ものがたり屋 参 朏 その 3
うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。
気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。
朏 その 3
聴こえる……。聴こえてくる……。遙か彼方の世界から。
それは時を超えて、空間を超えて、伝わってくる。
なにかを識らせようとしているんだろうか?
だれかの呟きなのか、それとも彼方の世界の囁きなのか。
聴こえる。聴こえてくる。
──Can you hear me?
──……。……。
──Can you hear me?
──……。……。……。
「1.255秒」
いつものように砂浜を歩きながら月翔がいった。
「なにが?」
肩を並べるように一緒に歩いていた玲奈が首を傾げた。
「いま見ている月は、1.255秒前の月なんだよ」
「どういうこと?」
海からはオンショアの風がその芯に凍てつくような冷たさを抱えたまま吹いてきていた。その風に乱された髪を手で押さえるようにして玲奈は月翔の顔を見た。
「月の光が地球に届くのにそれだけ時間がかかるんだ」
「そうなんだ」
玲奈は感心したように頷いた。
「だから、もしぼくが月からきみに話しかけるとするだろう? キミにぼくの声が届くまで1.255秒かかる。そしてすぐにキミが返事をしても、またぼくのところに届くのに1.255秒かかる。話をするだけで2.5秒かかっちゃうってことなんだ」
「近いようで、とても離れているのね」
玲奈はそういうとその身をそっと月翔に寄せた。
星が見える。無数に散らばる星が見えた。
その瞬間、胸いっぱいに酸素が流れ込み、激しく咳き込んでしまった。
大きく見開いたその眼に青く光る地球の姿が飛び込んできた。
──?
月翔は咳き込んだまま、半身を起こすと周りを見た。
そこは静まりかえった月面だった。
──なぜ?
玲奈と一緒に眠っていたはずなのに、なぜなのか。なにがなんだかまったく解らず月翔はただ混乱していた。
「大丈夫か?」
ヘルメットの中に声が響いてきた。
慌てて振り返るとそこに人がいた。スペーススーツを着込んでいる。ヘルメットのシールド越しに月翔を見つめる眼には不安げな色が浮かんでいた。
「ここは……」
「なにいってるんだ。おれたちはアリスタルコスの補給施設に向かっているところじゃないか」
「ああ……」
月翔は曖昧に頷いた。
「そうだ、エアが切れて気を失ったはずだったのに、大丈夫なのか?」
──エア?
「シールドのゲージは?」
月翔はあらためてシールドを見た。左下に左右に伸びるゲージがあった。ブルー、イエローそれからレッドの三色で分けられいる。
「イエローの真ん中だ……」
月翔が呟くと、背後の人物は大きく息をついた。
「ゲージがいかれてたのか、ユニットのシステムがバグってたか、いずれにせよエアは充分ってことだな。いや肝を冷やしたぜ。エア切れで逝っちまったかと思ったぜ」
月翔は両手を眼の前に広げた。グローブをしたその手。スペーススーツと一体になっているようだった。あらためて身体を見た。背後の人物と同じようにスペーススーツを着込んでいた。
──どうなってるんだ?
月翔は混乱したままだった。けれど、どうやらこれは夢ではななさそうだった。そのことだけはなぜかはっきりと判った。できたら頬をつねってみたいところだったけど、グローブした手ではヘルメットの上から頬を直接触ることすらできなかった。
「さぁ、いこうぜ」
その声に促されて月翔は立ち上がった。スペーススーツの窮屈さと、その重力のちいささに戸惑い、月翔は軽くよろめいた。
「しっかりしてくれ。オレは足がまともに動かないんだ、お前だけが頼りだからな」
「ああ……」
月翔は自分にいいきかせるように頷くと、あらためて周りを見た。
静まりかえった世界。響く音もなく、吹く風もなく、星の瞬きもない。ただ天空で輝いているだけだ。それはぽっかりと浮かんでいる青い星、地球も同じだった。
「頼む」
差し出された腕を肩で担ぐようにして月翔は一歩踏み出した。
ブーツの底から感触が伝わってくる。それは玲奈と歩いた砂浜とはまったく違った。砂があたりに散るだけで、ブーツが砂に潜り込むようなことはなかった。
シールドに表示されたマップで方向を確認すると、月翔は覚悟を決めて歩きはじめた。ヘルメットの中で響くのは自分の呼吸音だけだ。ときおり無線のノイズが走る。
