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ものがたり屋 参 朏 その 2

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

朏 その 2

 聴こえる……。聴こえてくる……。遙か彼方の世界から。
 それは時を超えて、空間を超えて、伝わってくる。
 なにかを識らせようとしているんだろうか?
 だれかの呟きなのか、それとも彼方の世界の囁きなのか。
 聴こえる。聴こえてくる。

 ──Can you hear me?
 ──……。……。
 ──Can you hear me?
 ──……。……。……。

「写真見せたっけ?」
 ナジのやつのいつもの彼女自慢だ。
「飽きるほど見たよ」
「そういわずに見てくれよ。去年、陸に上がったときに撮ったやつだ」
 ナジはそういってナビシート脇に貼りつけてあった写真を見せた。
「ひとつ不思議に思うんだが、デジタルデータでいつでも見られるのに、なぜわざわざプリントアウトして、しかもナビシートに貼りつけるんだ?」
 ナジは逆に不思議な生き物でも見るような眼つきで答えた。
「なにいってる。こうしていつでも見ることが大切なんだよ。デジタルだ、は? ビットではおれのアンジーを表現できないのさ。こうしていつも彼女の写真を眺めて、そして話しかけることが大切なんだよ。愛してるぜ、アンジー」
 いつでも、見る、か……。
 いつからだろう、答えが返ってこなくなったのは……。
 そのときだった。警告音がコックピット内に響いたのは。
「なんだ?」
「隕石か、デブリか……」
「ナジ、緊急回避だ」
 ナジは緊張した顔になり、ただ頷いた。
 そして艦内はふいに静まりかえった。すべての計器はオフになり、それまでコックピット内を照らしていたライトまでも消えた。
 そして……。

 落ち葉が道に舞い落ちる。ときおり吹く冷たい風が落ち葉を道の端に吹き寄せていく。その落ち葉をゆっくりと踏みしめながら玲奈は歩いていた。
 かさっ、かさっ。
 その右腕を月翔の左腕に絡ませて、まるでぶら下がるようにして歩いていく。冬の陽射しが空気の冷たさを受けて、きらきらと輝いて見えた。
「落ち葉を踏むときの音が好きなの」
 そういって玲奈は覗きこむようにして月翔の眼を見た。
「なに?」
 月翔は優しく微笑んだ。
「なんだか心ここにあらずって感じだから」
「そうかな?」
「なんだかこのところ変だよ」
 玲奈はそういって小首を傾げた。
「夢を、夢を見るんだ。それもこのところいつも同じ夢を」
 月翔はそういうと小さく溜息をついた。
「どんな?」
「それがね、歩いているんだよ。延々、歩いているんだ」
「うん」
「おかしな話だけど、ただ歩いているんだ。月の上を」
「え?」
 玲奈は足を止めると月翔の眼を見つめた。
「だから、歩いているんだ、月の上を」
「砂浜じゃなくて?」
「そう、月の上を。宇宙服を着て、しかも仲間を抱えたまま歩いているんだ」
 月翔は真顔で頷いた。

