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ものがたり屋 参 蟲 その 3

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

蟲 その 3

 視える。なぜだろう、その囁きが視える。
 それは命の囁き?
 それは希望の囁き?
 それともなにかのはじまりなの?
 始原のときの産声なの?

 まるで陽だまりの中を揺蕩っているようだった。
 眼醒めているわけでもなく、また眠っているわけでもなく、ただ温もりの中にあって、午睡に落ちる前の微睡みのようでもあった。
 真っ暗な闇の中でぽっかりと浮かんでいるようなそんな感覚。一糸も纏わずそれでも温もりに包まれて安堵に満ちていた。そんな記憶はなかったが、羊水の中で眠っているような感じでもあった。
 やがてその漆黒の闇の中に微かな光の粒が視えた。
 それは視覚が捉えたものなのか、それともただ感じたことなのか、きちんと分けて考えることはできなかった。けれど光の粒が視えた。
 気がつくとその粒の数がすこしずつ増えていく。それにつれて粒同士がまるで糸で繋がっているようにそれぞれの周りを回りはじめた。
 ゆっくりと動き出した粒たち。すこしずつそのスピードが速くなっていく。
 くるくると回りながら、中心になった粒にほかの粒がぶつかりはじめた。ぶつかり跳ねとばされ、周りを回り、またぶつかる。すぐにぶつかって、そのまま粒の中へと入ってくものが出はじめた。
 くるくる。くるくる。回る、回る。
 真ん中の粒がすこしずつ大きくなっていく。
 大きくなるにつれて、そこに飛び込んでいく粒が増えていく。さらに多くの粒がくるくると回り、そして真ん中へと飛び込み、粒が膨れていく。
 やがて真ん中の粒は赤い球体へとなっていく。それに伴ってその周りを回る粒も変化していく。細かな粒でしかなかったものが、いろいろな大きさの粒になり、さまざまな色の粒になっていく。
 赤い球体の周りをいろいろな大きさの粒が回り、さまざまな色の粒が回る。
 その粒が飛び込んでいくたびに真ん中の球体の色が微妙に変わっていく。真っ赤だったはずの球体はやがてオレンジ色に変わり、そしてさらに黄色になっていった。
 黄色の球体はさらに膨れていく。その周りを回っている粒もそれぞれが球体へと大きくなっていく。
 それでも回る。
 くるくる。くるくる。回る、回る。
 やがて周りを回っていたはずの粒や球体がすべて真ん中の黄色い球体へと飛び込んでいった。
 その球体の色がさらに変わっていく。黄色だったその色がやがてすこしずつ白くなっていく。そして黄色を帯びた白から、やがて真っ白へと変わっていく。
 その色が変わるにつれて、それまで膨れるだけ膨れていた球体が、今度は縮まりはじめた。
 縮む。縮む。ぐっと縮む。
 縮むだけ縮むと、その球体は真っ白からすこし青味がかったところで急に見えなくなるほど縮んでしまった。まるです~っと消えてしまったようだった。
 次の瞬間、なにかが弾けた。
 光だった。光が弾けて、それまで漆黒だったはずの視界、きっとそれは世界そのものなのかもしれなかったが、光に満ちあふれたものへと変わった。
 その光があまねく広がり、すべてを照らした。それまでの温もりとはまた違った暖かさがそこにはあった。
 飛び散った光がやがてあちこちでまた集まりはじめた。
 至るところに球体ができはじめる。大きさも、そして色もばらばらの球体。それぞれが互いに回りはじめ、そしてすべてがゆっくりと動きはじめる。
 互いが互いの周りを回りながら、全体がゆっくりと動いている。そのすべてが回転をしながら、そしてゆっくりと広がっていく。
 弾けた光が球となり、そしてそのまま闇を押し広げていくようだった。広がるにつれて、光はすこしずつその色を失っていく。いや、色が消えていったのではなく、限りなく広がっていったからだった。

