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ものがたり屋 参 蟲 その 2

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

蟲 その 2

 視える。なぜだろう、その囁きが視える。
 それは命の囁き?
 それは希望の囁き?
 それとも嘆きのそれなの?
 心の奥底にある深く暗い森の中から零れてきたものなのかもしれない。

 眼醒めの気分は最低だった。
 起きてはみたものの、自分の身体のはずなのになんだか借り物のように感じられた。ベッドの上で愛生は髪を両手でクシャクシャと乱暴に乱すと、大きく溜息をついた。
 ベッド脇の窓にかかるカーテンを開けた。その途端に強烈な陽射しが射しこんできた。その陽射しはまだ真夏のそれだった。
 思わずその眩しさに顔を顰めると、愛生はのろのろとベッドから離れた。
 バスルームへいき洗面台の鏡を見た。どこかまだ寝ぼけたままの顔がそこには写っていた。そっと手を延ばして鏡に写る自分の顔に触れてみる。あたり前だけどなにも変わりはしない。
 シャワーを出した。湯になったことを確かめると、愛生は汗ばんでいたTシャツを脱ぎ、全裸になるとシャワーを浴びた。
 頭の上から落ちてくる湯をそのまま受ける。すこしずつだけど汗が湯に流れていく。そして、身体にまとわりついていた拭いきれないなにかも一緒に流れていくようだった。
 納得いくまでシャワーを浴びた愛生はバスタオルを手にバスルームを出た。ていねいに身体を拭いながら、そのままベッドへと戻った。拭き終えたバスタオルを床に落としたまま、ベッドに横になった。
 全裸のままで仰向けになり天井を見つめた。
 窓から射しこんでくる強烈な陽射しを全裸のまま全身で受けとめた。肌が灼けるような暑さだった。
 ──これが、わたしよね。
 そのままのわたしのはずだわ。なのに、なぜなんだろう? どこかがなにか違う気がするのは……。
 愛生は自らの手で自分の身体に触れていった。
 髪をその両手でまさぐり、顔を撫でると、肩からゆっくりと触っていく。それぞれの腕を、乳房を、腹から下腹部、そして太股の辺りまで。そこで身体を起こすとさらに足のつま先まで触れていった。
 ──こんなに頼りないんだっけ?
 愛生は自らの肉体がそこにあるにも関わらず、なぜかその存在感をきちんと感じとることができずにいた。
 あらためて眼の前で両手を広げて見つめた。空っぽの掌がそこにあった。

 まるで真上から降り注ぐシャワーのような陽射しだった。ねっとりとした風の固まりがまとわりついて離れてくれない。愛生はちょっとした息苦しさを覚えながら公園へといってみた。 
 陽射しが強い分、その樹が作る影も濃い。昨日と同じように愛生はベンチに座った。見上げると重なる葉の隙間から、天空へと駆け上った陽射しが透けて見えた。ときおり吹く風が葉を揺らすと、陽射しがそのまま降り注ぐ。
 愛生はその陽射しの強さを感じながらそっと眼を瞑った。
 なにかを感じることができるように、ゆっくりと心の広げていく。まるで五感の触角を蜘蛛の巣のように辺りに張り巡らすように。
「ここだよ……」
 ──聴こえた!
 愛生は眼を閉じたまま、その声をじっと聴き取ることにした。
「ここだよ」
 その声はやはり昨日と同じように背後の樹から聴こえてくる。
 愛生にはまるでだれかに話しかけられているような感覚があった。もちろん、愛生の後ろに人が立っているはずはない。けれど、なぜだろう、このとき愛生にはまるで樹の陰にそっと身を隠しているだれかが囁いているように聴こえたのだ。
 愛生は眼を開けた。
 相変わらず強烈な陽射しが辺りに降り注いでいた。なにもかもが必要以上にくっきりと見える。輪郭だけでなくその色も鮮やかすぎるように映る。
 愛生は立ち上がると背後の樹へ歩み寄った。濃い緑の葉が茂り、葉の間にはまだ色づいていない果実が成っている。その葉の一枚の上にいた。
 昨日とはその色が違った。もうすっかり緑一色になっている。頭といっていいんだろうか、そこにはまるで眼のような黒い斑点があり、お腹の部分には白い模様があった。そのなりもかなり大きくなっていた。
 葉の上をうねうねと動きながら葉をせっせと食んでいる。
 動いている様を見て、なぜか愛生はほっとした。
「ここだよ」
 聴こえるのはそれだけ。それでもそこに蟲がちゃんといることに、不思議なことに愛生は妙な安堵を覚えていた。