「ちくしょう」
 ナジが突然毒づいた。
「どうした?」
「写真を……。アンジーの写真を忘れちまったじゃないか……」
「またプリントアウトすればいいだろう?」
「だからそうじゃないんだ。いつだって写真を手にして、この眼で見ることが大切なんだよ」
 そう嘯くと溜息をついた。
 足を止めて、いったんナジを月面に座らせた。
「どうした?」
「ひと息ついてもいいだろ?」
「ああ、そうだな。やっと半分ぐらいか?」
 シールドに表示されているマップを確認した。
「まだ半分ってところだ」
「まだ?」
「まだだ」
「お前ってやつは」
「なんだ?」
 ナジはただ首を横に振ると、上半身を倒して月面にそのまま横たわった。
「なんだって宇宙にはこんなに星が輝いていやがるんだ?」
 その声になにげなく見上げた。確かに数え切れないほどの星が散らばっていた。見えているのは恒星だ。そのまわりをいくつの惑星たちが周っているんだろう?。その惑星の周りにはさらに衛星もある。この宇宙にはいったいいくつの星があるんだろう?
 ──すべてを数えていたら、きっと一生では足りないかもしれないな。
 天空には青く輝く大きな星がひとつあった。
 ナジは半身を起こすといった。
「なぁ、どうしてオレはここにいると思う?」
「なんだよ、。突然」
「オレはさ、地球を離れて宇宙に出て、はじめてオレが産まれた星こそ、還る場所だと思えるようになったんだ。こうやって青く輝く地球を見ているとこれこそ故郷だってね」
「らしくないな。やけにセンチじゃないか」
「そうは思わないのか?」
 ──地球……。そこは還る場所なんかじゃない……。
「逆だな」
「逆?」
「遠くへ。もっと遠くへ往きたい。それが望みだ?」
「待つ人はいないのか、お前には。たとえばオレにとってのアンジーのような存在は」
「どういうことだ?」
「この前、いわれたんだよアンジーに。あなたの仕事は、無事にわたしの元に還ってくること。それが宇宙飛行士、アストロノーツの一番大切なことなのってね」
「還る処がないからな。だから遠くへ往く。それだけだよ」
 ──何度も何度もこの想いを伝えようとしたさ。
 だから歩いていたんだ、砂浜を。まるで月面を歩いているような気分で。いまに遠くへ、遙か遠くへ往ってしまうから、せめてそのときだけは想いを伝えておきたかった……。
「オレさ、この任務が終わったら還るよ。こうやって故郷の星を見つめていると還るべきだって声が聞こえてくる。アンジーが待ってるんだ」
 口づけを交わしても、この手でその身体を抱きしめても、なぜだろう、この想いがどこまで伝わったのか解らずにいた。だから砂浜を歩いていたんだ。いや、いつもどこかを歩いていた。それはいまいる処から一歩でも遠く離れるために……。

 新しい年になってしばらくして寒く天気の悪い日が続いた。この日はついに空から白いものが舞いはじめた。
 玲奈は分厚いコートを纏い海を眺めていた。
 海から吹いてくる風が刺すように痛い。落ちてくる雪を見て、思わず両手に手袋の上から息を吹きかけた。
「それで暖まるの?」
 月翔はそういって微笑んだ。
「いいの。気持ちの問題なんだから」
 玲奈はそういって唇を尖らせた。
「ごめんね、付き合わせちゃって」
 月翔はそういいながら玲奈の肩を抱き寄せた。
「好きで付き合ってるんだから」
 玲奈はそういって月翔の眼を見つめた。
 月翔はただ頷いた。
「ねぇ、月にも海はあるの?」
「あるよ」
「え? どんな海?」
 玲奈は真顔になって訊いた。
「ぼくがはじめて知ったのは、静かの海。アポロ11号が人類はじめて降り立った場所。といっても岩で覆われた平原なんだけどね」
「そうなんだ」
「海以外はレゴリス、砂で覆われている。だからきっと歩くたびにざくっざくって感じるのかなって思って」
「そうなのね。ざくっざくっ、か」
 そういって玲奈はゆっくりと砂浜を歩きはじめた。
「だからって音はしないよ」
「え?」
 玲奈は小首を傾げた。
「だって空気がないから、音はしない」
「そうか、そうなんだね。ねぇ、だったら宇宙ってとんでもなく静かなの?」
「そういう意味ではね」
 月翔は笑って、玲奈と同じように歩き出した。
「そんな静かなところを歩いているんだ、月翔はいま」
「だから、この感触をきちんと味わいたいの」
「なんだか宇宙飛行士みたいだよ、月翔」
 玲奈はそういって笑った。
「そんなに静かなら淋しいところなのかな」
 一歩一歩確かめるように玲奈も歩く。
「そうだね。夜の部分は零下百七十度ぐらいだから、極寒で静まりかえった世界だね」
「こんな冬の風どころじゃないのね」
 玲奈の頬が赤くなっていた。
 月翔は思わず両手を玲奈の頬に当てた。
「そう寒くて静かで淋しくて、それでも歩くんだ」