月翔はしっかり前を向くと一歩一歩、なにかを確かめるようにして歩いた。
ここがどこだろうといまの月翔には進むしかなかった。
「ねぇ、死んじゃったの?」
玲奈はさんざん泣きじゃくったあと、だれにともなくぽつりといった。
「玲奈……」
麻美はどうしていいか判らず、ただ玲奈の肩をやさしく抱き寄せた。
月翔の心臓の鼓動が止まったことに慌てて、玲奈は麻美に電話をしたのだった。その電話に驚いた麻美は結人とともに玲奈の家にやってきていた。
窓の外にはまだ満ちきった月が浮かんでいた。その月の光がベッドの上で横になっている月翔をまるでスポットライトのように照らしている。
結人は横たわったままの月翔をじっと見つめたままでいた。じっと息を凝らして見つめていた結人だったが、やがてそっと口を開いた。
「大丈夫だから」
そういうと玲奈の顔を見た。
「大丈夫って、どういうこと?」
玲奈は縋るような眼で結人を見返した。
「なぜかは解らない。心臓はちゃんと動いている。けれどふつうでは考えられないほど、とてもゆっくりと」
「ゆっくりってどういうことなの?」
麻美が首を傾げた。
「ふつう人は一分間に70から80回ぐらい鼓動している。いまの月翔はなぜかは解らないけど、それが一分間に一度ぐらいなんだ。だからきっと心臓が止まったと思っちゃったんだよ」
結人はそういって玲奈に頷きかけた。
「ほんとうなのね? 月翔は生きてるのね?」
玲奈がさらに訊いた。
「もちろん」
結人は大きく頷いた。
「でも、どうすればいいの? どうしたら元の月翔に戻るの?」
玲奈はそういうと結人の腕を掴んだ。
「それは……」
「それは?」
結人の腕を掴んだ玲奈の手に力が入った。
「それは……、ぼくにも解らない……」
はぁ、はぁ。
息を吐く。一歩踏み出す。
ヘルメットの中に響く呼吸音が不思議と踏み出す足とシンクロする。リズムが合うとしっかりと歩けるし、このリズムが狂うとなぜか足が乱れた。
真っ直ぐ前を見たまま月翔はその足を運ぶことだけに集中していた。
頭の中は疑問符だらけだった。だからいったん考えはじめると、その疑問符がひとつひとつ勝手に主張しはじめて、ただ頭は混乱するだけだった。
それでもなぜか思ってしまう。
なぜここにいるんだろうと。
はぁ、はぁ。
ここにいるぼくはいったいだれだ?
そう考えているぼくはそもそもだれだ?
ぼくは、ぼくなのか? それともぼくは、ぼくではないのか?
まるで色を失った宇宙の片隅をいま歩いているぼくは、いったいなんなのだ?
玲奈といっしょに眠っていたはずなのに……。
はぁ、はぁ。
歩く。月の上を歩く。
玲奈と砂浜を歩いていたときには聞こえていた音が、いまはまったく聞こえない……。
それはここが月だからだろうか、それともぼくがぼくでなくなってしまったからだろうか?
──玲奈……。
月翔は玲奈の笑顔を想い描こうとして、しかし、その顔をきちんと想い出すことができないことに軽く狼狽してその足を止めた。
「どうかしたか?」
声がヘルメットの中に響いた。
「想い出せないんだ……」
「なにを?」
「大切な人のはずなのに、その顔を……」
担いでいたその腕を放すと、相手はその場に座り込んだ。
「いったじゃないか。写真を肌身離さず持っていればそんなこと考えずに済むんだ。だからオレはいつだってアンジーの写真を見ていたんだ。だから……」
「だから?」
「焼き付いているのさ、オレの脳にアンジーの顔がさ」
「焼き付いているか……」
そう呟くと月翔もその場に座った。
見上げるとそこには青く光る地球があった。そこにいたはずの地球を月面から見ることを不条理に思いながら、なぜか懐かしさを覚えていた。
「いったよな、お前は還るところはないって。遠くへ往きたいんだって。オレは違う。あそこで青く光っている星は還るべきところだ。だからかな、なんだか今日に限ってやけに綺麗に見えるぜ」
「遠くへ往きたい……」
月翔はヘルメットの中で呟いた。
「遠くへ往くって、それまでのすべてを捨てることとは違うんじゃないのか?」
「すべてを捨てる?」
「ああ、お前っていつもそうやって捨ててきただろう。違うか? お前とは何度もこうやって宇宙へ出て任務をこなしてきた。いつも思っていたんだよ、お前を見て。なぜ過去を捨てるんだって」
「過去をか……」
「だからだろ、大切な人も捨てちまったんじゃないのか?」
「まさか……」