「色が変わってたんだ、緑一色に」
 逗子駅近くのカフェで愛生は麻美と向かい合って座っていた。両手で珈琲のはいったカップを挟むようにして持ったまま、愛生をそういうと、じっと麻美の顔を見た。
「まだ続くのね、その話が」
 麻美はそんな愛生の顔を見返していった。
「だって、気になるんだもん。しかも、なんか変な夢、見ちゃったみたいだし……」
「夢って?」
 麻美はそういって首を傾げた。
「それがね、ちゃんと覚えていないの。ただなんだか変な夢を見たことだけが頭のどこかに残っていて、それがどうしても気になるのよ。こんな話できるのは……」
「そうか、あいつしかいないよね」
 麻美はそういうと、穏やかな眼つきになり改めて愛生を見た。
「愛生ってやさしいんだね。わたしに気を遣うことないよ。あいつと話したいなら、直接話せばいいんだから」
「そうはいっても、やっぱりね」
 そういって愛生は頷いてみせた。
 結人が姿を現したのは、麻美がスマホで連絡してすぐだった。
 入り口でふたりの姿を見つけると、珈琲のはいったカップを手にやってきて、麻美の隣の席に座った。
「緑に変わったんだって?」
 結人はカップに口をつける前に愛生の顔を見て訊いた。
「そうなの」
 愛生は頷くとスマホで撮っておいた写真を見せた。
「これ、五齢幼虫っていうらしい」
「はじめて聞いた」
 麻美が結人の横顔を見ながらちょっと見直したようにいった。
「昨日、いろいろと聞いたからね。だからちょっと調べてみたんだ」
 結人はそういって軽く頷いた。
「それで、どうなるの?」
 愛生が身を乗り出すようにして訊いた。
「このあと蛹になる場所を探して、そこで蛹になる」
「それから蝶になるのね?」
 愛生が小首を傾げた。
「この時期だと蛹になって一週間ぐらいかな、蝶になるのは」
「この時期って?」
 麻美が横から口を挟んだ。
「うん、冬の時期だと、春まで蛹のままでいるんだ」
「季節がちゃんとわかるんだ」
 麻美が感心したように頷いた。
「それはいいんだけど、なぜ聴こえるのかな。その、蟲の声が……」
 愛生はそういってぼんやりと窓の外を見た。
 駅前のロータリーが見えた。夏を思わせる陽射しが降り注ぐ中、多くの人が行き交っていた。急ぎ足の人、のんびりと話をしながら歩く人、待ち合わせをしている人や、ただ時間を潰しているとしか思えない人。さまざまな人がそこにはいた。
「なぜ、わたしなのかな……」
 愛生がぽつりと呟いた。
「音叉の実験って覚えていない?」
 結人はそういって愛生の顔を見つめた。
「それって音叉ふたつ並べて鳴らす実験のこと?」
 麻美が確かめるように訊いた。
「理科の実験でやったと思うけど、同じ音が鳴る音叉の片方を鳴らすと」
「もう片方も鳴りだす」
 結人の言葉に麻美が続けた。
「なんだかやった覚えがあるかも」
 愛生もそういった頷いて。
「共鳴の実験なんだ」
「共鳴……」
 そういって愛生は結人の顔を見返した。
「きっとキミは共鳴しやすいんだと思う。前にも相談されたよね、この世に生きていない人の姿が突然見えることがあったときに」
「あのときは、わたしが視るべきものだと判断したモノが視えるんだって。確かそういわれた」
 愛生が思い出しながらいった。
「人には見えない世界をキミは視ることができる。それはその世界とキミの感覚が共鳴しているからでもあるんだ。だからその世界が視えるし、感じることができる」
 結人はゆっくりといいながら頷いた。
「ふつうの人はこの世界にチャンネルが固定されていて、滅多なことでそれ以外の世界と共鳴することはないけど、キミはこのチャンネルが自由に動かせるんじゃないかと思う。だから視るべきだと思った世界が視えるし、感じることができる。今回はだから、その蟲の声にキミのチャンネルが合ってしまった」
「なぜ蟲なの?」
 麻美が不思議そうに訊いた。
「それはだれにも」
 結人は麻美の顔を見ていった。
「そうよね、だれにも解らないわよね。わたしが感じるべきだと判断したわけだから。本人にもさっぱり解らないけど」
 愛生はひとりごちるようにいうと、背凭れに凭れかかるように座り直した。
「ねえ、蟲ってなにか考えてるのかな」
 愛生は天井を見上げながらぽつりといった。
「そうよ、脳ってあるの?」
 麻美が頷きなから訊いた。
「その蟲はどうなのかきちんと知らないけど、一般的に昆虫にもあるよ」
 結人の言葉にふたりは頷いた。
「人の脳が千億のニューロンでできているとしたら、だいたい百万個ぐらいのニューロンでできているらしい。だから大量の情報を処理するのは難しいだろうね。ただ昆虫はいろいろな場所の神経節がそれぞれ独立して反応できるみたいだね」
「どういうこと?」
 麻美が首を傾げた。
「たとえば頭がもげても、蝶なら羽ばたき続けたり、脚が動き続けたり、それぞれの部位が動きを制御しているみたいなんだ」
「頭がもげてもって、想像したくない」
 愛生はそういって首を横に振った。
「痛くないのかな」
 麻美の問いかけに結人は答えた。
「痛みは感じないみたいだね、昆虫は」
「夢、見るのかな。たとえば蛹になっているときとか。ほら蛹になったら、その中でじっとしているんでしょ?」
 愛生は結人に向き直ると訊いた。
「夢か。どうなんだろう? 抽象的な思考はできないだろうね」
「そうなのか」
 愛生は納得していいのかどうか曖昧に頷いた。