 シールドの左下の部分が赤く点滅しはじめた。
「ナジ、エアの残量ははどうだ?」
「オレはまだイエローになったところだ。あと三、四時間は保つだろう。どうかしたか?」
「レッドになってる。それも残量は僅かだ……」
「だってちゃんと離陸前にチェックしただろう? それともどこか漏れてるのか?」
「エア漏れしていたら、それはそれで解るはずだ。だとしたら……」
「チェックミスか?」
「減り方がおかしい。ただのミスじゃない。もしかしたら」
「おいおい、そんなこといいだすなよ」
 ナジはその足を止めた。
「システムが逝かれているかもしれない」
 そういって膝をついてしまった。なぜだろう、息苦しさを覚えはじめた。シールドの端が曇りはじめていた。そんなことは起こらないはずなのに。
「フレアの影響なのか?」
 ナジも同じようにその場にしゃがみ込んだ。
「ベンチレーターかもしれん、逝かれたのは」
 そのまま座り込んでナジの顔を見た。
「あと3キロもないだろ。動けないのか?」
「息が続きそうにない。そっちからも見えるだろ。シールドが赤く点滅しているのが」
「あと3キロだぞ。アンジーの元に還るのもあとちょっとなんだ。なのにオレときたら足がまともに動かないし、お前は動けてもエアがなくなりかけている……」
 ナジの声が投げ遣りな感じになっていた。そのまま勢いよく寝っ転がった。まるで駄々っ子のようだった。
「すまん……」
 ナジと同じように横になった。
 月の砂の上に静かに横たわる……。
 こんなことになるなんて想像もしていなかった。海岸の砂浜をなぜだか月を想いながら歩いていたときだって、ただの一度も。
「アンジー……」
 ナジの呟きが聞こえてきた。
 空一面に輝く星がなぜか揃いも揃ってそっぽを向いてしまったように感じる。いままでは手を伸ばせば届きそうだった。きっとどこかに往ける。そう思ってこれまで宇宙に出ていたのに。
 いつもいつも心の中で描いていた笑顔が頭の浮かんできた。
 ──玲奈……。
 
 とくとくとく。
 微かな鼓動が聞こえる。
 彼の、月翔の胸に抱かれて眠っているとき、この音が聞こえてくると、なぜか玲奈は手放しですべてを委ねてもいい気になれた。安心とか、落ち着くとか、そういった言葉だけでは足りない、とても満ち足りて平安な心持ち。
 それは玲奈がはじめて抱く感情だった。
 子どもの頃に、父や母に抱かれていた安心感とはまた次元の違う感覚。だから玲奈は月翔に抱かれたまま眠るのが堪らなく心地よかった。
 とくとくとく。
 聞こえる。
 そっと眼を醒ました玲奈は月翔の裸の左胸にその耳を押しあてた。そのまま見上げるとカーテンの隙間から月の光が零れてきていた。
 玲奈は起き上がるとカーテンの隙間から空を見上げた。天空には満ちきった月がぽっかりと浮かんでいた。眼を凝らすと、ところどころに影が見える。
「あの影の部分は海だよね」
 玲奈は月翔に教えられたことを思い出してひとりごちた。
 月を見ているうちに勝手に手が動いて、玲奈はカーテンを大きく開けた。蒼白く輝く光りが玲奈に降り注いできた。
 その月はまるではじめて見る星のように思えてならなかった。その輝きも、その大きさも、いままで見てきた月とはどこか違って見える。
 振り返るとその月の光を浴びている月翔がいた。
 玲奈は月翔の眺めの髪をそっと撫で上げるとその唇に口づけをして、またその裸の胸に耳を押しあてるようにして横になった。
 ……。
 なにも聞こえない……。
 玲奈はさらにその耳を強めに押しあてた。
 ……。
 さっきまで聞こえていたはずの月翔の鼓動が聞こえない……。
 玲奈は慌てて起き上がると、月翔の鼻のところに掌を当てた。
 ──!
 月翔はただ静かにそこに横たわったまま。息をすることなく、また心臓を鼓動させることなく、ただそこに横たわっていた……。
はじめから つづく

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