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ものがたり屋 参 泡 その 2

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

泡 その 2

 膨らんでいくのは、なに?
 心を満たしていくのその膨らみは、なに?
 その煌めくような膨らみは、なに?
 そしてそれはやがてどうなるの?

 オンショアの風が吹いてくる。
 天空の一番高いところから照りつける陽射しが、空を蒼く輝かせていた。その蒼をそっくり映し取るように海は碧く煌めいている。
「ねぇ、お昼どうする?」
 サマーベッドに横になったまま、麻美が訊いた。
「もう、そんな時間?」
 この実は上体を起こすと、麻美に向き直った。
 海から吹いてくる緩やかな風が暑く感じられる。空を見上げると蒼い天空から強烈な陽射しが降り注いでいた。碧く煌めく海がさらに眩しさを増しているような気がする。
 この実は長い髪をまとめていたヘアゴムを外して、手櫛を通した。改めてヘアゴムでまとめ直す。
「暑くなってきたね。こう暑いと、食べたいものってすぐに浮かばないなぁ。麻美はどう?」
「てきとうでいいかな」
 麻美も上体を起こした。潮風に髪が揺れる。
「なにがあるの?」
「いろいろよ。昔の定番はラーメンに焼きそば、カレーって感じなんだろうけど、いまはお洒落な海の家が多いからね。バーベキューができるところもあるし」
「う~ん、任せた」
 この実はサマーベッドに寝転んだ。
「じゃ、バーガーにする。いい?」
「お願い」
 麻美は呆れたように笑うと、立ち上がってランチを買いにいった。
「この実おねえさん」
 声がして、この実は半身を起こした。
 七海がサマーベッドのすぐ横に立っていた。
「七海ちゃん、どうしたの?」
 この実はサングラスをずらすようにして上目遣いで七海の顔を見た。
「お昼はどうするの?」
 七海はその幼い顔を傾げた。
「お昼か」
「おかあさんがおにぎりいっぱい持たせてくれたから、どうかなと思って」
 七海はじっとこの実の眼を覗きこんだ。
「気遣ってくれてるんだね。ありがとう。でも大丈夫だよ。いま、友だちが買いにいってくれているから」
「そっか」
 七海はちょっとつまらなさそうに俯いた。
「七海ちゃん、やさしいんだね」
「だって迷惑かけちゃったから……」
 七海は俯いたまま呟いた。
「シャボン玉のこと? 気にしてないし、そもそもぜんぜん大したことじゃないから。もう気にしないでいいのよ。さぁ、遊んでらっしゃい」
「うん」
 七海は大きく頷くと、くるりと回れ右をして駆けだしていった。
 この実はその後ろ姿をじっと眼で追った。やはりはじめにシャボン玉で遊んでいたあたりまでいくと、そこにしゃがみ込んで砂遊びをはじめた。
 思わず口元を緩めて、この実は七海が砂遊びしている様子をじっと見つめた。
 ときおり吹く風がすこしだけ強くなったような気がする。陽射しは相変わらず強く、海の碧い煌めきも眩しい。
「この実」
 振り返ると麻美が両手に紙皿を持って立っていた。
「はい」
 この実は頷くと、手渡された紙皿を受け取った。ずっしりと重かった。
「え~、なんだかすごいバーガーじゃん」
「もしかしてファーストフードみたいなものだと思ってた?」
 麻美が笑いながらサマーベッドに座った。
「うん、ちょっと舐めてたかもしれない」
 この実は紙皿に乗ったハンバーガーを改めて見直した。
「逗子ってね、アメリカの人が多いのよ。だから、バーガーも本格的なわけ」
「確かにこれは凄いわ。パティも大っきい。わあ、トマトにオニオンリングも挟んであるのね」
「チーズにレタスもね」
「食べごたえありそう」
「じっくり味わって」
 この実と麻美は視線を合わせると、どちらからともなく笑った。屈託のない笑い声が打ち寄せる波音に重なる。
「ねぇ、どうやって食べればいいの?」
 この実が伺うように訊いた。
「ハンバーガーだもの、ただかぶりつけばいいのよ」
「そっか」
