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ものがたり屋 参 凮 その 1

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

凮 その 1

 その風は裂け目から吹き込んでくる。
 そよそよそよそよ。
 まるでだれかの息吹のように。
 まとわりつくように、微かに吹く風。
 そよそよそよそよ。
 そこにあるのは、この世の裂け目……。
 そこにいるのは、だれ?

 どこにでもいるごくごく普通の人間。
 とくに目立つところもなく、高校でも特別なエピソードもなく、入学して、そしてそのままなにごともなく卒業した。大学もまったく同じだ。入学して、そしていまに至っている。
 高校ではまわりにカップルがいたけど、ぼく自身はだれかと特別な関係になったことはなかった。だれかの噂になることもなかったし、だれかから告白されるなんてこともまったくなかった。もちろん自分から告白することも……。
 友だちは何人かいたけど、それはただ挨拶をしたり、テストのことをあれこれ話すだけで、親友と呼べるような存在もいなかった。
 それは大学に入ったいまもそうだ。声を掛け合う知り合いはいても、それをそのまま友だちと呼んでいいのか、考えてしまう。
 気になる女性はいても、声をかけるなんてことは考えられない。
 だから講義を受けているときも、そして学食で食事をするときでもたいていはひとりだ。そんな自分のこれまでを振り返って、とくになんの不満もなかった。そしてこの先もきっとこのまま人生が続いていくだろうと思っている。
 もしかしたらこの先、恋愛をすることがあるかもしれない。いや、できたらそうだったらいいなとは思っている。けれどそれが現実に起こりうるのかといったら、ぼくは素直に頷けない。
 ──ほら、この娘だってピンと来ることがあるだろ。
 いつだったか、そんなことを声高に話しているやつがいた。ぼくがひとりで食事をしているときのことだった。
 ──それがこの彼女。
 隣に座っている女性を、友だちに紹介していた。
 ピンと来るというのが、そのときのぼくにはさっぱり解らなかった。いわゆる勘というやつだろうか。
 だとしたら、ぼくとはまったく無縁の世界の話だ。
 いままでにまったく経験したこともなかったし、そもそもその勘というやつとは、きっと一番かけ離れた存在なのがぼくだったからだ。
 それなのに、このところなんだが妙な具合になっている。
 いや、具体的になにがどうということはない。確証なんてものもまったくない。それでも、ふと感じることがある。
 それはなんていえばいいんだろう──気配とでもいえばいいんだろうか。
 そよそよそよそよ。
 たとえば知り合いがうしろから寄ってきて、声をかけられる寸前に相手の存在が判ることがある。それに似ているのかもしない。
 ああ、そこに人がいるな、という感じといえばいいだろうか。
 ──そこに、いるな……。
 そして振り返っても、そこにはだれもいない。それどころか辺りにはまったく人の影すらもない。なのに、ぼくのうしろにだれかの気配を感じることが……。
 いや、きっと気のせいなのだ。
 そんなことなどありえない。
 そう、勘などとはまったく無縁のぼくが、そんな気配を感じるなんて、理屈に合わない。そうだよ、理屈に合わない。
 でも、ふとした瞬間に、つい後ろを向いてしまう。なんだかそよそよとした風でも吹いていたような、そんなゆらぎすら感じることがある。
 そよそよそよそよ。
 それってなんだ?
 そして振り返ると、そこにはだれかがいるわけではなく、むしろぼくの後ろ半径二三メートルに人がいた試しがない。まるでその空間を避けるように人が歩いているんじゃないかと思ってしまうほどだ。
 それってなんだ?
 ──!
 ついこの間のことだ。肩を叩かれた。
 いやそれは勘違いだったんだろう。だって振り返っても、やっぱりそこには誰もいなかったから。
 でも、いまでもそのときの感触が右肩に残っている。あれはなんだったんだろう、仄かな香りも漂ってきたような気がした。
 そう、あれは女性だ。
 やさしく肩を叩かれたはずだった……。
 そよそよそよそよ。
 振り返って意外なことに、ぼくのすぐうしろにだけ人がいなかった。ぽっかりと穴が開いたように、ぼくのうしろの空間だけ、人がいなかった。
 学校からの帰りだった。プラットホームには人だかりがしていて、ちょっと気を抜くと肩がぶつかってしまうほど人がいたのに、ぼくの真後ろの空間だけ、ぽっかりと開いていた。
 まるでそこを避けるように人が改札へと向かっていた。
 そのときに感じたのは、ああ、風だ。そよそよと吹く風。
 そよそよそよそよ。
 ぼくはどこかおかしいんだろうか?
 雨の降る日だった。しとしとと静かに音もなく細かな雨が降っていた。
 ぼくは傘を刺して、ひとり家路についていた。
 空から細かな雨粒がまっすぐ落ちてきていた。
 傘に落ちる雨粒が微かな音を立てる。
 しとしとしとしと。
 そのとき、やっぱり肩を叩かれた。そのはずだった。
 けれど振り返っても、そこにはだれもいなかった。
 しとしとしとしと。
 傘を刺したまま振り返ったぼく。その傘が風を受けとめたことを覚えている。呷られるような感じといえばいいのかな。強い風じゃなかった。
 そよそよと吹く風。
 そよそよそよそよ。
 でも雨はまっすぐ降っていた。風なんかないのに、なぜ傘が呷られたんだろう?
 どうして、振り返ってもそこにはだれもいないんだろう?
 考えすぎなのかな?
 そうだよね、考えすぎなんだ。だってぼくはひとりだもの。ひとりだから考え過ぎちゃうんだよね。
 でも、感じるんだ。
 そう、すぐうしろに人がいるような気がして。
 そこからそよそよと風が吹いているような気がして。
 そよそよそよそよ。
 傘を持ったまま振り返ってもだれもいない。ごった返しているプラットホームで振り返ってもだれもいない。混雑した学食で皿が乗ったプレートを持ったまま振り返ってもだれもいない。キャンパスを歩いていても、教室にいても、どこにいても、そこにはだれもいない。
 なのに、ぼくはいったいなにを感じているんだろう。
 そよ吹く風……。
 そよそよそよそよ。
 それってなんだよ。
 講義を受けている最中だった。うしろから肩を叩かれた。とてもやさしく、まるで撫でるように軽く叩かれた。
 何度か続いた。
 けれどノートを録っていたぼくはただ前を向いていた。
 そして、はっきりと肩を叩かれた。ぼくは思わず振り返ってしまった。ぼくのうしろの席には、そしてやっぱりだれもいなかった。それどころかうしろの列にはだれも座っていなかった。
 ぼくのうしろの列にだけ、座っている人はいなかった。
 ぼくは驚いて立ち上がると、そのまま教室を飛び出してしまった。だれかの𠮟責する声が聞こえてきたけど怖くて振り返ることとができなかった。だって振り返っても、きっとそこにはだれもいないから。
 絶対にぼくのうしろにはだれもいないから。
 ただそよそよと風が吹いているだけだから……。
 そよそよそよそよ。
つづく

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