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ものがたり屋 参 泡 その 1

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

泡 その 1

 膨らんでいくのは、なに?
 心を満たしていくのその膨らみは、なに?
 その煌めくような膨らみは、なに?
 そしてそれはやがてどうなるの?

 オンショアの風が吹いてくる。
 まるで天空の一番高いところから照りつける陽射しが、空を蒼く輝かせていた。その蒼をまるでそっくり映し取るように海は碧く煌めいている。
 その海から吹いてくる潮風は陽射しと海の熱を孕んではいたけど、決して暑すぎることはなかった。サマーベッドの上で横になって海岸の賑わいを眺めている南村この実にとっては、夏の熱気を帯びたこの潮風は心地いいものだった。
 真夏の逗子海岸。海の家が建ち並び、砂浜にはサマーベッドやシートが並べられ、多くの人たちで賑わっていた。
 そっと眼を閉じると打ち寄せる波音があたりに響いているざわめきを打ち消してくれた。潮の香りを感じてみる。陽射しを受けとめている身体がじりじりと灼けていくようで、それもまたこの実にはどこか嬉しいものだった。
 纏っているのはオレンジのビキニだけ。艶やかな長い髪を後ろでまとめている。
 ──今年は夏を楽しんじゃうんだ。
 なぜだろう、今年に限ってはそんな気持ちになっていて、友だちにも話していた。きっといままでだったら陽灼けには注意していたかもしれなかったけど、今年だけはナチュラルに灼けちゃったらそれでいいかと思っていた。
 顔にはUVカットのクリームを塗ってはいたけど、陽灼けを一切シャットアウトする気にはなれなかった。
 サングラスをずらしてその陽射しを顔でも感じてみる。じりじりと照りつける感覚が心地いい。
 サマーベッドの上で半身を起こすと、海を眺めた。ゆったりとしたうねりが作りだしたちいさめの波が打ち寄せている。ゆるやかに吹いてくる風と相まって、まったりとしたリズムを奏でているみたいだった。
 この実は眼を瞑ると、その風を全身で感じてみた。
 そのときだった。なにかを感じて眼を開けた。その瞬間、眼の前で大きなシャボン玉が弾けた。
 ──なに?
 あたりを見回してみると、すこし離れたところで女の子がシャボン玉で遊んでいた。砂浜に座り込んで、輪っかになっているスティックをシャボン玉液につけては持ち上げている。海から吹く風がそのスティックにあたり、次々とシャボン玉ができていた。
 風向きのせいでそのシャボン玉がまるで狙ったようにこの実のところへ流されてきていた。ちいさなシャボン玉。ちょっと大きめのシャボン玉。さまざまなシャボン玉が海から吹いてくる風に乗って、この実のところ吹き寄せられてきた。
 いくつかのシャボン玉はこの実の眼の前で弾ける。そのたびにシャボン玉液がこの実の顔にしぶきのように飛んできた。
 つい、この実はその子をじっと見つめた。
 その視線を感じたんだろう、女の子はその手を止めてこの実を見つめ返した。眼が合った瞬間、その子は驚いたような顔になり、すぐにすまなそうな表情に変わった。
 立ち上がるとこの実のところへ駆け寄ってきた。
「ごめんなさい」
 この実の傍らに立つと頭を下げた。
「いいのよ」
 この実は笑って答えた。
「でも、シャボン玉が……」
「確かに、いくつかは顔のところに飛んできたわね」
「大丈夫?」
 心配そうな表情でこの実の顔を覗きこんだ。
「大丈夫。だって風のせいだし」
「よかったぁ」
 満面の笑みで頷いた。
「名前は?」
「ななみ」
「ななみちゃんか」
「七つの海って書くんだって。でも、まだ漢字で書けないの」
 そういって七海と名乗った子ははにかんだ。
「わたしはこの実。漢字はひと文字だけなんだよ。だから七海ちゃんより簡単かな」
 この実はそういって七海の顔をじっと見つめた。
 その顔はすっかり陽に灼けていた。まっすぐ伸びた髪が風に揺れる。ワンピースの水着を纏い、その手足にはまだどこか幼児っぽさが残っていた。
「ひとりなの?」
「え? おとうさんと海に来たんだ。おねえさんは?」
「わたしは友だちと一緒。彼女、いま飲みものを買いにいってるんだ」
「それじゃあね」
 七海はくるりと回れ右をして歩き出した。
「またね」
 その背中に声をかけると、七海は振り返って嬉しそうに頷いた。それからいきなり駆けだしていった。
 その後ろ姿をこの実は眼で追った。やがてシャボン玉で遊んでいたところに戻ると、七海はぺたんと座り込んで今度は砂遊びをはじめた。
「どうかしたの?」
 本城麻美に声をかけられた。エメラルドグリーンのビキニを纏い、両手にプラスティックのグラスを持っている。長い髪が緩やかな風に揺れていた。
「え? なんでもない」
 この実は笑顔で軽く首を振った。
「モヒートでよかった?」
 麻美はこの実にカクテルのはいったグラスを手渡すと、となりのサマーベッドに腰を下ろした。
「ありがとう」
 この実はモヒートで満たされたグラスに口をつけた。
「いい天気だよねぇ。陽射しが気持ちいい」
 麻美は空を眩しそうに仰いだ。逗子に住んでいるせいなのか、この実とは違い、綺麗に陽灼けしている。その顔もナチュラルに灼けていた。
「麻美はなに飲んでるの?」
「わたしはソルティドッグ。まさかビールぐいぐいって感じでもないしね」
 麻美は微笑んだ。
