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ものがたり屋 参 釦 その 1

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

釦 その 1

 それは滔々とした流れ。
 刻まれたものが果てしなく続くのではなく、
 立ち止まることの決してない流れ。
 その流れに終焉はあるんだろうか?

 傾きかけた陽射しが栗色の髪をオレンジ色に輝かせていた。軽くカールした長い髪が涼やかな風に揺れる。
 つぶらな瞳、すらりと通った鼻筋、柔らかな膨らみを見せる頬、艶やかな唇、顎から喉へと流れるような曲線。
 どのパーツもぼくには完璧に見える。
 その横顔をぼくはただ黙って見ていた。いや、こういうのを見蕩れるというのだろう。
 秋の柔らかな陽射しが彼女の横顔をさらに美しく見せている。吹いてくる風に乗ってほのかに漂う香り。そのなにもかもがぼくの心を捉えて放さない。
 公園のベンチに並んで座っているだけなのに、彼女が隣にいることでぼくはいいようもないほど満たされた想いでいた。
 この瞬間をこのまま閉じ込めてしまいたい。そんな考えにも駆られてしまう。それほど彼女はぼくにとって完璧な存在だった。
 ふいに彼女がぼくを見つめた。
 その瞳で見つめられるとぼくはまるで魔法でもかけられたように固まってしまう。
 彼女の睫毛が揺れている。
 ぼくを見つめたまま、彼女は小首を傾げた。長い髪が揺れる。
「どうかした?」
 ぼくはやっとのことで口を開いた。ちょっと声が掠れてしまったのは、それまで彼女に見蕩れていたからだ。
「だって、じっと見られてると、なんだかくすぐったい感じがしちゃうの」
 はにかみながら彼女はぼくの眼をただ見つめた。

 草加部紗亜羅とはじめて言葉を交わしたのは夏がはじまる前だった。
 そろそろ梅雨が明けようかというその日。それまでの夏を思わせるような青空が突然曇りはじめて、いきなり雨が降り出した。午後の講義が終わったところだった。
 紗亜羅はただ困ったような表情で空を睨みつけていた。
 淡いピンクいろのシャツにデニムのミニスカート。ほかにも途惑ったように空を見上げていた人たちはいたはずだったけど、ぼくの眼には彼女、紗亜羅の姿しか映っていなかった。
 恋は墜ちるもの。だれがいっていたんだかよく知らないけど、たしかに紗亜羅を見たその瞬間、ぼくは間違いなく墜ちていた。
「なあに?」
 紗亜羅は首を傾げながら、たまたま持っていた傘を広げたぼくの眼をじっと見つめた。その瞳にまるで吸い込まれるように感じてぼくは、ただ黙って傘を差しだしていた。
「友だちがカフェエリアで待ってるの。そこまでいっしょにいってくれる?」
「そこまででいいの?」
 やっとのことでぼくは返事した。
「そこまででいいのよ」
 身体を寄せ合うようにしてひとつの傘にはいったぼくたちは早足でカフェエリアのある建物まで急いだ。
「ありがとう」
「いいんだ、ちょうど傘を持ってただけだから」
 ぼくは彼女の笑顔が眩しくて、その眼を見つめ返すことができなかった。そんなぼくの想いを知らず、彼女はそのままカフェエリアへと消えていった。
 ぼくにできることはその後ろ姿をいつまでも見続けることだけだった……。 
 ──あっ、これじゃ駄目だ。名前訊かなくちゃ。