「どういうこと?」
 麻美は途惑ったまま言葉にできなかった思いを口にした。
 海から吹く風が思いの他強く、麻美の長い髪をまるで弄ぶように乱した。
 愛生の家でそれを見たとき、あまりのことになにもいえなかった。まさかという思いと、いったいなにが起こっているのか、麻美には想像することすらできなかったからだ。
 ただ黙ったまま愛生の家を離れ、結人とふたり口を利くこともなく、逗子に戻るとその足は自然と海へと向かっていた。
 こうして夏を思わせる陽射しに碧く煌めく海を見ていても、愛生の家で見た光景を頭から消し去ることができず、だからといって、結人とほかの話題を口にすることもできなかった。
 だからだろう何度も心の裡で呟いていた言葉が、口をついて出た。しかし、それはなにを問うたらいいのか、解らないままの戸惑いの言葉にすぎなかった。
「どういうことなの?」
 まるで吹いてくる風に向かって問い糾すように麻美はいった。
 傍らの結人はそんな麻美の横顔をただ黙って見つめていた。
「ねぇ、結人。あれはいったい……」
 麻美はそういって視線を結人の顔に移した。強めのオンショアが麻美の髪を乱す。それに手をやることなく、ただじっと結人の眼を見つめた。
「だから、この世には、だれにも説明できない不思議なことが溢れているんだよ」
「でも、なぜ?」
 麻美はそういって首を傾げた。
「なにがどうなってるのか、愛生がどうしたのか、ぼくにもまったくなにも解らない……」
 結人は力なく首を横に振った。
「それでも?」
 麻美はさらに訊いた。
「あれは蛹だった。愛生の家にはなぜかは解らないけど、とても大きな蛹があった。ぼくにいえるのはそれだけだ」
 結人は自らにいい聞かせるように頷いた。
 吹いてくる風を受けとめるように海に顔を向けると、碧く輝く海原のさらに遠くを見つめた。

 麻美たちが愛生の家を訪れてさらに何日が経っていた。
 愛生の姿をしかし大学のどこかで見かけることはなかった。もちろん連絡も取れないまま。だからといって麻美はまた愛生の家にいく気にもなれなかった。
 まるで見てはいけない悪夢がそこにあるような気になってしまうからだった。麻美ごときがその世界に触れてはいけない。そんな思いが彼女の足を止めていたのだ。
 それでもいったいなにがどうなっているのか、その疑問が頭から離れることは決してなかった。
 傾きかけた陽射しがカフェエリアの窓から射しこんでいる。講義を終えた麻美はひとりテーブルにいた。
 昼どきの喧噪はすでになかったが、それでもまだあちこちのテーブルでは学生たちがカップを片手に思い思いに夕刻のひとときを楽しんでいるようだった。
「ここにいたんだ」
 結人はそういいながら麻美の隣の席に腰を下ろした。
「やっぱり様子を見にいった方がいいかな?」
 麻美は不安げな顔で結人を見た。
「ぼくたちがいったとして、そこでできることはないと思うよ」
 結人はそういって自らに頷いてみせた。
「うん……」
 麻美は手にしたカップに視線を落とした。
「蛹って……。蛹ってどうなってるのかな?」
 麻美はひとりごちるようにいった。
「蝶の場合は完全変態だからね」
「種類によって違いがあるの?」
 麻美は結人の顔を見て小首を傾げた。
「蝉なんかだと幼虫のときに成虫と同じような姿をしているんだよ。それが脱皮して成虫になる」
「蝶は違うのね?」
「ああ、蝶の場合は幼虫とはまったく違う姿へとなる。蛹の中で神経とか呼吸器といった命に関わる組織以外はどろどろに溶けた状態になっているんだ」
「蛹の中で溶けてるの?」
 麻美は驚いたように軽く声を上げた。
「それがゆっくりと成長した姿へ再構成されるといえばいいのかな。蛹の中で新しい姿へとメタモルフォーゼしていくんだ」
「なんだか想像できない……」
 麻美は軽く溜息をついた。
「ちょっと乱暴な例えかもしれないけど、レゴってあるだろ。いろいろな形のブロックを組み合わせてなにかを作る。あれと同じだと思えばいい。それまでと同じブロックを使うんだけど、いったんばらばらにして」
「まったく別のものを作るってこと?」
「完全変態だからね」
 結人はそういって頷いてた。
「生まれ変わるってわけでもないんだ」
「考え方によるかな。まったく新しいなにかではないんだけど、でもそれまでとは違うなにかになることには変わりはない」
「不思議なんだね」
 麻美はそういって心配そうに頷いた。
 ──愛生……。