「お前ってさ、自分に厳しすぎるんだよ。やっとの思いでロケットに乗って宇宙に出て、つぎは周回軌道のステーションで活動して、そして月へ来た。この次はどうする? 遠くへっていったってせいぜい火星だぜ。いや、それとも木星かな? どう足掻いたって太陽系から出ることなんてできやしない」
「太陽系か……」
「空一面に広がっている星のどこへもいけやしないんだ。太陽系の外へなんて、オレたちの世代じゃ夢の夢だ。それでも往くのか? もっともっと遠くへって。なぁ、いまを、ここにいることを大切にすればいいじゃないか。違うか?」
「どこまで往けるんだろう?」
「どこだって往ける。だけど、どこへも往けやしない。だって、お前はどこへ往ったってお前だからだ。遠くへ往きたいって気持ちは解るけど、ここにいても、どこへ往ってもお前はお前なんだよ。それとも、自分自身も捨てて、どこかへ往こうってのか?」
「そんなつもりは……」
「いやいや、そうだね。お前が一番離れたがってるのは、お前自身じゃないのか? 違うか? ホシノ」
その瞬間、月翔の頭の中に閉じ込められていた記憶がすべて堰を切ったように溢れだした。
はじめて月を意識した子どものころの記憶。夜が明ける前だった。西の空へ沈んでいく月が徐々に欠けていった。
月食だよと教えてくれたのは父だった。
つぎに見た月食は東の空に昇っていく満月だった。月が地球の影に入っていくんだと理科の授業で知った。
それからだろうか、いつも月のことが頭のどこかにあった。大学へ進み、さらに大学院へ。気がついたら月のことしか頭になかった。
愛を知ったのは大学のときだった。
しかし、それを手放したのも月に拘っていたからなのかもしれない。アメリカへの留学を経て、そして宇宙飛行士になった。
そうだ。そのとおりだ。
捨てることで、ぼくは前に進んできたのだ。燃料を使い切ったら切り離して廃棄する多段式ロケットのように。
いや、違う。ぼくはまだ捨てていない。だって玲奈がいるから……。
だとしたら、いまこの月にいる星野月翔はだれなんだ?
こうして月面の砂の上に腰を下ろして、青く輝く地球を見上げてもなお、もっと遠くへ往きたいと願っているこのぼくは、だれだ?
──Can you hear me?
そうだ、聞こえていたよ。
月のことを思うといつも聞こえてくる声があった。いつからだろう。子どものころは頭の中で答えていたような気がする。
いつしか聞こえないふりをするようになって、それでも月のことが頭から離れずに歩くたびに考えるようになっていた。
ざくっ、ざくって、歩くたびに聞こえる音で返事をしていたのかもしれない。
だとしたら、このいまの状態はなんだ?
ぼくの未来の記憶?
ぼくはこうして月に往き、こうやって月面をただ歩くことになるのか?
なぜだ? なぜ、まだ経験していないことをこうやって思い出すことができるんだ?
月翔はいきなり立ち上がった。
「いこう、アリスタルコスへ」
「いきなりどうした?」
月翔は黙っていままでと同じように差し出された腕を肩で担ぐようにして歩き出した。
「捨てることなんてない」
月翔は前を向いたまま呟いた。
「ああ。いままでを大切にして、そしていまを大切にする。だから明日が来るんだ」
ざくっ、ざくっ。
ナジの肩を抱きながら一歩ずつ歩いていく。聴こえるはずのない足音が、しかし頭の中に響く。
「見えるだろ、灯りが。アリスタルコスだ」
「助かったぜ、お前がパートナーでよかったよ、ホシノ」
「ナジ。すぐにアンジーの写真をプリントアウトするのか?」
「バカいえ。通信施設があるんだろ。だったら直に彼女と話しするさ。愛があれば1.255秒のタイムラグなんて関係ないしな」
──タイムラグか……。
もう取り返しがつかないタイムラグだってあるんだぜ。
そういってやりたかったが、その言葉は飲み込んでただ笑うことにした。
──この想いを届けるとしたら時空を超える必要があるかもしれないしな。
苦笑いしながら、閉じ込めていた記憶をそっと探り、その笑顔を想いだした。
──捨てたわけじゃない。それだけは解ってほしい。
こうやって生きてきてしまったから。だからこのままもっと遠くへ往くよ。
アリスタルコスの補給施設の入り口が見えてきた。
眼を開けると最初に飛び込んできたのはやさしい月明かりだった。
満ちきった月の光が月翔の全身を包んでいた。
つぎに見えたのは玲奈の心配そうな顔だった。
月翔はその手を伸ばして、玲奈の頬に触れた。そして囁くようにいった。
「大丈夫。ぼくはここにいるよ」
はじめから
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