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ものがたり屋 参 蟲 その 1

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

蟲 その 1

 視える。なぜだろう、その囁きが視える。
 それは命の囁き?
 それは希望の囁き?
 それとも嘆きのそれなの?
 いま、その先にある光景を視るためなのかもしれない。

 カレンダーは新しい月になったというのに、まだ陽射しそのものは真夏のそれだった。まだ午前中だというのに強烈な陽射しがまるでスポットライトのように降り注いでくる。
 産形愛生はうっすらと浮かびはじめた額の汗をその手でそっと拭うと、公園の隅っこにあったベンチに腰を下ろした。
 すぐ後ろに立つ樹がささやかな陽影を作っている。ときおりそよ吹く風がその顔を撫でていくけど、それは熱気を含んだものだった。
 愛生は短く綺麗にカットした髪に手をやった。淡いブラウンに染めてみたけど、自分としてはなかなかいい感じになったと思っていた。ただ残念なのはそれを褒めてくれる彼がいないことだった。
 鮮やかなオレンジ色のTシャツに短めのデニムのスカート。裾から覗く膝小僧を眺めながら、愛生はそっと溜息をついた。それは暑さのせいでもあったし、隣に座る人がいないことのせいかもしれなかった。
 ベンチの背凭れに凭れると空を見上げた。入道雲が湧きあがった碧空が、まだまだ夏が続くことを教えてくれた。
 大学にいけば多くの友だちはいた。けれど、ただ親しくお喋りする存在を越えないことも、また確かだった。
「独りには馴れてるつもりなんだけどなぁ」
 愛生はぼそっと呟いてみた。
 かさかさ。
 そのとき背後から微かな音が聞こえてきた。
 思わず振り返ってみたけど、そこにはささやかな陽影を作っている樹があるだけだった。
 かさかさ。
 それでも、聞こえる……。
 愛生はその樹をじっと見つめた。濃い緑色に繁る葉のところどころに実がなりはじめていた。まだ色は熟していない青いまま。
 ──もしかして夏蜜柑の葉が揺れた?
 それでもどこから聞こえてくる音なのか確かめたくなって、愛生はそっと眼を閉じた。
 この年の五月すぎのことだった。愛生はとても不思議な体験をしていた。
 それは──。
 この世には生きていない人の姿が突然見えるようになるという特異なものだった。
 だれにでも起こることではない。どうして起こったのかをだれにも説明できない。けれどそれは紛れもなく愛生にとっては現実の体験だった。
 それは突然発現して、そしてほどなく消えた。けれど消え去ったのではなく、それからときおり愛生は不思議な体験をするようになっていた。この世には生きていない人の姿が視えるということもあったし、なにか怪しい気配を感じることもあった。それもまただれにも説明できないことだった。
 だから愛生はそっと眼を閉じると、それがどんな種類のものでもきちんと感じられるように心をすこしずつ広げていった。たとえば五感の触覚を伸ばすように。
「ここだよ……」
 まるで独りごとのように囁いているなにかが聴こえた。それは声とはいえない、さながら波紋のような響きだった。愛生だから感じ取ることができるなにか。それを愛生自身は言葉として説明はできないけれど、この感覚をあの日以来信じてきていた。
「ここだよ……」
 聴こえる。その囁きが愛生の心には視える。
 愛生は立ち上がるとベンチのすぐ後ろの樹に近づいた。濃い緑色の葉が茂っている。その葉の間には、色づく前の実が成っていた。
 葉を一枚一枚じっと視ていく。
「ここだよ」
 その葉の中の一枚から聴こえる。重なっていた上の葉をそっとめくるとそこにいた。
 蟲だった。
 ──いもむし?
 愛生は昆虫の類にはまったく興味がなかった。どちらかというと気持ち悪いといってもいいだろう。逃げ出したくなるほどではないにしても、好んで近寄りたいとは思えなかった。
「ここだよ」
 それでも、その蟲から聴こえる。
 愛生はじっとその蟲を見つめた。全体は黒褐色に覆われ、ところどころ白い斑点のような模様が入っている。強烈な陽射しが当たったためか、蟲はその身体を持ち上げるように動いた。めくった葉を戻すと、元の状態に戻っていく。
 その蟲が愛生になにを伝えたいのか、まったく解らなかった。だからどうするつもりでもなかったけど、しかし聴こえてきた囁きをそのままにしておくこともできなかった。
 愛生はポケットからスマホを取り出すと、その蟲の写真を撮っておいた。