 瑠璃色の空の一角、東の空が東雲色に染まりはじめていた。やがてまるで帳に綻びが生じたようにひと筋の光が零れ出た。
 その光が締め切られたはずのカーテンの隙間から射してくる。部屋の真ん中にあった蛹にその光が当たると、上の方に罅が入りだした。その罅はちいさな裂け目となり、そして蛹を割りはじめた。
 眼醒めは突然だった。
 ふいに視界が広がり、愛生の眼に部屋に射しこみはじめた朝の光が見えた。その瞬間、眼の前の殻が縦に大きく割れて、愛生はそのまま床に倒れ込むように蛹から出た。
 一糸纏わぬ身体全体をぬめりのようなものが覆っていた。
 いったいなにが起こったのか愛生にはまったく解らなかった。まるで陽だまりのような温もりの中でただ夢を見ていたような気がする。ただ、どうしてそういう状態になったのか、愛生には解らなかった。意識がどこかを彷徨っているようでもあり、またどこかに留まりなにかを待っていたようでもあり、自分がいったいなんなのかすら解らない状態だったのかもしれない。
 愛生はその両手を眼の前に広げてじっと見つめた。真っ白な肌にぬめりのようなものが付いている。両手を擦ってみたけど、そのぬめりを取り去ることはできなかった。身体を見てみる。全身にそのぬめりが残っている。
 愛生はしばらく膝をついたままじっと床を見つめていた。窓から射しこんでくる光がすこしずつ強くなっていくのが判る。
 やっと動けるようになると愛生はバスルームに向かった。
 鏡に映ったその姿を見る。全裸にぬめりをまとったままの自分が見えた。
 髪、そして顔、胸から腹部、そして下肢へと視線を移していく。
 ──わたし、よね……。
 産形愛生が、そこにいる。
 やがて愛生はシャワーを勢いよく出した。

 久しぶりのはずの大学。いつものキャンパス、いつもの教室、そしていつものカフェエリア。なのにどこか違って見えるのはただの気のせいだろうか。それとも外界と隔絶されている間に、季節がすこしだけスキップして進んでしまっていたからだろうか。
 愛生はカフェエリアのテーブルで、窓から射しこんでくる陽射しをじっと見つめていた。
 テーブルの上に乗ったカップに注がれている珈琲。その味もいつも味のはずだった。
「愛生!」
 その愛生を姿を見つけた麻美が駆けるようにやってきた。
「麻美……」
 愛生はその姿をなにか懐かしいもののように見つめた。
「ねぇ、大丈夫?」
 麻美は心配顔で訊いた。
「久しぶりだね」
 愛生はそういってただ頷いた。
「部屋にいったんだよ、まったく姿を見せないから。結人とふたりで」
「そうなんだ」
 愛生はそういって軽く微笑んだ。
「ねぇ、どうして?」
「なにが?」
「だって部屋にあったのは……」
「よく解んない。ううん、違うね。まったくなにがなんだか解らない。でも、わたしはここにこうしている。それでいいんじゃない」
 愛生はそういって麻美の顔をじっと見た。
「なにがあったの?」
「だからわたしにも解らないのよ。ただ」
「ただ?」
「なんだかず~っと温もりの中で夢を見ていた気分なの」
「どんな夢?」
「はっきりとは覚えていないんだけどね。わたしがまだちいさかった頃のこととか、いろいろだと思う」
「そうか」
 麻美はそういって改めて愛生の顔を見た。
「なんだかちょっと変わった?」
 麻美はそういって首を傾げた。
「わたしはわたしのままだと思うけど」
 愛生はそういってテーブルのカップに手をやった。
「ねぇ、その髪の色、前と違うけど、とっても似合ってるよ」
「ありがとう」
「綺麗なシルバーだね。なんだか愛生らしい」
 愛生はそれには答えず、ただ微笑んだ。
はじめから

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