「友だちがカフェエリアで待ってるの。そこまでいっしょにいってくれる?」
「そこまででいいの?」
 やっとのことでぼくは返事した。
「そこまででいいのよ」
 身体を寄せ合うようにしてひとつの傘にはいったぼくたちは早足でカフェエリアのある建物まで急いだ。
「ありがとう」
「いいんだ、ちょうど傘を持ってただけだから。ぼくは時任、時任智哉」
「時任君か。学部は?」
 紗亜羅が首を傾げた。その表情がたまらなく可愛かった。
「文学部。史学科なんだ。キミは?」
「わたしは経済学部。なんだってそんな学部に入っちゃったんだか、ちょっと後悔しているけどね」
 紗亜羅は軽く笑いながらいった。
「それじゃ」
 紗亜羅は軽く手を振ると、そのまま歩きはじめた。
「あ……」
 失望にも似た言葉にならない声がつい漏れてしまった。
 だからだろうか、三歩ほど歩いたところで紗亜羅はいきなり振り向いた。
「わたしは草加部紗亜羅。またね、時任君」
 それから学内ですれ違ったりするとふた言三言話をするようになっていた。
 あれは夏休みに入る直前だった。
 カフェエリアでランチを食べていると、テーブルのすぐ横に紗亜羅が立っていた。
「図々しいお願いかもしれないけど、一緒していい?」
 紗亜羅の頼みごとなら一も二もなかった。
「もちろん」
 ぼくは期待に胸を膨らませながら頷いた。
「よかった~。友だちとランチする約束してたのに、席がなくて困ってたのよ。助かったわ」
 紗亜羅はほっとしたように隣の席に腰を下ろした。
「ねぇ、なに食べてるの?」
「カツカレーだけど」
「やっぱり男の子なんだねぇ。がっつり食べる方?」
 紗亜羅は興味深げにぼくの顔を覗きこむようにして見た。
「どうかな、普通だと思うけど」
「そっか。あっ、ちょっと待っててね」
 紗亜羅は席を立つとしばらくしてランチのトレーを手にして戻ってきた。彼女の隣には友だちとおぼしき娘が同じようにトレーを手にして立っていた。
「彼女、本城麻美っていうの。ランチの約束してた友だち」
「ここ、いいの?」
 長い髪が綺麗な娘だった。
「遠慮いらないから」
 紗亜羅はぼくを見ながら頷いて、隣に腰を下ろした。それに習うように麻美もぼくと向かい合うようにテーブルについた。
「えっと、彼は時任君。史学科だったよね」
 紗亜羅の言葉にぼくはただ頷いた。
「麻美はね、日本文学科なんだ」
「はじめまして」
 麻美は軽く頭を下げた。
「どうも」
 なんていっていいのか解らず、ちょっと口籠もってしまった。女性とこうやってランチのテーブルを一緒にするなんて機会はいままでになかったからだ。たかが学内のカフェエリアのランチでしかなかったけど、なんとなく紗亜羅が隣にいると落ち着かない。
 紗亜羅たちはそれぞれランチを食べはじめた。ふたりが交わす会話はぼくにとってはまったく別の世界の話のようだった。ぼくはただ黙って聞いていた。
 というか聞くだけで精一杯だったといってもいいかもしれない。ふたりは互いのことや、共通の友だちの話題で盛り上がっていて、ふたりのことをほとんど知らないぼくには正直ちんぷんかんぷんだったのだ。
 それでもすぐ横に紗亜羅がいるということだけで、ぼくは満足だった。
 それからぼくと紗亜羅はときどき同じようにカフェエリアで話をしたり、ランチを伴にすることになった。彼女の友だちが一緒のこともあったし、やがてふたりだけということも多くなっていった。
 こうして互いのことを知るにつれて、ぼくは紗亜羅にどんどんのめり込むようになっていった。
 大学にいくと、まずキャンパスに紗亜羅の姿を探すようになっていた。学部が違うからおなじ講義を受けることはない。だから廊下を歩いているときや、カフェエリアなど紗亜羅がいるかもしれない場所を、つい彼女に出逢うことを期待しながら歩くようになっていた。
 後期の講義がはじまってしばらくは同じような状態だったけど、今日やっとこうしてふたりだけで公園のベンチで話ができるチャンスがやってきた。
 きっかけはなんのことはないカフェエリアの近くでばったり出逢ったことだった。いや、出逢ったというのは正確じゃないかもしれない。きっと紗亜羅がいるに違いないと思ってカフェエリアの近くで彼女が来るのを待っていたからだ。
 講義が終わり、あとは帰るだけというときにどうやら友だちとは別になってしまったらしい。紗亜羅は友だちが多くて、なかなか彼女独りきりというタイミングが少なかっただけに、絶好のチャンスだった。
「一緒に駅まで帰ろうか」
 ぼくは喉から心臓が飛び出しそうな思いで尋ねた。
 意外なことに紗亜羅は笑顔で頷いたのだ。
 駅のそばに公園があってときおり学生たちがベンチに座って談笑しているのを見かけたことがあったので、誘ってみた。
「ベンチに座らない?」
 傾きかけた柔らかな陽射しのおかげか、緩やかに吹く風が心地よかったからか、紗亜羅はまた笑顔で頷いてくれた。
 そしてこうやってふたり肩を並べるようにしてベンチに座っているというわけだ。
 ベンチの横にいる紗亜羅を意識しながら、ぼくは公園の様子を見た。あちこちに立っている樹の葉はまだ緑のままだった。やがて秋が深まると葉は落ちていくんだろう。
 木立の向こうにキッチンカーが止まってるのが眼に入った。
「草加部さん、なにか飲む?」
 紗亜羅はくすりと笑った。
「紗亜羅って呼んでくれていいよ。なんだか人から草加部さんって呼ばれると、聞き慣れないからちょっと変な気分になっちゃう」
「じゃ、紗亜羅。なにか飲まない?」
「いいけど、どこかにいくの?」
「ほら、キッチンカーがあるから、なにか買ってくるよ」
「あ、それじゃカフェ・オ・レがいい」
 紗亜羅は笑顔で頷いた。
 ぼくはすぐに立ち上がるとキッチンカーへ急いだ。
 キッチンカーはハンバーガーがメインになっていた。きちんとパティを焼いた本格的なバーガーだ。飲みもののメニューを見るとカフェ・オ・レはなかった。その代わりにカフェ・ラテがあった。
 ぼくは珈琲のブラックとカフェ・ラテを買うとベンチに戻った。
「はい」
 紗亜羅にカフェ・ラテを差し出すとぼくはベンチに腰を下ろした。
「ありがとう」
 紗亜羅はカップを受け取るとそっと口をつけた。
「ねぇ、なんか違う」
 不機嫌そうな顔で紗亜羅はぼくの顔を見た。
「どうかした?」
 なんのことなのか判らず、ぼくは思わず訊き返した。
「これ、カフェ・オ・レじゃないでしょ」
「え? それは……」
「マジ? もしかしてカフェ・オ・レってなんなのか知らないとか。ありえない」
 紗亜羅は憮然とした顔になっていた。
「ごめん。カフェ・オ・レがなかったからカフェ・ラテにしたんだけど……」
「まったくこれだもん。それってまったく別の飲みものだって知らないの? カフェ・オ・レは濃い目の珈琲に同じ量のミルク入れたものよ。カフェ・ラテはエスプレッソにスチームミルク入れるの。珈琲とミルクの組合せでも、まったく違うんだから」
 紗亜羅は持っていたカップをベンチに置くとそっぽを向くようにして腕組みした。
 ──機嫌損ねちゃった。やり直しだ。