 月の半ば。
 大学では後期の授業がはじまって一週間ほど経っていた。陽射しは相変わらず強く、キャンパスを闊歩する学生たちもまたどこか夏気分が抜けていないようだった。
 昼を過ぎたカフェエリアでは窓からその強烈な陽射しが射しこみ、そのまま夏がいつまでも続きそうな感じすら漂っている。その一角のテーブルで麻美はスマホを見つめたまま、じっと考え込んでいた。
「悩みごと?」
 ふいに声をかけられ、顔を上げると結人がテーブルの傍らに立っていた。
「悩みごと……。ちょっと違うんだけど、でも似たようなものか」
 麻美は自らに呟くようにいった。
「どうしたの?」
 結人はそういいながら向かい合うように座った。
 麻美は辺りを窺うように見回してから、結人に顔を寄せると小声でいった。
「愛生がね、まったく連絡が取れないのよ。後期がはじまったっていうのに、たぶん一度も大学に来ていないみたいだし……」
「もしかして、あれっきり? ほら逗子駅前のカフェで 話をしただろ」
 結人は訊くと、麻美はただ黙って頷いた。
「どうしよう?」
 麻美は心細げに結人の顔を見た。
「まったく連絡が取れない?」
「そうなの。電話にも出ないし、メッセの返事もないし……」
「そうか……」
 結人はそういうなり腕組みをした。
「連絡が取れないなら」
「どうしたらいい?」
 麻美は首を傾げて、じっと結人の眼を見つめた。
「直接、彼女の家にいくしかないだろう。それが一番手っ取り早いかな」
「そうだよね」
 麻美は結人の言葉に頷くと、改めて手にしたスマホをじっと見つめた。
 ふたりはその足で愛生の家にいってみることにした。
 彼女の住むマンションに着くとまず管理人に話をして、鍵を開けてもらうことにした。念のためということで管理人は愛生の実家にも電話で連絡して、許可を得てのことだった。
 彼女の部屋の鍵を開けてもらうと、ふたりは彼女の家に入った。
 玄関にはパンプスやサンダルがきちん並べられている。そこから見る限りとくになにか変わったところはなさそうだった。
 そこで靴を脱ぎ、廊下を歩いていく。
 静かだった。
 むしろ静かすぎた。
 すぐにリビングだった。廊下から見えるリビングの窓はきちんと閉まっていたけど、カーテンは開いたまま。そこから強烈な陽射しが部屋に射しこんでいた。
 そのリビングに入った瞬間、麻美の足は凍りついたように止まってしまった。
 リビングの真ん中に、見たこともないものがあった。
 天井から何本もの糸で吊り下がっていて、床にも同じように糸で固定されているようだった。
 薄らと透きとおってはいたけど茶色がかった肌色をしている。
 蛹だった。
 蛹がリビングの真ん中にあった。
はじめから つづく

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