腕で抱くようにして歩いている。ジーンズを穿いた足下にはブーツを履いていた。
ブーツが砂の中にめり込む感触を楽しみながら、月翔は砂浜を歩いていく。
そのとき、ふと視線を感じて月翔はその視線を辿った。
ひとりの女性が砂浜を歩いている月翔をじっと見つめていた。おかっぱ頭の前髪を額のところで綺麗に刈り揃えている。大人びた顔つきのくせに、どこか幼さが残っている。
いつかどこかで出逢っていたような気になり、月翔は歩くのを止めて、その女性を改めて見つめ直した。
端賀谷玲奈だった。淡いイエローのワンピースにネイビーカラーのジャケットを羽織っている。スカートから覗く膝小僧が月翔の眼には新鮮に映った。ローヒールのパンプスが砂浜に埋まりそうなっていた。
玲奈は月翔の視線に気づくと、はにかんだように視線を足下に落とした。
月翔はじっと彼女の顔を見ながら、逢ったことがないことに思い至った。なのに、なぜだろう? 不思議だけど、はじめて逢ったような気がしないのは。
耳に響く潮騒が月翔の心をざわつかせる。けれどそれは決して居心地の悪いものではなかった。いや、むしろどこかでなにかが弾むのを感じていた。
「麻美、こんなことって経験ある?」
大学のカフェエリア。秋の陽射しがガラス越しにエリア全体を明るく照らしていた。夕方近くだからか雑然として並んでいるテーブルには空席が目立っている。
玲奈は窓際のテーブルを挟んで座っている本城麻美の眼を正面からじっと見つめながら口を開いた。
「ひと目惚れ」
「え?」
麻美はいわれた言葉の意味がすぐに理解できずに玲奈の顔をじっと見つめ直した。
「だから、ひと目惚れ。ねぇ、照れ臭いから何度もいわせないでよ」
玲奈はそういうとちょっと乱暴にテーブルに乗ったアイスティーのグラスに手をやった。
「玲奈、らしくない」
麻美はちょっとからかうようにいった。
「いやね、これでもわたしは純情一直線なんだから」
アイスティのグラスに口をつけながら、独りごちるようにいった。
「それで相手はどこのだれ?」
その言葉に玲奈はグラスをテーブルに置くと、身を乗り出すようにして改めてじっと麻美の眼を見た。
「大学は違うんだけど、月翔っていう名前の人。月に翔ぶって書いて、らいとって読むんだって。星野月翔」
「どんな人なの?」
玲奈の真剣な顔を見て、麻美は改めて訊いた。
──Can you hear me?
──……。……。……。
──Do you copy?
──……。……。……。……。
──駄目だ……。通信ができない……。
けたたましく鳴る警報音が艦内に響く。眼の前にある計器のほとんどが赤く点滅していた。冷却器はいかれたのか、エンジンは暴走したまま。エアも漏れはじめていた。その中でも加圧ポンプの計器が一番ヤバかった。
「ナジ」
ナビシートに声をかけた。墜落の衝撃でナジは怪我をしたようだった。返事はなく苦痛の声が漏れ聞こえてくる。
「ナジ、メットのシールドをロックしろ。すぐにエアがなくなる」
「ううっ」
ナジは呻きながら、しかしシールドを下ろすとメット脇のボタンを押してロックした。
「動けるか?」
シートベルトを外して、ナジをシートから引き摺り出した。
「なにがあった?」
「たぶん太陽面爆発、フレアだ。その瞬間、全艦の機能が停止した。オートリブートしたけど、間に合わなかったみたいだな」
「デブリのやろうか? ちくしょう、足が逝かれたみたいだ」
ナジはスペーススーツの上から右足を擦った。
「たぶんデブリだ。アンラッキーとしかいいようがない」
「なにしてるのかと思って……」
玲奈は傍らに歩み寄ってきた月翔にいった。
「なにって、砂浜を歩いていただけだよ」
月翔は静かに頷きながら答えた。いいながらじっと玲奈の眼を見つめた。
「そうなんだ。でも、ちょっと……」
「ちょっと、なに?」
玲奈は月翔の眼をまっすぐ見ていることができず、海を見やるとおずおずと口を開いた。
「なんだか、とても大切なことをしているような気がして」
「たとえば?」
「うん、なんていえばいいのかな。なんだか修行しているような感じ。ごめん、わたしって変だよね」
玲奈はそういって、月翔の顔をそっと横眼で見た。
「ぜんぜん変じゃないよ。むしろおかしいのはぼくかもね」
そういって月翔はにっこりと笑った。
「どうして?」
玲奈は、月翔の顔を見ると思わず首を傾げた。
「だれにもいわないでね」
「うん」
玲奈はただ大きく頷いた。
「海岸の砂浜を歩くと、一歩ごとにざくっざくって音が聴こえてくるんだ。そうやってしばらく歩いているとね、まるで月の上を歩いているような気分になっちゃうんだ」
「え? 月の上……」
「そう、Walk On The Moon」
「それ、なに?」
「うん、The Policeってイギリスのバンドの曲。かなり昔の曲なんだけど、お気に入りの曲なんだ。頭の中でその曲が鳴り響いて、それに合わせて一歩一歩足を進めていると、月の上を歩いている気分になれる」
「確かに……」
玲奈はそういって月翔の眼をじっと見つめた。
「変わってるだろ?」
玲奈は素直に笑顔で大きく頷いた。
「ねぇ、なんだって逗子海岸なの?」
テーブル越しに玲奈の眼をじっと見つめて麻美が訊いた。
「いやだ、麻美ん家にいったでしょ、一昨日だっけ。その帰りに、ついでだからって海へ寄ってみたの」
「じゃ、そのときに、その月翔くんに逢ったの?」
玲奈ははにかむような笑顔で大きく頷いた。
「でも、そうか。確かに砂浜を歩いていると、ざくざくって音がするけど」
「月の上はないよね」
玲奈はそれでも嬉しそうな顔で麻美の眼を見つめ返した。
──Do you copy?