「海を眺めながらかぶりつく。結構いい感じでしょ」
「うん、最高」
 ハンバーガーを頬張りながらこの実は頷いた。
 半分ほど食べたところでこの実はその手を止めて、じっと砂浜を見つめた。サングラスを外すと探るようにして砂浜を見ている。
「どうかしたの?」
 麻美が首を傾げた。
「ほら、あの子。七海ちゃん」
「シャボン玉の子?」
「そう。さっきね、麻美がバーガー買いにいってるときに、また来たのよ。おにぎりがあるけどって」
「へえ。この実のこと気にしてくれてるんだ」
「大したことじゃなかったのにね」
 この実は思わず微笑んだ。
「どこにいるの? 七海ちゃん」
「それが、さっきまで遊んでいるのが見えていたんだけど、またどこかいっちゃったのかな」
「人が多いから。特に今日は」
「そうだね」
 つまらなさそうに頷くと、この実はまたハンバーガーを頬張った。
「このバーガー食べごたえがあるだけじゃなくて、とっても美味しい」
 麻美は嬉しそうな顔で頷いた。
「麻美って、よく海でお昼たべたりしたの?」
 この実はペーパーナプキンで口元を拭くと訊いた。
「歩いてすぐだからね。だからときどき家族でお昼食べたりしたかな。あとは知り合いの人たちとバーベキューしたり」
 麻美は頷いた。
「なんだかそんな話を聞くと、わたしと麻美って別の人種みたい」
「なに、その人種って?」
「だってわたしは塾しか思い出がないのに、麻美は楽しい思い出でいっぱいでしょ」
 この実は口を尖らせた。
「わたしにはこれが普通のことだったんだけどなぁ。ここは遊び場だし、いつも海がある。それだけのことよ」
「それだけのことが、わたしの人生にはなかった」
「この実……」
 この実はただ黙ってハンバーガーを頬張り続けた。すっかり食べ終えると口元をていねいに拭い、サングラスをかけ直して、じっと海を見つめた。
 海から吹く風がまたすこしだけ強くなってきた。潮の香りをたっぷりと乗せて吹いてくる。その風をこの実は全身で受けとめた。やがてサマーベッドの上で両膝を抱えるようにして座り直した。
「そういえば、旅行したことがあったなぁ」
 この実がぽつりといった。
「家族で?」
「おとうさんの実家にいったんだ、夏休みに。車に乗って朝から出かけたっけ」
「どこ?」
「うん、新潟。高速に乗ってず~っと走るの。朝出かけて夕方には着いたかな。途中のサービスエリアで休憩して、お昼食べて。あれ、まだ塾に通う前だった」
 この実はサマーベッドの上で膝を抱えたまま、じっと海を見つめた。
「楽しかったんでしょ?」
「車の窓からいろいろな景色を見ていたはずなんだけど、ところどころしか覚えてないかも」
 この実は苦笑した。
「新潟かぁ。どんなところ?」
「市内だから、どんなところといってもあんまり変わらないよ。でもね、北側に海があるの」
「どういうこと?」
「ほら眼の前に広がっている海は太平洋で南側でしょ。なんだかね、方向感覚が狂っちゃうのよ、新潟の街中を歩いていると。それがなんだか不思議でよく覚えてる」
 この実は麻美の顔を見て笑った。
「確かに、逗子だと海のある方が南だ」
 麻美は頷いた。
「横浜だったそうじゃない。だから新潟の海を見たときね、なんでこっちの方角に海があるのって、訊いたんだ。おとうさんに」
「うん」
「おとうさん笑ってた。日本海は日本の北側の海なんだよって」
 この実は遠くを見るような眼で海を眺めた。
「この実、この前、おとさんの実家に遊びにいくって、四国にいかなかった?」
 その言葉にこの実は寂しそうに頷いた。
「そうだよ、いまは四国がおとうさんの実家なの」
「どういうこと?」
「わたしのほんとうのおとうさんの実家は新潟だったんだ……」
「え?」
 麻美はただ首を傾げた。
「中学に入ってすぐだった。事故で死んじゃったんだ。わたしのおとうさん……」
「そうだったんだ」
「だから一番よく覚えているのが勉強見てもらって怒られたことだったりするのよ。わたし理科があまり得意じゃなくて、それでよく怒られたなぁ」
「理科か。わたしも駄目だったわ。なんだか理屈っぽくて頭に入ってくれないのよね」