 その日の昼、愛生は逗子にいた。大学の友人、本城麻美とランチの約束をしていたのだ。
 逗子海岸で待ち合わせしたふたりは、海の家の撤去がはじまった海岸を歩きながら、逗子湾に沿って走る国道134号線脇のカフェへと向かっていた。
 強烈な陽射しはもちろん、午後になって吹きはじめた風はやはりまだ夏のまま。暑さを孕んだねっとりとしたものだった。その風が海岸を歩く愛生と麻美の髪を乱す。
「愛生、髪染めたんだ」
 麻美は乱れた髪を手で直しながら尋ねた。
「判る?」
 愛生はその短い髪が乱れるのも気にすることなく答えた。
「うん。とってもすっきりした色だね。愛生らしいよ」
「なんだか、麻美にいわれてもなぁ。嬉しさ半分ってところかも」
 愛生はそういうと小首を傾げてみせた。
「そうか、わたし以外のだれかに褒めてもらいたいんだ」
 麻美はそういって探るような眼で愛生を見た。
「まあね」
 愛生はすまし顔で頷いた。
 ふたりはお目当てのカフェに着くと、そのままベランダに並べられたテーブルに座った。国道を挟んで逗子湾が眼の前に広がっている。海を渡ってきた潮風が吹いてくる。
 ランチのセットを頼むと、まずテーブルに置かれたアイスティのグラスにそれぞれ手を伸ばした。
「最近、どう?」
「どうって?」
「愛生、いろいろ視えるようになったっていってたでしょ。どうなったのかと思って」
 麻美は愛生の身に起こった不思議な体験を知る数少ない友人だった。もうひとり知っている友人がいた。そもそも視えるようになったきっかけの人物といってもいいかもしれない。
「もういろいろあったけど馴れちゃった」
 愛生はそういって微笑んだ。
 やがてランチのセットがテーブルに運ばれてきた。冷製スープにワンプレートのオムライスと山盛りのサラダの盛り合わせ。ふたりはすぐにスプーンを手に食べはじめた。
「それがね、今朝もちょっとあったんだ。近所の公園を散歩してたの。そしたら」
 その手を止めると愛生が囁くようにいった。
「そしたら?」
 麻美は愛生の言葉に小首を傾げた。
「声が聴こえてきたの。ベンチの裏の樹から」
 愛生は辺りを窺うように見回してから、小声でいった。
「え、樹から?」
 愛生は麻美の言葉に頷くと続けた。
「樹じゃなくて、その樹の葉に乗ってた蟲だったの。変でしょ、蟲の声が聴こえるって」
「わたしもね、馴れちゃったの。不思議なことだらけの体験を立て続けにしているから」
 麻美はそういうとオムライスを頬張った。
「麻美もいろいろあったんだよね」
「そうよ。もう散々な目にも遭ってるし。それもこれも」
「それもこれも?」
 愛生はその手を止めると麻美の顔を見た。
「あいつのせいに決まってるでしょ。ほんとうにあいつのおかげなんだから」
 麻美はそういって小鼻を膨らませた。
 愛生は気がついたようにスマホを取り出すと、画面を操作して麻美に見せた。
「これ。これがその蟲」
 麻美は一瞬画面を見たけどすぐにその眼を逸らした。
「駄目。食欲なくなっちゃう……」
「あっ、ごめん」
 愛生はすぐにスマホの画面を消した。
 しばらく黙って食べ続けていたふたりだったが、やがて愛生がぼそっと口を開いた。
「なんの蟲か、判る?」
「その手の話はまったく無理。蟲とか昆虫とか、その類はまったく無理」
 麻美は素っ気なく答えた。
「そうだよねぇ」
 愛生はそういうとほぼ食べ終えたプレートをじっと見つめた。
「気になるなら、あいつに訊いてみる?」
「そうだね。せめてどんな種類の蟲なのか、知りたいかな」
 愛生はそういって頷いた。