「ほら、キッチンカーがあるから、なにか買ってくるよ」
「あ、それじゃカフェ・オ・レがいい」
 紗亜羅は笑顔で頷いた。
「もしなんだけど、カフェ・オ・レがなかったらどうする?」
「そのときはミルクティーがいい。ちょっと甘めがいいかな」
 ぼくはすぐに立ち上がるとキッチンカーへ急いだ。 
 キッチンカーはハンバーガーがメインになっていた。飲みもののメニューを見るとカフェ・オ・レはなかった。
 ぼくは珈琲のブラックとミルクティを買うとベンチに戻った。
「はい。カフェ・オ・レがなかったからミルクティにしたよ。ちょっと甘めのね」 
 紗亜羅にミルクティーを差し出すとぼくはベンチに腰を下ろした。
「ありがとう」
 紗亜羅はカップを受け取るとそっと口をつけた。
「ねぇ、美味しい。甘さもちょうどいい感じ」
 紗亜羅が嬉しそうに頷いた。
「たまには」
「たまには?」
「うん、たまにはこういうのもいいかなって。公園のベンチで夕暮れを楽しむのも」
「確かに気持ちいいよね。陽射しもやさしいし、風も穏やかで心地いい」
「それに」
「それに?」
 ぼくは紗亜羅の眼を見つめると思い切っていってみた。
「横に紗亜羅、キミがいると、もっと素晴らしい時間になる」
「え? わたしでいいの?」
「もちろんだよ、紗亜羅」
 改めてぼくは紗亜羅を見つめた。つぶらな瞳に見つめ返されると、ぼくはそのまま吸い込まれてしまいそうな気分になる。
 恋に墜ちたのははじめて彼女を見たときだったけど、いまはもうただ堪らなく紗亜羅のことが好きになっていた。
つづく

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