「だよね。月の満ち欠けの理屈がきちんと解らなくて怒られたっけ。太陽の周りを地球が回っていて、その地球の周りを月が回っているんだっていわれてもね」
 この実は懐かしそうに笑った。
「だいたい地球が太陽の周りを回っているって実感できないじゃん」
「麻美もそうなんだ。それいったら、お前は天動説の時代の人間かって呆れられた」
「天動説、万歳」
 麻美は真顔で頷いた。
 互いの目を見つめ合うと、やがてどちらからともなく噴き出した。
「飲みもの、どうする?」
「さっきと同じでいい」
 麻美は頷くと立ち上がって、飲みものを買いにいった。
 この実はサマーベッドに横になると、そのまま空を見上げた。蒼空の頂点からすこしだけずれたところで陽が輝いていた。潮風が海から吹いてくる。午後のじっとりとした暑さを孕んだその風がこの実の全身を吹きすぎていく。
「この実おねえさん」
 声をした方を見ると、また七海が立っていた。
「七海ちゃん、どうかしたの?」
 この実はサマーベッドの上で身体を起こした。
「あのね、喉渇いてないかなって」
 七海は伺うような眼でこの実の顔をじっと見つめた。
「飲みものか。大丈夫よ」
「そっかぁ」
 七海は当てが外れたように俯いた。
「どうして?」
 七海はじっと上目遣いでこの実を見つめてから口を開いた。
「だって、麦茶ばっかりで、ジュースが飲みたくなっちゃったんだもん」 
「だから?」
「この実おねえさんが飲みたがってるって話したら、買ってもらえるかなって」
 七海はしきりにビーサンの爪先で砂をほじくるようにしていた。
「あ、ソフトクリームと同じ作戦ね」
 この実は七海の顔を覗きこんだ。
 七海は俯いたままちいさく頷いた。
「いまね、友だちが買いにいってくれてるの。だから残念だけど、飲みものはいらないのよ」
 この実は諭すようにいった。
「この実おねえさんは、なに飲んでるの?」
「わたしはモヒートっていうカクテル。お酒飲んでるの」
「お酒か。お父さんと同じだね。ジュースじゃないんだ」
 溜息に似た声音で七海はいった。
「お父さんは?」
「あそこでビール飲んでる」
 七海は振り向くと砂遊びをしていた場所を指さした。
 がっしりとした背中がそこにあった。
「あの人が、おとうさん?」
「うん。この実おねえさん、おとうさんとお話する?」
「わたしは友だちがいるから大丈夫。七海ちゃん、ちゃんとお父さんに話したら? ジュースが飲みたいって」
 この実は七海の眼をじっと覗きこんだ。
「そうだね。お父さんに話してみる。ジュースが飲みたいって」
 七海は、またさっきと同じようにいきなり回れ右をすると駆けだしていった。
 その後ろ姿をこの実はじっと眼で追った。
 七海はさっきまでいた場所に戻ると、傍らに座っていたおとうさんとおぼしき男性にしきりになにかを話しかけていた。この実はそんなふたりの姿を眼を細めて見ていた。
「はい」
 すぐ横に麻美が立っていた。両手にグラスを持っている。
「ありがとう」
 この実が差し出されたグラスを受け取ると、麻美はサマーベッドに腰を下ろした。
「なに見てるの?」
「また来たのよ」
「だれ?」
「だから、七海ちゃん。喉渇いてないかって。今度は自分がジュースを飲みたくなっちゃったらしくって」
 この実はくすりと笑った。
「それで?」
「おとうさんに、ちゃんとジュースが飲みたいって話せばっていいんじゃないって。だからいまあそこで話しているみたいなのよ」
「どこ?」
「だから、すぐそこだって。あれ?」
 この実は改めてふたりの姿を探した。この実がグラスを持った手で指し示したあたりには人影がなかった。
「買いにいっちゃったのかな。さっきまでふたりで話している後ろ姿見てたんだけどなぁ」
 この実は不思議そうに首を傾げた。
 すこしだけ勢いのある潮風が吹いてきた。夏の暑さを孕んだその風がねっとりとこの実の全身にまとわりつく。
 ──さっきまで、いたのに……。
はじめから つづく

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