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ものがたり屋 参 隂 その 1

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

隂 その 1

 鬼はだれ?
 影を踏まれたら、つぎに鬼になるんだよ。
 さぁ、逃げて。どこまでも。
 影を踏まれたら、鬼になっちゃうよ……。

「ねぇ、とっても綺麗」
 成瀬はるかはそう呟くとその顔を横にいる添田仁志の肩にもたれ掛かるようにして埋めた。
 仁志は黙って頷くとその左腕ではるかの肩を抱き寄せた。
「なんだか夕陽が大きく見える」
 逗子湾の遙か向こうに見える山々の連なりの上に夕陽があった。紅くあたりの雲を色づけながら、陽はゆっくりと沈みはじめていた。
 春を待つ前のこの季節、空気が澄んでいるからだろうか、景色がとてもクリアに見える。そのために陽射しもまたスポットライトのように鮮やかにふたりを照らしていた。
 ビニールシートに座るふたりの背後には、ふたりの影が伸びている。長くそしてくっきりとした黒い影。
 その手でちいさな石を弄んでいた仁志がはるかの眼をじっと見つめるとやがておもむろに口を開いた。
「はるか、ぼくのこと愛してる?」
「もちろんよ」
 はるかは答えながらうっとりとした表情でその瞳を瞑った。仁志は肩を抱く腕に力をいれると、はるかの唇に自らの唇を重ねた。
「愛してるわ」
 ふたりの唇が離れるとはるかは仁志の眼をしっかりと見つめ返しながら答えた。
「いつまでも?」
「いつまでも」
 はるかが答えると、仁志はいきなり立ち上がり、背後に伸びたはるかの影に歩みより、その頭の部分にさっきまで弄んでいた石を、ちょんと置いた。
「これではるかはぼくのものだ」
「どういうこと?」
 うしろを見るために首を捻ろうとしたはるかは身体が動かなくなっていることに気づいた。はじめは身体が強ばったのかと思い、腕や足を動かそうとしたが、まったく身動きできなかった。まるで金縛りにでもあったように、身体全体を動かすことができなかった。
「仁志……」
 やっとのことで口を開こうとしたが、零れてくる声は風に飛ばされそうなほどあまりにも微かだった。
「大好きなはるか。大切にするから大丈夫」
 仁志はそういうとダウンコートのポケットからちいさな硝子の小瓶を取りだした。
 はるかの影の頭の部分に乗せた小石をつまみ上げると、その小瓶に放り込んだ。すると小石に引き摺られるようにはるかの影もその小瓶に吸い込まれ、それに続いてはるかの肉体もするりとその小瓶の中に入ってしまった。
 小瓶の口にコルクで蓋をすると、仁志はその小瓶をじっと見つめた。
 小瓶の中には黒くくっきりとした影とそしてちいさくなってしまったはるか自身が収まっていた。はるかは両手で小瓶を叩きながら、しきりになにか叫んでいたが、それはまったく外には漏れ聞こえることはなかった。
「これで、よし」
 仁志は大きく頷くと、広げていたビニールシートを片付けてトートバッグにしまい、砂浜を歩き出した。
 向こうから歩いてきた男女とすれ違ったけれど、さほど気にすることなく仁志はそのまま海岸を後にした。
「ねぇ、いまのってもしかして仁志さんかな?」
 すれ違ってすこししてから本城麻美が肩を並べるように歩いていた久能結人にいった。
 結人は自分の左の掌をじっと見つめながら訊いた。
「仁志さんって?」
「ほら、はるかの彼よ」
 結人は歩き去る仁志のその後ろ姿を睨み付けるようにして見た。彼の左手の薬指から小指にかけて黒くなっていくのが麻美にもわかった。
「なぜ?」
「さぁ、ただ近寄らない方がいいかもね」
「でも仁志さんだったら……」
「他人のそら似ってこともあるし」
 結人の言葉に麻美は頷いた。
「そうね、きっとそうよ」

「麻美! ねぇ、はるかのこと知らない?」
 佐々山瑞希から電話があったのは翌日の夕方だった。
「はるかって、彼女がどうかしたの?」
「今日のお昼、約束してたんだ。なのにすっぽかされた」
「え? はるかってそんなことしない娘じゃない」
 麻美は自宅の窓から外を見ながらいった。窓の外には冬の青空が広がっていた。かすかに雲が棚引いている。その雲が風に乗って、ゆっくりと動いていた。
「そうなのよ。でも、待てど暮らせど来なくて……」
「電話した?」
「もちろん。電話もメールも何度もしたわ。でも、梨の礫っていうの、まったく返事なし」
 最初はどちらかというと怒り口調だった瑞希の声のトーンがすこしずつ変わっていった。
「留守電?」
「ううん、違う。呼び出し音だけがず〜っと鳴りっぱなし」
「おかしいねぇ」
「そうだよね、変だよね。なにかあったのかな……」
 瑞希は心配そうな声でいった。
「わたしも連絡してみる」
「お願い。わたしも、そうだ仁志さんに訊いてみるね。麻美、ありがとう」
 そこで瑞希からの電話が切れた。
 窓の外に広がる青空に茜色が差しはじめていた。
 ──はるか……。
 麻美は、昨日海岸で見かけた仁志らしき人の後ろ姿を思い出していた。黒くなった結人の左小指とともに。
つづく

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