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ものがたり屋 参 隂 その 2

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

隂 その 2

 影法師が来たよ。
 影を踏まれたら、大変。その場で動けなくなっちゃうよ。
 さぁ、逃げて。どこまでも。
 影法師に影を踏まれたら、その場で捕まっちゃうよ……。

 その翌日。はるかのことを心配してあちこちに連絡をしていた瑞希は仁志と会うことになった。
「今日の夕方、海岸で仁志さんと会うことになったよ。またあとでなにか判ったら知らせるね」
 瑞希はそのことを伝えるために麻美に電話をしたが生憎の留守電だった。それだけ吹き込むと、仁志と会うために逗子海岸へと向かった。
「わざわざ、ありがとう」
 仁志の姿を見つけると、瑞希は歩み寄ってそう口を開いた。
 この日も天気は上々だった。クリアな空気のせいで遙か向こう側の山並みがくっきりと見える。その上空にはいまにも沈みそうな陽があった。オレンジ色に輝き、あたりの雲を茜色に染めていた。西の空は、その茜色でまるで燃えるようだった。
「どうかしたの?」
 仁志はその傾いている陽を見つめながらいった。
「はるかが、昨日から連絡がとれないの。なにか知らないかしら?」
「はるかなら、元気なはずだよ」
 そういうと仁志は瑞希の顔をじっと見た。
「でも連絡が取れなくて……」
 瑞希はちょっと気押されたようにいった。
「そうか、もしかしたらいま携帯が使えないかもしれない」
 仁志は右手で小石を弄びながら笑顔でいった。
「使えないって、どういうこと?」
「そうだ、今日、ぼくと会うことをだれか知ってる?」
「え? どうして?」
「いやなに、ちょっと気になったんでね」
 仁志は笑顔のままいった。
「麻美にはいろいろと相談してるけど……。でも、なぜ?」
 仁志はその言葉を聞きながら、背後に伸びている瑞希の影の頭のところへと歩いていった。
 そんな仁志を振り返りながら瑞希はじっと見つめた。
「ほかには?」
「麻美だけよ……」
 といいかけて瑞希は身動きできなくなっていた。
 仁志が彼女の影の頭の部分に小石を置いたからだった。
「どうしたの……」
 口籠もるように瑞希は話をしようとしたが、きちんと話をすることすらできなくなっていた。
「これでキミは身動きできなくなったはずだ。このぼくがキミの影を押さえているから。わかるかな、影踏みと同じなんだけどね」
 瑞希は自分の身になにが起こってるのか理解することができず、ただただ怯えた。しかし、その身体をうごかすことがまったくできなかった。顔が苦悶の表情に歪む。
「駄目だよ、そんな顔をしちゃ。せっかくの可愛い顔が台無しだ」
 仁志は酷薄そうな笑顔で瑞希にいった。
「さて、どうしようか」
 そんなことをいいながらダウンコートのポケットからちいさな硝子の小瓶を取りだした。小瓶を蓋していたコルクを抜くと、瑞希の影の頭の部分に置いた小石を取り上げて、その小瓶に放り込んだ。その途端、瑞希の影がその小瓶に吸い込まれ、それに続いて瑞希の身体ごとその小瓶の中に入ってしまった。
 小瓶の口にコルクで蓋をすると、仁志はその小瓶をじっと見つめた。
「困っちゃったな。好みじゃないんだよね、キミのことは」
 仁志はその手でその小瓶を弄びながら、しばらく考えていた。沈みはじめた夕陽がその仁志のやや尖った顎を照らす。その陽射しを横目で見ながら、仁志はやがて大きく頷いた。
「やっぱり好みじゃないから、手元には置けないよ」
 瑞希がすっぽりと入ってしまった小瓶にひとしきりそう囁きかけると、大きなモーションでその小瓶を海に向かって投げてしまった。
 放り投げられた小瓶はポチャンとちいさな音を立てていったんは沈んだが、やがて浮かび上がり、波間に上下した。小瓶の中で瑞希は自分の身に起こったことをまったく理解することができず、ただおろおろするばかりだった。やがて引きはじめた潮がその小瓶を沖へ沖へと運びはじめる。
 その様子をしばらく見ていた仁志は、やがて満足げに頷くと、ホッとひと息ついた。
「さぁ、家に帰ってはるかを眺めようかな」
 仁志はそのまま踵を返して海岸を後にした。