「麻美もやっぱり子どものころからいつも海で遊んでたの?」
「なあに、いきなり?」
「うん、さっきシャボン玉で遊んでいる子がいて、そのシャボン玉が飛んできて、わたしの眼の前で弾けたんだ。それで、やっぱり麻美も同じように海で遊んでたのかなって」
「毎日ってわけじゃなかったけど、いろいろな遊びができるから、やっぱり海が多かったかな。水遊びもできるし、浜でほかの遊びもできるしね」
 麻美は海の煌めきを眩しそうに見つめた。
「やっぱり住んでるところによるのかな」
 この実はちいさく溜息をついた。
「この実はどうだったの?」
「わたしは……、わたしはあんまり遊び回ったことがなかったかも」
 この実は寂しそうに笑った。
「この実は横浜だっけ?」
「綱島。ちょっと離れたところに鶴見川があるんだけど、そこで遊ぶってこともなかったし。せいぜい公園で遊んだぐらいかな」
「それじゃ、海で遊び回ってたわたしは野生児だ」
 麻美が苦笑した。
「なんだか羨ましい」
「どこが?」
「だって、子どものころの記憶って学校と塾の行き来だったような気がするんだもん」
 この実はモヒートにまた口をつけた。
「塾か。大変だった?」
「受験だったからね。中学受験で気がついたらなんだかそれがあたり前になってたかも」
「でも、ゲームぐらいはしたでしょ?」
「ちょっとだけよ。時間決められちゃってさ。だから熱中することもできなかったかな」
「テレビは?」
 麻美は首を傾げた。
「プリキュアとかは見てたかも」
「わたしはポケモン好きだったなぁ。ゲームもやってたし」
 この実はじっと黙るとサングラスをかけ直した。
「そうよ、日曜日は毎週テストだったし、夏休みは特別な授業だったし。毎日その繰り返しだった」
「どうだったの、受験?」
 この実は麻美の顔をじっと見つめてから口を開いた。
「第一志望、落ちた」
「そうだったんだ……」
「でも、受かった学校もあったから、それでなんとかセーフって感じ」
 この実はゆっくりとグラスを傾けてモヒートを飲み干した。
「お代わりする?」
「お願い」
 この実は空になったグラスを麻美に渡した。
 麻美は頷くと立ち上がり、飲みものを買いにいった。
 サマーベッドに凭れるようにして横になると、この実は眼を閉じた。また陽射しを全身で受け取る。緩やかに吹いてくる潮風が心地いい。
「おねえちゃん」
 声がしてこの実は起き上がった。七海だった。
「はい」
 七海が手にしていたソフトクリームをこの実に差しだした。
「どうしたの?」
「さっきのお詫び」
 七海はこの実の眼をじっと見ると微笑んだ。
「気にしなくていいのよ」
「ほんとうはね、わたしが食べたくておとうさんにおねだりしたの。おねえさんに迷惑かけたからっていって」
 七海はもう片方の手にしていたソフトクリームを頬張った。
「ありがとう」
 この実は七海が差しだしたソフトクリームを受け取ると、同じように口にした。
「おいしいでしょ。暑いときはやっぱりアイスだよね」
 七海はそれだけいうと、またくるりと回れ右をして駆けだした。
「ありがとう、七海ちゃん」
 その背中に声をかけると、七海は振り返って嬉しそうに頷いて、また元いた場所へ駆けていった。
「はい、モヒートのお代わり。あれ? そのソフトどうしたの?」
 麻美が戻ってきた。手にしていたグラスをこの実に渡して、首を傾げた。
「もらっちゃった。さっき話したでしょ。シャボン玉が眼の前で弾けたって。その子がね、お詫びだっていってくれたの」
「ソフトクリームにモヒートか。ちょっとアンバランス」
「夏だからね」
 この実はまたソフトクリームを口にした。
「海でソフトクリーム食べるなんてこと、なかったなぁ」
 この実はしみじみといった。
「そんなに塾ばっかりだったの?」
「きっとほんとうはそんなことなかったと思うんだよね。でも、なんだかほかのことが頭に浮かばなくてさ」
「だって遊園地いったりとか、家族で旅行したりとかあったでしょ?」
「どうかな……」
 この実は首を傾げた。手にしていたソフトクリームにまた口をつける。コーンの部分を囓りながらぼんやりと海を見つめた。
「弟がいてさ。こいつがね、わたしとは違って遊び回ってたんだよね」
「弟さん、塾は?」
「あいつは中学公立だったからね」
「そうか。でもわたしも公立だわ」
 麻美はそういって笑った。
「あいつ、休みの日はいつもおとうさんと遊んでた」
「この実は塾?」
「そうだね。おとうさんとは遊ぶんじゃなくて、勉強教えてもらってたかな。よく叱られた。なんだってこんな問題が解らないんだって」
 ソフトクリームをコーンの先っぽまで綺麗に食べ終えると、この実はモヒートをひと口飲んだ。
「ねぇ、そのシャボン玉の子ってどんな子?」
「七海ちゃんっていうんだ。ほら、そこにいるでしょ? 砂遊びしているはずだよ」
 この実はグラスを持った手で七海のいる辺りを指した。
「どこ? 子どもなんていないよ」
 何度も辺りを見て麻美が首を傾げた。
「ほら、そこに……。あれ? いないか。どこかにいったのかな。おとうさんと一緒っていってたけど」
 この実はサングラスを外すと、改めて七海がいたはずのあたりを見返して首を傾げた。
「確かにあそこにいたはずなんだけどなぁ……」
 ひとりごちたその言葉をかき消すように潮風が吹いてきた。
つづく

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