 久能結人がそのカフェにやってきたのは、麻美がスマホで連絡してから十分ほど経ってからだった。
 食事のプレートが片付けられたテーブルにはアイスティのグラスだけが残っていた。そのテーブルにいたふたりを見つけて、結人は麻美の隣に座った。
「どうかしたの?」
 席に着くなり麻美と愛生の顔を順に見て、結人は口を開いた。
「うん、愛生がね、ちょっと訊きたいことがあるんだって」
 そういって麻美は促すように愛生の顔を見た。
「今朝のことなんだ──」
 愛生は辺りを窺ってから口を開いた。
 公園で聴いた蟲の声のことを訥々と結人に話しはじめた。それからスマホで撮った写真を見せた。
「これか。揚羽の幼虫だね。並揚羽」
 結人はひと眼見るとすぐに答えた。
「え? すぐに判るんだ」
 愛生がちょっと感心したようにいった。
「結人、専門外じゃないの?」
 麻美も意外そうに訊いた。
「ほら、蟲の観察って小学校のころにやらなかった? 夏休みの課題とかさ」
「女の娘は蟲とは無縁なの」
 麻美はそういって口を尖らせた。
「これ夏蜜柑の樹でしょ。揚羽の幼虫はミカン科の葉を食べるんだよ。葉を食べて、何度か脱皮して最後は蛹になって、それから蝶になるんだ」
 結人の言葉にふたりは同じように頷いた。
「全体的に黒っぽいだろ。これはね、鶏の糞に似せているんだ。保護色だね。幼虫の最後は緑一色になる」
「ねぇ、並揚羽って?」
 麻美が首を傾げた。
「揚羽にもいろいろな種類があるんだけど、ぼくたちがよく街中で見かけるふつうの揚羽のこと。だから揚羽といえば、この並揚羽のことだと思えばいいよ」
「どれぐらいで蝶になるの?」
 じっとスマホの画面を見ていた愛生がその顔を上げて、訊いた。
「そうだね、卵から孵って二三週間で何度か脱皮しながら緑色の幼虫になる。それから二週間ほどで蛹になって、そして一週間ほどで蝶になるはずだよ。ちょうど夏休みの期間にぴったりなんだ」
「だから夏休みの課題だったの?」
 麻美が訊くと結人は笑いながら頷いた。
「蝶になってどれぐらい飛び回れるの?」
 愛生は真顔のままで結人に訊いた。
「そうだな、だいたい一週間から二週間ってところだと思う」
「短いのね、意外に。蝶でいられる時間って」
 愛生はそう呟くようにいうと、改めてスマホの画面に視線を落とした。
 
 もぞもぞ。
 身体全体をくねらせるようにしか動かせなかった。
 もぞもぞ。
 見える世界は緑一色。幾重にも葉が重なっている。その中の一枚の上に愛生はいた。
 ときおり葉が揺れ、その隙間から陽射しが零れてくる。その強烈な陽射しが当たると身体全体が乾いていくのが判った。身体を立てるようにして、陽に当たる部分を少なくして調節する。
 もぞもぞ。
 ただ動いて、ただ葉を食んで、そしてまた動く。
 もぞもぞ。
 身体全体をくねらせる。そのうち身体全体に不思議な感覚を覚えはじめた。まるでなにかに締めつけられているような違和感。ちいさな世界に閉じ込められ、身体全体が圧迫されているような感覚だった。
 動こうとしたけど、いままでとは違ってすぐに身動きがとれなかった。
 なにかに縛りつけられているような不自然さが全身に走る。しかし身動きができないジレンマ。
 ばりばり。
 そのときだった。
 ばりばり。
 ふいに頭の部分を動かすことができるようになった。顔を上下に振るようにして、そこからすこしずつ抜け出していく。それまで身体全体を覆っていたなにかを振り払うようにして、頭をまず覗かせる。
 うねうね。
 身体全体をうねらせるようにして動かす。まるでねっとりとした水中を泳ぐように身体全体をうねらせる。そのたびにすこしずつすこしずつ圧迫感が減っていく。それまで身体全体を拘束していたなにかから脱するように、すこしずつすこしずつうねらせる。
 どれほど時間がかかっただろう。気がつくと世界は一変していた。
 それまで身体全体を締め付けていたはずの狭い世界ではなく、開放感溢れる空間に、愛生はいた。
 身体を持ち上げて振り返る。そこにはいままで纏っていた殻が残っていた。脱ぎ捨てた殻。
 ──脱皮したんだわ。
 はっと気がつくと愛生は眼を開けた。
 暗がりの中に天井が見えた。ベッド脇のカーテンの隙間から零れてくる微かな明かりで部屋の中がぼんやりと見える。
 愛生はゆっくりと上体を起こすと、改めて自分の身体を見た。あたり前だけど、いつもとは変わらない姿だった。パジャマとして使っている長めのTシャツの裾が捲れて、膝上まで覗けていた。それもいつものことだった。
 愛生は辺りを見回した。どこにも、なにか脱いだものはなかった。
 愛生はほっと溜息をついた。
 Tシャツの下に手をやる。汗をかいていた。夏の夜だから汗をかくことはある。けれど、このときはちょっとだけその汗が多い感じがした。
 愛生はふいに両腕で自らの身体を抱きしめた。
 ──なんなの?
 いままで浸っていた夢の世界の景色を想い出そうとして、しかしほとんどなにも記憶に残っていないことに愛生はなにか釈然としないものを感じた。
 ──わたしはなにかをいいたいの? それともなにかを受け取り損なったの?
 ベッドサイドの時計を見ると、まだ二時半過ぎだった……。
つづく

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