──……。……。……。……。
ヘルメットのイヤホン部分を何度か叩いてみた。しかし、解っていたことだけど、ノイズ以外なにも聴こえてはこなかった。
「繋がらないのか?」
やっとのことで船外まで連れ出すと、ナジが訊いてきた。
「ああ、ぷっつりと切れたままだ」
「まさかフレアのせいで遮断したままとか?」
「どうかな」
ナジの顔を見返した。怪我をしているからか、いつもの暢気そうな表情がナジの顔からは消え去っている。
確かに心細い状況ではある。
まさかこんな形で墜落するとは予想もしていなかった。それなりに訓練は受けてきたが、オートリブートがデブリの衝突に間に合わないなんて、訓練のテキストにも載っていなかったはずだ。
軌道を十周ほど周回して、今回の機体テストは終わるはずだった。いつもなら朝飯前の任務だ。
ナジはついさっきまで、Easy as ABCと軽口を叩いていたぐらいだ。それなのにフレアのせいでこの様だ。
いまさらなにをいってもただの繰り言にしかならないことは充分承知していた。
ただ墜落したのがギリギリ夜側でよかった。これが昼側だと太陽の放射線にやられてしまう。
「ともかく離れよう」
「ヤバいのか?」
「エンジンの暴走を止めることができない。冷却器も効かないし、このままだと推進剤タンクもろとも爆発しちまう」
ナジを抱えて船を離れることにした。救難信号は辛うじて出すことはできたが、しかしベースが墜落位置を正確に把握できているのか判らない。そもそも救難信号が届いているのかも確認できなかった。
フレアの影響がどこまで大きいのか判断がつかないからだ。
ざくっ、ざくっ。
ナジの肩を抱きながら一歩ずつ歩いていく。聴こえるはずのない足音が、しかし頭の中に響く。
ざくっ、ざくっ。
──こんな場所でどうすればいいんだ?
地球から38万キロも離れたこんな場所で、どうすればいいっていうんだ?
「どこへいくんだ?」
「アリスタルコスに補給用の施設があるはずだ、そこまで歩いていく」
「オレを抱えたまま?」
「もちろんだ」
頷くと、ナジはその場に倒れ込むようにしてしゃがんだ。
「どれぐらい離れてるんだ?」
「20キロってところか。メットのシールドにルートが表示されてる」
「なあ、オレをおいてお前だけそこにいって救助を待つってのはどうだ?」
ナジは窺うように訊いてきた。
「考えたさ。でも酸素が保ちそうにない。ゲージがイエロー寸前なのはお前にも見えてるだろ?」
「ちくしょう。そこまでオレにも歩けってか」
「そもそもここでくたばりたくないだろ。月の上で死んだってなんにもならないぞ。砂に埋まることもできないし」
ナジは大きく溜息をつくとよろよろと立ち上がった。
ざくっ、ざくっ。
砂浜を一歩一歩確かめるようにして歩く。
「月の上を歩くって、こんな感じなのかしら?」
玲奈は月翔と一緒に砂浜を歩きながら訊いた。
月翔はその足を止めると、意外そうな顔で玲奈をじっと見つめた。
「ぼくも変わってるけど、やっぱり玲奈、キミも変わってるね」
「なぜ?」
玲奈はただ首を傾げた。
「だって、ぼくはまだ月の上を歩いたことはないからさ」
月翔はそういって笑った。
玲奈はそんな月翔の笑顔を眩しく感じながら、月の上を歩く月翔の姿を想い描いてみた。
「月の上って、どんなかな?」
玲奈はそういうと空を見上げた。
蒼空に半分ほど欠けている月が白く浮かんでいた。
つづく
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