 今度は麻美の番だった。
「ねぇ、瑞希のこと知らない?」
 瑞希からの留守電に折り返したがまったく繋がらなかった。もちろんメールもしたが梨の礫。麻美は片っ端から友だちに連絡をして、はるかと瑞希のことを尋ねたが、だれもふたりの行方を知らなかった。
 それどころかなによりもおかしなことが、だれに尋ねてもふたりの存在を知る人がいなくなってしまったことだった。成瀬はるかも佐々山瑞希も、その存在そのものがかき消えてしまっていた。だれもふたりのことを覚えている人はいなくなっていたのだ。まるでふたりはこの世にはじめからいなかったように。
 あと尋ねるとしたら仁志しかいなかった。けれど、なにか心に引っかかるものがあった。それは海岸で仁志とおぼしき人物を見かけたからであり、また、もしかしたら瑞希が最後に会ったかもしれない人物だったからだ。
 はるかや瑞希のことは確かに気がかりではあったけれど、しかしひとりで仁志と会うつもりはなかった。麻美は結人に同行してもらうことを頼んだ上で、仁志と会うことにした。
 そこは逗子海岸とは国道を挟んだところにあるカフェだった。
「ぼくも心配しているんだよ」
 麻美と結人が席に着くなり、仁志は心配げな面持ちで口を開いた。
「どうやっても連絡が取れないんだ。どうしちゃったんだろう、はるか……」
 カフェの窓からは強烈な夕陽が差し込んでいた。カフェのいたるところをオレンジ色に染め上げて、仁志の顔もそしてその尖った顎も紅に染まっていた。
「ほんとうにどうしちゃったんだろう、ふたりとも……」
 麻美は仁志のその顔を見ながらぼそっと呟いた。
「ふたりともって、だれのこと?」
 仁志はほんとうに不思議そうに尋ねた。
「え? はるかと瑞希。だって仁志さん、瑞希とも会ったのよね」
 麻美の問いに、しかし仁志ただ首を横に振った。
「瑞希って、はるかの友だちの娘だよね。会いたいって連絡はもらったけど、それっきりなんだ。会ってないんだよ」
「そうなのね……」
 麻美はそういうと、じっと手元を見つめた。なにがどうなっているのか、まったく検討もつかず、目の前にいる仁志になにを尋ねたらいいのかも判らなくなっていた。
 ただ麻美の隣に座っていた結人だけは、黙って仁志のその酷薄そうな顔をじっと意味ありげに見つめていた。
「ごめん、ちょっとトイレにいってくる」
 麻美がそういって席を立つと、結人と仁志は互いの顔を静かに見合った。
「ぼくがどんな種類の人間か解っているようだね」
 仁志はテーブルの上に乗った珈琲カップに手を延ばしながら結人にいった。唇の端には薄ら笑いが浮かんでいた。
「おおよそね、予想はついている」
「どうやらキミもふつうの人間じゃないようだね。ねぇ、どんな力があるの?」
 結人は自信ありげに話す仁志の顔をじっと見つめたまま答えた。
「力なんてないよ」
「嘘だな。ぼくには解る。それは嘘だってことはね」
 仁志はそういうと、射しこむ陽射しをとても眩しげに顔を歪めながらそっとカップに口をつけた。
「ほんとうだよ。ぼくにできるのは、そうだな、そういってよければただ祓うこと」
「祓う?」
「ああ、邪悪ななにかを祓う。それだけだよ。キミのようにだれかにその力を行使することなんてできやしない」
「ねぇ、彼女とはどんな関係なんだい?」
 カップをテーブルに戻すと、仁志は伺うような目つきで訊いてきた。
「彼女って、麻美と?」
「そう、綺麗な娘だね。艶のある長い髪がとても美しい。もう、その腕で抱いたのかな?」
「そんなんじゃない。ただの大切な幼友達だ」
「そうなんだ、それを聞いてちょっと安心したよ。麻美か、ぼくの好みのタイプなんだよね」
 そう言い放つと仁志はまたニヤリと笑った。
「これだけはいっておく。麻美のことはぼくが命に替えても守る。だから、そのつもりでいた方がいい」
「なんだ、やっぱりそうなんだ。やっぱりね。でもね、ぼくは欲しいものには遠慮しないタイプなんだよ」
 結人がじっと睨みつけても、仁志はこともなげに受けとめて、ただ薄い笑いを返した。

 ──はるかのことで判ったことがある。 
 仁志から麻美に連絡があったのはその翌日の昼頃だった。
 カフェで仁志と別れた後、結人には気をつけるようにいわれたばかりだった。だからその仁志から会わないかといわれたときには躊躇した。
 それでもやはりふたりのことが心配でならなかった麻美は、仁志の家へいくことにした。もちろん結人に連絡はしたけど、しかし電話は繋がらず直接話すことはできなかった。
 ──今日の夕方、キミとふたりで話がしたい。
 なぜふたりなのか、気にはなった麻美だったが、しかしそんな気持ちよりも、はるかと瑞希を心配する方が勝っていた。そしてなによりも仁志がどんな人間なのか、麻美はまったく知らなかったのだ。結人にはただ気をつけるようにとしかいわれていなかった。
 添田仁志の家は桜山の奥にあった。バス通りから坂を上り、家並みが疎らになったさらに奥にあった。若い麻美だったがさすがに疲れを覚えた頃に、その家がやっと姿を現した。
 かなり古い洋館だった。森の奥にひっそりと建つその館は、まるでこの世界とは無縁のような表情をしていた。
 傾きははじめた夕陽がその館を照らし出していた。そこは応接室だろうか、大きな窓にその陽射しが当たり、照り返しが眩しい。
 その雰囲気に気圧された麻美だったが、覚悟を決めてその玄関にある呼び鈴を鳴らした。つぎに自分の身になにが起こるのか、そのときの麻美にはもちろん知る由もなかった。 
はじめから

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